私のオーディオ・ビデオ遍歴(第5回) ~サクラサク~
かつて私が愛用したAV機器の数々を自分史も兼ねて回顧する不定期連載「私のオーディオ・ビデオ遍歴」。
今回から大学編に突入します。
過去の記事は以下のリンクからお読みいただけます。
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第1回) ~全てはヤマトから始まった~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第2回) ~はじめてのビデオ~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第3回) ~わしらのビデオはビクターじゃ!~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第4回) ~ビデオカメラで太陽を撮ってはいけなかった頃の話~
尚、本記事に掲載したスピーカーやアンプの製品画像の一部は「オーディオの足跡」様から拝借させていただいています。
【ここ(福井)にはない景色が見たい】
昭和58年(1983年)。
私は大学受験の年を迎えました。
当時の私は「こんな田舎から離れてとにかく都会に出たい!」という思いで頭がいっぱいでした。
また、高3の夏休みに仲間たちと必死になってビデオ映画を作ったことが起爆剤となって、「将来は映画監督になりたい」と本気で思っていたのです。
そんな私の第1志望校は「日本大学芸術学部:映画学科」。
そして、第2志望は「大阪芸術大学芸術学部:映像学科」(受験当時は「映像計画学科」)
現在では映像について学ぶ大学もずいぶん増えているようですが、昭和58年当時はまだ珍しい存在で4年制となるとこの2校しかありませんでした。
もしも、この両方に落ちてしまったら・・・あとは2年制の専門学校しかありません。
両親には猛反対されました。
日大も大阪芸大もお金のかかる私立大学、しかも県外だからです。
さらに、「映像」などという将来飯のタネになるかどうかも分からないような学部学科ですから渋い顔するのも当然です。
しかし、自分の夢や希望を全否定された私はついカッとなって何度も酷い言葉を口走ってしまいました。
私「俺がやりたい事はここ(福井)には無い。どうしても東京か大阪へ出たいんや!。」
でも、現実に大学に行くお金を出してくれるのは目の前にいる両親です。
私は次第に反抗する勢いを失っていきました。
それでも、最終的に両親は私の志望校受験を条件付きで許してくれました。
その条件とは・・・
「受験は現役一回のみ。両方の大学に落ちた場合は福井で就職する」というものでした。
まさに現役一回限りの挑戦です。
もっとも、私は狡猾にも二重三重のすべり止め措置を用意しておきました。
日大芸術学部と大阪芸大にはそれぞれ映画(映像)学科の他に放送学科もあったのでそちらも受験したのです。
さらに大阪芸大には3月に2次募集があるというのでそちらの願書も準備しておりました。
そして・・・。

第一志望の日大には落ちましたが、第二志望の大阪芸大・映像計画学科に晴れて合格することが出来たのです!。
その日は村じゅうの人たちから祝福を受けました。
「●●さんちの■■ちゃん(私)が大阪の大学に受かったそうや」
「偉いの~」
今では大学進学なんて珍しくもなんともない事ですが、37年前の福井の小さな農村においては滅多にない大事件だったのです。
両親も「息子を大学まで行かせた親」と村じゅうから祝福と賛辞を受けて鼻高々でした(笑)。
私のほうは、親戚やご近所さんから合格祝いという名のお小遣いをたんまりせしめていて、まさに進学バブルとでも呼ぶべき状況でありました(笑)。
中でも母方の祖父母は「なにかと物要りだろうから」となんと10万円も包んでくれました。
この時の祝い金と正月にもらったお年玉を合わせると、当時の私の貯金は25万円以上はあったと記憶しております。
ちなみに、この春には3歳年下の妹も第一志望のK高校に合格していました。
K高校は私が通ったM高校なんかより遥かに偏差値の高い名門校で、そこに合格出来た妹の学力には私など足元にも及びません。
しかし、そんな妹も私の「大学合格」というインパクトには勝てなかったようです。
妹は「みんなお兄ちゃんばっかりお祝いして誰もあたしのこと褒めてくれない。」と不満タラタラでした。
【共に暮らす愛機たち】
そんな妹を尻目に、私は「夢の一人暮らし」に向けての準備を着々と進めていきました。
準備と言っても、住むアパートは大阪の叔父さんが大学の最寄り駅近くに見つけてくれていましたし、タンスやクローゼットなどの生活家具は家で使っていたものを運び込むだけです。
炊飯ジャー・冷蔵庫・電気ポットなどといった自炊用品も必要ですが、このうち新しく買うのは5合炊きの炊飯ジャーだけで、冷蔵庫とポットは叔父さんがどこからか中古品を調達してくれたので予算を大幅に浮かすことが出来ました。
こうして残った資金は前から欲しかったオーディオや最新型テレビにつぎ込みます。
家から持ち出したAV関連機器は以下の通り。

