ゴジラシリーズ全作品レビュー5 『三大怪獣地球最大の決戦』(1964年)
今作品から、ゴジラは人間にとって畏怖すべき存在ではなくなってしまいました。
かといってまだ人間の味方というわけでもありません。
『三大怪獣 地球最大の決戦』

<あらすじ>
自らを金星人と名乗る男装の女性が現れ、ラドンの復活やゴジラの出現を予言した。
警視庁の進藤刑事は、この女性が飛行機爆破事件で死亡したはずのサルノ王女だと見抜いて彼女を保護する。
やがて彼女の予言通り、阿蘇山から出現したラドンと海から現われたゴジラが上陸して戦闘を開始した。
サルノ王女を精神医学の権威が調べたところ、彼女には金星文明の滅亡後に地球へ逃れてきた金星人の血が流れておりそれが予知能力を発揮していることが分かった。
やがて、黒部ダムに落ちた隕石から金星を亡ぼしたというキングギドラが誕生する。
インファント島からやって来たモスラは、自分と力を合わせてキングギドラと戦うようゴジラとラドンに呼びかけるのだった。
【初見と所感】
最初に観たのは「東宝チャンピオンまつり」(1971年冬)における短縮版です。
同年夏の『ゴジラ対へドラ』に次いでこれが人生二度目の映画館体験でした。
全長版を観たのは、他の昭和ゴジラ作品と同じく「1983ゴジラ復活フェスティバル」の時です。
大阪の梅田劇場で観たのですが、夢中になった子供たちが「モスラ、早よチョウチョになれ!」と画面に向かって声を上げていたのを今でもよく覚えています。
その口調は応援というよりヤジに近かったかもしれませんが、「さすが大阪」と妙な感心をしたものです。
大人になってからの私は、ゴジラの擬人化が始まったこの作品を楽しみながらも複雑な気持ちで観ていました。
私が求めていたものは、人間にとって忌むべき存在であり圧倒的脅威でもあるというゴジラ像だったからです。
しかし、昨年の『シン・ゴジラ』でそうした「見たかったゴジラ」を見ることが出来た現在では、この作品を怪獣映画のクラシックとしておおらかな気持ちで楽しむことが出来るようになっています。
荒唐無稽が過ぎようがおふざけが入っていようが、93分間楽しませてくれればそれで良いのです。
【会話する怪獣たち】
とはいえ、モスラがゴジラとラドンを説得するシーンは、怪獣の神秘性が音を立てて崩れていくのを見るようです。

「力を合わせて地球をキングギドラの暴力から守ろう」

「俺たちの知った事か、勝手にしやがれ」

「人間はいつも我々をいじめているではないか」

「そうだそうだ」

「分からず屋ってのは人間だけじゃないんだな」


このようにゴジラ映画は荒唐無稽になっていく一方ですが、それでも93分の間私を楽しませてくれるのはひとえに本多猪四郎監督の人間に寄り添った演出のおかげです。
前作・前々作でも顕著だった避難する人々の描写の中に、今作では怪獣たちのために住みなれた家や村を失ってむせび泣く人の姿がありました。
事故や災害によって理不尽に住む家や親しい人を失えば、泣いたり呆然自失したりするのは当然のことです。
「怪獣が存在する世界」を生きる登場人物たちの自然なリアクションがあればこそ、様々な工夫をこらした特撮も生きてきます。
しかし、この映画には決定的に欠けているシークエンスがあります。
【自衛隊の攻撃シーンが無い】

『三大怪獣地球最大の決戦』は怪獣同士の戦いがメインの作品であるせいか、上陸したゴジラやラドンに対して自衛隊が阻止作戦をする場面が全くありません。
キングギドラに対しても同様で、これは片手落ちのように思います。
ゴジラやラドンやキングギドラの手に負えない強さを自衛隊との戦いで表現しておいてこそ、怪獣同士のバトルの意義があるのではないでしょうか。
人間対怪獣の図式が全く無いことから、この作品世界の人間たちが最初から他力本願な考えのようにも見えてしまいます。
せめて、ゴジラとラドンが上陸した時ぐらい自衛隊の応戦シーンがあっても良かったはずです。
それでこそ「人間はいつも我々をいじめているではないか」のセリフ(?)も生きるのではないでしょうか。
【特撮】
さて、私のこれまでのゴジラレビューでは特撮映像についてあまり触れていませんでした。
決して今までの特撮がダメだったわけではありませんが、前作までは本多監督の人間パートのほうに見所が多かったというのがその理由です。
物語が荒唐無稽な方向に傾いたこともあって、今回は円谷特撮にフォーカスします。
実は、昭和のゴジラシリーズで一番特撮シーンが凄いのはこの作品ではないかと内心思っております。