ビクターのステレオ/音声多重ビデオデッキ:HR-7650。
高校入学時のお祝い金とアルバイト代とお年玉を全額つぎ込んで買った自分専用のビデオです。
つなぎ録りが乱れないAEF機構にインサート編集・アフレコ機能まで装備していて、家庭用ビデオとしては完全にオーバースペックな機種でした。
夏休みにこれを使ってビデオ映画を作ったものの、ロケ場所の撮影許可を取らなかったために文化祭で上映させてもらえなかったというほろ苦い思い出も詰まったビデオデッキです。

父がこのテレビを買ってきたのは大阪万博の年(1970年)でした。
この時すでに13年選手ということになります。
13インチと小型ではありますが、実はこれが我が家の最初のカラーテレビでした。
これを買った頃の我が家は決して裕福ではありませんでした。
周りの家が次々とカラーテレビを買っているのに我が家はまだ白黒のままだったのです。
私(当時6歳)は友達の家で見たカラーテレビが羨ましくて「うちもカラーテレビ買ってぇ~」と毎日泣いてねだってました。
母は「白黒でもうちのテレビはまだちゃんと使えるやろ。」と相手にしてくれませんでしたが、父が「いや、これからのテレビは全部カラーになるんやから無駄にはならん。」と言ってこれを買ってきてくれたのです。
値段は分かりませんが、当時相当無理をしたと聞きました。
『帰ってきたウルトラマン』も『仮面ライダー』も『マジンガーZ』も全部このテレビで観ました。
その後18インチのカラーTVを買ってからは別間に移動して裏番組視聴用に使っていましたが、いつの頃からか電源を入れることさえ無くなりました。
この時久しぶりに電源を入れてみたところ、少し画面が暗く感じたもののTVを見るには十分だったので思い出深いこのTVを持って行くことにしました。

音楽再生用にはラジカセシャープ:GF-508。
ビデオ内蔵テレビで酷い目に遭わされたシャープ製ですが、このヘビー級ラジカセに限れば私にとって最高の製品でした。
スピーカーの口径が大きくて迫力ある低音が出るので、ビデオを繋いで映画を見るにもピッタリの音でした。

GF-508の強みはちょっとしたプリメインアンプ並みに接続端子が多いことです。
ライン入力にHR-7650の音声を入れてやれば音楽番組をステレオで観られますし、レコードプレーヤー専用端子にプレーヤーを繋げばレコード鑑賞もカセットテープへのダビングも出来ました。

さらに、外部スピーカー端子に別売りスピーカーを繋げば音のグレードアップも可能です。
オーディオはこのラジカセを基点にして徐々にアップグレードしていくつもりでいました。

レコードプレーヤーは中学時代にお年玉をはたいて買ったパイオニア:PL-1050W。
それまでは昔から家にあったポータブルプレーヤーでレコードを聴いていましたが、中学生になり自分の小遣いでレコードを買うようになるとどうしても本格的なレコードプレーヤーが欲しくなったのです。
このとき私がパイオニア製を選んだ理由はただ一つ、それはオーディオ専業メーカー製品への憧れでした。
当時の私はパイオニア・トリオ・サンスイ・オンキョーなどといったオーディオ専業メーカーの製品に対して強い憧れを抱くようになっていたのです。
これらの機器を全部大阪へ持って行くと言った時、妹からはずいぶん恨まれ口を叩かれました。
妹「お兄ちゃん、ビデオもラジカセもプレーヤーも全部持って行かんといて!。せめてビデオだけは置いてって!。」
私「アホ言え。これは全額俺が出して買った俺のビデオや!。」
確かに私がHR-7650を買えたのは最終的に妹が父に口添えしてくれたおかげだったのは事実です(第3回参照)。
しかし、これだけは絶対に譲るわけにはいきません。
妹に内心「済まない」と思いながらも、私は心を鬼にしてこれらの愛機たちを箱詰めしていきました。
これらの荷物は、入院した祖母の見舞いのために福井に来ていた大阪の叔父さんが車(仕事用のハイエース)で運んでくれることになりました。
実はこの頃、祖母は体調を崩して寝込むことが多くなっていたのです。
幼い頃よく映画を観に連れて行ってくれた祖母のことが心配ではありましたが、この時の私は「ついに都会に出られる!」という喜びと不安とで頭がいっぱいでした。
【憧れの大都会へ】
そして3月中旬、私は予定していたより少し早目に大阪入りしました。
待ちきれなかったのです。

国鉄(現JR)大阪駅に到着した私は、まず梅田周辺を散策してみました。
本当は受験で来た時も同じ風景を見ていたはずですが、あの時はまるで敵地に乗り込んで行くような気分だったので周りの風景なんか全く目に入っていなかったのです。
でも今度は違います。
大阪の街が自分を受け入れてくれたような気持ちで全てが眩しく輝いて見えました。

・・・が、しかし!。
同じ大阪でも、大学周辺(南河内郡)はご覧の通りのど田舎地域でした。
正直「福井のほうがまだマシかも?」と思ったくらいです(笑)。
ちなみに、遠くにそびえ立っている奇妙な形の塔はかつて高校野球で勇名を馳せたPL学園のモニュメントです。

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PLの塔はその後山賀博之監督(大阪芸大OB)のアニメ映画『王立宇宙軍オネアミスの翼』(’87)に登場するロケットのモデルになりました。
『王立宇宙軍』には山賀監督や庵野秀明監督をはじめ大芸大OBのスタッフが多数参加していましたし、当時の在校生の中にはアルバイトで動画を描いた者もいたそうです。
【六畳一間の我が城へ】

アパートは大学の最寄駅(といっても学校へはかなり距離がありましたが)の近鉄長野線・K駅のすぐ近くでした。

小さな押し入れと流しが付いた六畳一間の平屋建て。
流しには前の住人が残していった電気コンロがあって、インスタントラーメン程度ならこれで十分調理出来ました。
冷蔵庫と電気ポットは大阪の叔父さんがどこからか中古品を調達してきてくれたのでタダで手に入りました。
だから新しく買ったのは5合炊きの炊飯ジャーだけです。
家が農家だったのでお米は定期的に送ってもらえました。
トイレは共同で、風呂は近所の銭湯を利用します。
また、駅の近くにコインランドリーが2軒あるので洗濯機も不要です。
電話は管理人さんの部屋にある一台だけ。
住人に電話がかかってきた場合は管理人さんが呼びに来るという昭和の学生アパートそのものでした。
六畳一間ですから机やテーブルを個別に置くスペースなんかありません。
布団を敷く畳一枚分くらいのスペースも必要です。
そこで部屋の中央にコタツを常設してこれを机代わりにすることにしました。
冬は布団をかけて本来のコタツとして使います。

その正面に↑こんな感じの黒いローテーブル(幅75cm x 奥行40cm x 高さ40cmくらい?)を2台並べて置き、中央部に13インチテレビを、その左隣にビデオデッキ:HR-7650を置きました。

レコードプレーヤーは安定性を重視してタンスの上に置き、ラジカセはテレビの下に上向き傾斜させて設置しました。

続いてアンテナ配線作業です。
同軸ケーブルの加工は実家にいたときから自分でやっていましたから業者には頼みませんでした。
まずアンテナケーブルを2分配してその片方をHR-7650に接続し、そのスルーアウトをKV-1312Uに繋いで1チャンネルにビデオの映像が映るよう設定します。
もう片方はラジカセの外部アンテナ端子に接続します。
VHF電波にはFMラジオの周波数も含まれていたため、こうすることで綺麗にFMを受信することが出来るのです。
(現在の地上デジタル放送はUHF波であるためこの方法は使えなくなりました)

そしてビデオとテレビを大阪のチャンネルに再設定します。
私はこの時、「ああ、俺は本当に都会に出てきたんだな~」としみじみ実感したのでありました。
なぜならば。
福井にはNHK以外の民放局は基本的に2チャンネル(日テレ系とフジ系)しかありません。
(例外的に私の家を含めたごく一部の地域でのみ石川県のTBS系列局も映りましたが)
しかし、大阪ではNHK総合/教育に加えて、MBS、ABC、KTV、YTV、テレビ大阪、サンテレビと全部で8チャンネルも映るのです!。
どうか笑わないでやって下さい。
都会に生まれ育った人にとってはごく当たり前のことでしょうけど、田舎から都会に出てきたばかりの18歳の少年にはこんな事がとてつもなく嬉しいことだったのです。
TVとビデオの設営を終え、私はかねてから計画していた次の段階に進むことにしました。
スピーカーのグレードアップです。