この作品、とにかく画が強いです。
イルカが逃げる後からゴジラがぬっとあらわれるシーンのセンスが素晴らしすぎます。
この映画の32年後に、金子修介監督の傑作『ガメラ2 レギオン襲来』が視点を変えてこのシチュエーションを再現しています。

キングギドラの3本の首がそれぞれバラバラに動くのが妙にリアルで、それぞれの首がどっちを向いて光線を吐くかわからないという危なっかしさが怖さにつながっています。
平成版のキングギドラは飛ぶときに首が座ってしまっていて生物感が感じられなかったです。


後の作品で何度も再利用されることになる、キングギドラの都市破壊シーンの数々です。
オブジェの作りが細かくて、破片が四方に飛び散る様が美しいと感じるほどです。
これらのショットは、キングギドラが登場する後の作品で何度も眼にすることになります。

この鳥居越しのキングギドラの画は名場面中の名場面です。
生活空間に現れた異形の怪物そのもので、名画と呼びたいほどの素晴らしさです。

残念なのは、終盤で富士のすそ野での怪獣団体戦になってしまうことです。
以降の作品でも建物がほとんどない広い場所での戦闘がほとんどになって、この作品の格闘シーンが随所で再利用されることになります。
後続作品のコストダウンの基本形という要素も持っている作品です。
【ヒロイン】

今回のキレイどころは若林映子さんと星由里子さん。
お二人ともゴジラ映画には出演経験があり、星さんは前作『モスラ対ゴジラ』のメインのヒロインでした。
そして今回の主役は、若林映子さん演じるセルジナ公国のサルノ王女です。

サルノ王女は自国の反対勢力から命を狙われているという設定です。
セルジナ公国というのが何処のどんな国なのかは分かりませんが、外見は日本人そのもので日本語を普通に話し、日本の新聞もリアルタイムで読める国です。
天本英世さんがフランシスコ・ザビエルみたいな衣装で出てきて、どう反応したものか困ってしまいました。

王女は謎の声に導かれて飛行機爆破の直前に脱出しますが、この声は若林映子さん自身のもののようです。
後の金星人の設定に関わる伏線になっています。
ちなみに、このサルノ王女脱出シーンは平井和正と石森章太郎の『幻魔大戦』の冒頭シーンの元ネタです。
『幻魔大戦』の連載開始が1967年ですからこの映画が先なのは確かですが、もしかするとさらに元ネタがあるかも知れません。

元ネタといえば、サルノ王女と進藤刑事の別れのシーンが『ローマの休日』を意識しているのは明らかです。
しかしパクリという印象はなく、最後の最後にこの要素を持って来ているのでむしろオマージュとして粋で印象に残る終わり方になっていると思います。
平成VSシリーズで『ターミネーター』や『インディ・ジョーンズ』の劣化パクリを臆面もなくやって失笑を買ったのとは雲泥の差です。
【違和感】

『モスラ対ゴジラ』の時にも書きましたが、今回も小泉博さんが学者役で出演されています。
確かに知的な役柄がよく似合う俳優さんではありますが、系統を同じくする作品に全くの別人役で連続出演させるのは小泉さんにも作品にとってもマイナスでしかないと思います。
『モスラ』『モスラ対ゴジラ』『三大怪獣地球最大の決戦』を続けて観るなら、今回もまた脳内補完が必要です

小美人を招待してテレビ番組の中で歌を披露させるシーンがありますが、ここだけは観ていて気持ちが悪かったです。
『モスラ』でネルソンに見世物にされていた時のイメージが蘇ってしまうのです。
それと、インファント島を「平和の島」と呼んでいましたが、前作『モスラ対ゴジラ』においては核の影響で死の島となっていたはずです。
昭和30年代の作品のアバウトさをとやかく言うのもナンセンスかも知れませんが、前作では核の恐怖を描いていた部分だっただけにこのような変更はするべきではなかったと思います。

小美人がモスラの幼虫について「一つ死んじゃった」という言い方をしたのも、怪獣をモノ扱いされたみたいな気がして寂しかったです。
シナリオ執筆時にもう少し言葉を選んでいただきたかったですね。

実はこの映画は、本来1964年末に公開予定だった黒澤明監督の『赤ひげ』の完成が遅れたため、その穴を埋めるために急きょ製作されたものでした。
『モスラ対ゴジラ』からは実質8ヶ月しか間隔がなく、実際の制作期間は半年も無かったでしょう。
しかし『ゴジラの逆襲』とは違い、当時乗りに乗っていた本多・円谷コンビとそのスタッフたちは質を低下させるどころか更に面白いものを作り上げてきました。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。