私はそれまでシャープの大型ラジカセ:GF-508が出す音しか知りませんでした。
GF-508は30センチ口径のウーファーを搭載していて、映画でも音楽でも迫力ある音を楽しませてくれたラジカセです。
しかし、GF-508だけではどうにもならない大きな問題がありました。
物理的に左右スピーカーの幅をこれ以上広げることが出来ないのです。

しかし、GF-508には豊富な入出力端子に加えて外部スピーカー出力端子が装備されていました。
ここに別売りスピーカーを接続すれば、左右スピーカーの間隔を広げてより広いステレオ音響を楽しむことが出来るはずです。
【日本橋でんでんタウン(一日目)】

私は銀行から降ろした予算5万円を握りしめて大阪の電気街「日本橋でんでんタウン」へと向かいました。
スピーカーの予算を5万円以内としたのは、次のステップとして20インチクラスのビデオ端子付きAVテレビを買うことを視野に入れていたためで、その資金として20万円を残しておきたかったからです。
最初はでんでんタウンの最寄り駅が恵比寿町駅だとは知らずに日本橋駅で降りてしまったため、地上に出てどこにも電気屋さんが無いのでかなり焦りました。
しかも、まだ大阪に出てきたばかりで友達もいませんから私一人です。
知らない土地、しかもガラが悪いと聞かされていた大阪ミナミ(飛●新地やあ●りん地区にも近い)を大金を持って歩くのはかなり緊張したことを覚えています。

一番最初に入ったお店は老舗のオーディオ専門店:河口無線さんでした。
オーディオ雑誌で何度か名前を目にしていたので「有名店ならぼったくられることはないだろう」というそれだけの理由です。
しかし、一歩中に入った私はあまりにも風格あるその店構えに怖じ気づいてしまいました。
福井の家電量販店しか知らなかった当時の私の目には、ここのアンプ・スピーカー売り場がまるで宇宙船の内部のように見えたのです。

だって、松本零士先生の漫画に出てくるようなメーターが付いてる黒いアンプとか、タンスみたいな大きさのスピーカーとかが壁一面にずら~っと並んでいたのですから!。
しかもそのほとんどが値段数十万円のものばかり。
ラジカセの音しか知らないような奴が入ってはいけない場所のような気がして、私は逃げるようにこの店を出たのでありました。

次に入ったのはそのお隣のシマムセンさん。
こちらの店構えは、一見すると河口無線さんよりずっと親しみやすい感じがしました。

しかし、やはり当時の私に本格的オーディオショップの敷居は高過ぎました。
店員さんがいくら親切丁寧に説明してくれても、専門用語がほとんど解らない私には曖昧な返事しか出来ません。
それでもなんとか「ペア5万円以内でスピーカーを買いたい」と言うと「アンプは何を?」と聞き返されてしまいます。
この状況で「シャープのラジカセに繋ぐスピーカーが欲しい」だなんて恥ずかしくてとても口には出せません。
結局、シマムセンさんからもそそくさと逃げ出してしまいました。

あれから37年経ちましたが、河口無線さんにはその後一度も入ったことがありません。
あの重厚な店構えに対して一方的に感じた劣等感が今でも私の足を遠のかせてしまうのです(笑)。
一方のシマムセンさんには2007年(約四半世紀後)にビクター製プロジェクターを購入したとき大変お世話になりました。
この2軒は今も日本橋で営業を続けている数少ないオーディオショップです。

あと、当時は河口無線とシマムセンの隣にもう一軒昭和ケース音響というお店があって、この一角には3軒のオーディオショップが軒を連ねておりました。
昭和ケース音響跡には現在中古レコード店が入っていますが、建物の上部には今も「Audio Visual Field SHOWA」という文字が残っています。
オーディオショップを廃業してもビルだけは所有していて別の業者に貸しているのでしょうか?。
日本橋でんでんタウンには今もこんな不思議な光景があちこちに残っています。
その後も何軒かのショップを覗いて回りました。
ジョーシン電機1番館
現在も愛用し続けているヤマハのGTラック最初の2台はここで買いました。
大型量販店ではあまり値引きはしてくれないだろうと思って最初のうちは敬遠してましたが、4階の広々としたオーディオ売り場は品揃えが豊富でショールームとしてよく覗きに行ってました。
サウンドパル共電社
他の店とは違ってフロアが広くて試聴も頼みやすかったですが、値引きについては厳しめだったように記憶しています。
でも、数年後にここでマランツのサラウンドプロセッサー(RV351)やビクターのスピーカー(SX-700)を買いました。
ナック
ソニー専門店です。
確かこの翌年に「アビック(AVIC)」と名前が変わったと記憶しています。
本当にソニー製品しか扱っていなくて、スピーカーはソニー独自の平面スピーカーばかりだったように思います。
あと、この年の4月に発売されるベータハイファイビデオ(SL-HF77)を見てその画質の悪さに驚いたのもこの店でした。
喜多商店
「来た見た買うたの喜多商店!」というCMで有名でしたが、オーディオの品揃えは今一つだったと記憶しています。
小池オーディオ
ここは店員の態度が感じ悪くて、その後二度と行くことはありませんでした。
柳谷オーディオ
ここにも入ったはずですが全く覚えていません。
オーディオ・ナニワ
ここも立ち寄ったはずですが記憶に残っていません。
サウンド寺下
(良い意味で)一番印象に残ったお店です。
ここの店員さんは「オーディオにおいてはスピーカー選びが一番重要だ」と初めて来店した若造(私)に熱く語ってくれました。
その後も何度かお世話になった思い出深いお店です。
谷川電機
こちらはオーディオ機器販売店ではなく、ビデオテープやカセットテープを激安で買えたお店です。
(同種の店でもう一軒ダイテイという店もありました)
安いと言っても近年のBD-RやDVD-Rみたいに外国製の低品質なものではありません。
扱っていたのはフジフィルム、ビクター、ソニー、TDK、マクセルといった国産一流メーカーのテープばかりです。
お金に余裕があるときにはここでビデオテープを箱買いしたものでした。
上記のお店のうち河口無線・シマムセン・ジョーシン以外は全て日本橋から姿を消してしまいました。
往時のことを思い出すとなんだか切なくなります・・・。
結局、この日はカタログを集めてひとまず退却することにしました。
納得いく買い物をするためには、やはり事前の情報精査が必要なのです。
そして数日後・・・。
【日本橋でんでんタウン(二日目)】

翌日。
今度こそスピーカーを買うぞと再び日本橋へ乗り込みました。
恵比寿町駅を出て一直線に向かったお店は、親切で熱いハートの店員さんが好印象だったサウンド寺下さんです。
わがままを言って、カタログ情報から選び抜いた数組のスピーカーを同一のアンプで聴き比べさせてもらいました。
(アンプは確かサンスイのものだったと思います)
試聴の末、最終的に私が選んだスピーカーは・・・。
【昭和58年3月】
■スピーカー
パイオニア:S-X4 48,000円(ペア)

パイオニアのS-X4です。
カタログスペックで低域が40Hzまで伸びていて、実際に聴いても自分好みの心地よい音が出ていたのが気に入りました。
グレーと木目のものがありましたが私が買ったのは木目のほうです。
値段は「発売からもう2年以上経ってるから」と3割引きの3万3千円にしてくれました。

S-X4は元々システムコンポ「Private」用スピーカーだったものを単品売りしたものです。
しかし、実はJBLの副社長を招いて開発したというかなり気合の入ったスピーカーだったのでした。
また、店員さんが「JBLは映画館でよく使われているスピーカーです」と言っていたのが最後の決め手になりました。
私にとってオーディオの目的とは、音楽を聴くだけでなくビデオで映画を観ることも重要だったからです。
【バスレフ式と密閉式】
S-X4に決定するまで何度も比較視聴を繰り返した製品がありました。

同じパイオニアのS-X6です。
これは当時発売されたばかりの新製品で、お店の人もこっちを強く推奨してきました。
値段はペアで59,600円と高めでしたが2割引きならなんとか予算5万円以内に収まります。
しかし、私はこのスピーカーの低音がどうしても気に入りませんでした。
確かに低音の量はX4より出ていますが、なんだかドロドロとした感じで低域のなかの細部の音がはっきりしないのです。
「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」をきっかけにクラシック音楽も聴くようになっていた私にはこの違いがすぐに判りました。
コントラバスの重奏がひと固まりの低音にしか聴こえず、男声コーラスも各々の個性がはっきりしません。
このことを店員さんに言うと、彼はこう答えました。
「それは密閉式(X4)とバスレフ式(X6)の差です。お客さんは密閉式のほうがお好みに合うようですね。」

バスレフ式スピーカーは筐体に開けた穴から振動を外へ出すことで低音を増強する方式です。
確かに低音の量は出るものの、私の耳にはそれがドロドロと締まりの無い解像度の低い低音に聞こえました。
また、バスレフポート(穴)の位置や置き場所によって音の出方がまるで変ってしまうため、私みたいなオーディオ初心者には実力を発揮させるのが難しいと思われます。
一方の密閉式は純粋にウーファーユニットの振動だけで低音を再生します。
バスレフ式に比べてアンプのパワーが必要になりますが、その分低域に埋もれがちな細かな音もよく聴こえます。
低音の量については断然バスレフですが、質は明らかに密閉式のほうが上でした。
またバスレフポートの位置を気にする必要が無いため、置き方の制限も少ないです。
私はこの時まで「密閉型スピーカー」と「バスレフ型スピーカー」の違いについて全く知らなかったのですが、「今後新しくスピーカーを買うときは絶対密閉式にする!」と脳裏に刻み込みました。
(ちなみにその後買ったビクター:SX-700も現在使っているオンキョーのスピーカーもフォステクスのサブウーファーも全て密閉式です)
そうして私は、S-X4の代金支払いと配送手続きを終えました。
この時、店員さんからは「アンプもいかがですか?」と言われましたが、「いや結構です。間に合ってます。」とハッキリ断りました。
次の購入目標であるビデオ入力端子付き20型テレビのために預金は少しでも多く残しておかねばなりません。
「アンプは今あるラジカセで事足りる」と、この時はそう思っておりました。
ついさっき、密閉式スピーカーを鳴らすにはパワーのあるアンプが必要だと聞かされたばかりだというのに・・・。
【こんなはずでは・・・!?】
数日後、アパートにスピーカー:S-X4が届きました。
早速セッティングに取りかかります。

スピーカーはTVを置いたテーブルの外側に、自分が座る場所が頂点となる正三角形に配置します。
角度は内向きに振って自分の少し手前に焦点が来るようにしました。
これは以前オーディオ雑誌で読んだ理想的とされるスピーカーセッティングです。
そうです!。
私はこれがやりたかったのです!!。
これでラジカセでは絶対味わえない音場が楽しめるようになるはず・・・でした。

スピーカーの足元には駅前の工事現場から拾ってきた(おい)コンクリート製のドブ板とブロックを置きました。
こうして足元をがっしり支えることで低音がこもらず音の抜けが良くなります。
これも立ち読みしたオーディオ雑誌から仕入れたノウハウでした。

ラジカセ側の端子がミニジャックなので付属のケーブルだと片方に端末加工が必要になります。
これは面倒くさかったので市販のケーブルを買いました。
ソニー製かビクター製のどちらかだったと思いますが覚えていません。
値段は2千円くらいだったと思います。

とりあえず、このセッティングで音を出してみました。
最初にかけたレコードは私のリファレンスディスク「交響組曲・宇宙戦艦ヤマト」です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
あれ?
音に全然迫力がありません。
川島和子さんのスキャットは引っ込みがちで、あの勇壮な「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲も全然迫力がありません。
これではラジカセのスピーカーで聴いた方が何倍も良いです。
スピーカーケーブルの接続が逆相だったのかも知れないと+と-を入れ替えてみましたが余計変な音になっただけでした。
接続の間違いではないようです。
「あかん、全然あかん!。店で聴いたあの音が出ない!?。」
一瞬「不良品?。交換?。返品?。」という言葉が頭の中を巡りました。
「新品スピーカーにはエージング(慣らし)が必要だというがあれだろうか?」とも考えました。
・・・いや、心の底ではなんとなく分かっていたのです。
S-X4の音質が悪かった本当の理由を。
アンプです。
やはりしっかりしたアンプが必要だったのです。
いかにペア:4万8千円の安いスピーカーといえど、ラジカセに付いているようなICアンプでは鳴らしきれないのです。
そんなわけで、私はその日のうちに再び日本橋に足を運んだのでありました。
とはいえ、今度はサウンド寺下さんには行けません。
スピーカーを買うとき「アンプは間に合っています!」と断言してしまった手前、もし同じ店員さんに会ったらどんな顔をしていいか分かりませんから(笑)。
そう考えて今度は別の、それも初めて入るお店に行ってみることにしました。
当時シマムセンの隣にあった昭和ケース音響さんです。
先日、河口無線とシマムセンから逃げ出した私はその隣にあったこのお店の前を素通りしていたのです。
しかし、昭和ケース音響さんの店頭に「新入生・新社会人セール」という看板があったことから「ここなら安くて良い製品を買えるのではないか?」と思い中に入りました。
この日は買うべきものをほぼ決めていたので、店員さんに声を掛けられてもビビることはなかったです(笑)。
■プリメインアンプ
パイオニア:A-100 59,800円

アンプはパイオニア一択でした。
なぜならば、自分が持っているスピーカー(S-X4)もレコードプレーヤー(PL-1050W)もパイオニア製だからです。
最終的に選んだのは、この年発売されたばかりの新製品パイオニア:A-100でした。
値段は確か、8掛けで4万8千円だったと思います。
貯金額が一気に5万円も減ってしまいましたが仕方ありません。

パイオニア製プレーヤーで奏でた音を・・・

パイオニアのアンプを通して・・・

パイオニアのスピーカーで聴くのです。
文句は言わせません!
A-100は在庫があるとのことだったので、直接持って帰ることにしました。
一刻も早くちゃんとしたS-X4の音を聴きたかったのです。
しかし、10キロ近くもある荷物を持って地下鉄と近鉄電車を乗り継いで帰るのはかなり大変でした。

ゼェゼェ言いながら持ち帰ったA-100をTVの右隣に設置しました。
真新しいシルバーのフロントパネルが眩しかったです。

まずレコードプレーヤーをPHONO端子(アースも)に接続し、次にラジカセの入出力をTAPE1に繋ぎました。
当分の間はラジカセをチューナーとカセットデッキとして使うのです。
そして、ステレオビデオ:HR-7650の音声出力はCD/AUX端子に繋ぎました。

最後に極性を間違えないよう注意してスピーカーを繋ぎます。
ケーブルは付属のものを使いました。
最初に用意したミニジャック-スピーカー変換ケーブルが余ってしまいましたが、この3年後にサラウンドスピーカー用として再利用したので無駄にはなりませんでした。
【これだ!】

本物のプリメインアンプで鳴らすS-X4の音は想像以上に良い音で「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」を心地よく聴かせてくれました。
低音の迫力という点においてはラジカセのスピーカー(バスレフ式)のほうがあったと思いますが、繊細な音の表現力はA-100&S-X4が圧倒的です。
その後、キャンディーズ(中学時代大ファンでした)などの女声ボーカルものや喜多郎や冨田勲のシンセサイザー音楽を聴いているうち今度は高音部のキツさが気になり始めました。
そこで、やはりオーディオ雑誌で読みかじった知識を総動員してスピーカーとブロックとの間にインシュレーターを噛ませてみることにしました。
しかし、本物のオーディオ用インシュレーターなんて1セット数千円もします。
そんなところにお金をかけたくありません。

そこで、何か安くて身近な素材で使えるものがないか色々試してみました。
10円玉、フェルト、消しゴム、ゴム板などを代わる代わるスピーカーとブロックの間に置いて音を聴き比べてみて、最終的にはカマボコの底に付いている木の板を使った時が一番私好みの音になりました。
今思うと、あれこれ工夫して音の変化に一喜一憂していたあの頃がオーディオをやってて一番楽しかった時期だったように思います。
【S-X4とA-100のその後】

こうして手に入れた初めてのスピーカー:S-X4ですが、その後12年間大事に使い続けました。
最初の約5年間はメインスピーカーとして使い、その後はサラウンド用として活用しました。
S-X4が壊れたのは1995年1月17日の早朝でした。
そうです、あの阪神淡路大震災の時です。
当時私は大阪守口市のマンションに住んでいましたが、あの大揺れで本棚の上に置いていた右側のS-X4が落下し、運悪くS-X4のウーファー部分がテーブルの角に直撃して破れてしまったのです。
中のネットワーク配線部分も破損していて完全に修理不可能でした。
初めて買ったスピーカーで愛着もひとしおでしたし音に衰えは感じていなかったので、「あの震災さえなければまだまだ長く使えたはずだったのに」と残念でなりません。

プリメインアンプ:A-100もかなり長い間使いました。
この3年後くらいにスピーカー出力AB端子両方を使ったマトリクスサラウンドを始め、更にドルビーサラウンドプロセッサーを追加して本格的なサラウンドシステムのコアとして使い続けました。
’90年春頃に一体型AVアンプに買い替えるためサラウンドプロセッサーと一緒に下取りに出しましたから、実に7年も使い続けたことになります。
【一時帰省】

入学式を無事に終えて友達も数人出来た私は「ああ、これから本格的に大学生活が始まるのだな」と期待と不安にかられておりました。
そして、いよいよ翌週からは授業が始まるという週末、突然母から電話がかかってきました。
往復の汽車賃を出してやるから、授業が始まる前に一度福井の家へ帰って来いと言うのです。
約3週間ぶりに居間のテレビ周りを見た私はビックリ仰天!。

テレビの上には、なんと妹専用のビデオデッキが置かれていたのです。
機種はビクター:HR-7100。
操作スイッチを大きくして色分けして女性にも使いやすくしたビデオです。
定価は139,800円。
仮に3割引きだったとしてもおよそ10万円です。
いや、それだけではありません。
テレビ横のテーブルには・・・

パイオニアのオーディオコンポが鎮座していたのです。
レコードプレーヤー・FM/AMチューナー・カセットデッキが一体化されていて、しかもスピーカーは分離式。
これも定価129,800円もする代物です。
いかに進学祝いをタップリ貰ったとはいえ、妹の貯金だけで買えるとは思えません。
私「お前、これどうしたん?」
妹「えへへ~、お父さんに買ってもらっちゃった。」
私「買ってもらったって・・・両方合わせたら20万円以上するやろ。」
妹「だって、お兄ちゃんがビデオもラジカセもプレーヤーも全部持って行ったから家の中に音楽聴ける機械が一つも無くなって困るもん。お父さんにそう言ったらすぐ電気屋さんに連れて行ってくれた(笑)。」
う~む。
父は昔から妹には甘かったですから、名門K高校への合格祝いと誕生祝い(妹は3月生まれ)を兼ねて大奮発したのでしょう。
実に父らしいと思いました(笑)。
しかし、両親が私を呼びつけた本当の理由は妹のオーディオ&ビデオ機器を見せつけるためではありません。
幼かった頃の私と妹を何度も映画に連れて行ってくれた大好きな祖母のお見舞いです。
実は祖母はこの1年ほど前から体調が思わしくなかったのですが、二人の孫の進学を見届けて安心したのか私が大阪に出た直後に入院したのです。
私「で、おばあちゃんは?。」
妹「おばあちゃん、癌やって。末期の・・・。」
私「そうか、やっぱり・・・」
やがて父が帰宅すると、私と妹は車で病院に連れて行かれました。
車中では「大学が始まったらゴールデンウィークとか夏休みにしか帰ってこれんやろ。おばあちゃんに会えるのはこれが最後になるかもしれん。意識がはっきりしている今のうちにもう一度顔を見せてやってくれ。」と、父にしては珍しく殊勝なことを言うので返答に困りました。
病室に入ると、祖母は一ヶ月前とは別人のように痩せ細っていました。
しかし、久しぶりに私の顔を見ると「あら~、●●ちゃん、来てくれたの?。」ともの凄く喜んでくれました。
祖母が癌だと分かったのは実は一年以上も前のことだったそうです。
しかし、祖母は受験生である私と妹が心を乱さないようにと自分が癌であることを隠していたのです。
もっとも、年末頃から急に痩せ始めて遠方の親戚たちが次々に見舞いに来ていたことから私も妹も薄々勘付いてはいました。
そして、両親が私の県外進学を急に認めてくれたのも、余命いくばくもない祖母が説得してくれたからだったとこの時初めて知りました。
【サクラサク】

祖母を見舞った翌日、私は後ろ髪を引かれる気持ちで実家を後にしました。
駅へ向かう途中、道の右側に並んだ桜の木にはチラホラとピンクの花が咲き始めておりました。
それは忘れもしない今からちょうど37年前、昭和58年4月9日(日曜日)の朝でありました。
長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
次回は新しいテレビを買う・・・はずだったのが、ひょんなことからある別の物を買ってしまった話です。