ゴジラシリーズ全作品レビュー11 『ゴジラ対へドラ』(1971年)
1971年(昭和46年)は日本映画界にとって激動の年でした。
邦画大手5社のうち、大映が倒産して日活がロマンポルノへ転向したのもこの年の出来事です。
東宝では前年に円谷英二特技監督が死去して特撮課は解散となり、同じく専属制度が無くなっておなじみの俳優さんたちの姿も見られなくなりました。
そんな中で公開された「ゴジラ」シリーズ第11作は、当時日本を騒がせていた公害問題をテーマとして取り入れた久々の社会派特撮映画でした。
怪獣バトルのみならず、実験的映像表現に内包されたエロス、グロテスクな人死に描写もあるシリーズ最大の異色作です。
『ゴジラ対へドラ』

<あらすじ>
海洋汚染が進む駿河湾で謎の怪獣によるタンカー襲撃が相次いでいた。
地元の漁師から奇妙な生物を持ち込まれた海洋生物学者の矢野は、海底調査を行うが謎の生物に襲われ重傷を負ってしまう。
ヘドラと命名された新怪獣は、今度は工場の排煙を求めて上陸してきた。
硫酸ミストによる被害が蔓延する街にゴジラが出現、へドラと激戦を繰り広げるが決着は付かない。
へドラは急速に進化を遂げて、いつしか飛行能力を得て白昼堂々出現するようになっていた。
矢野は息子の研のアイディアからヘドラを倒す方法を思いつき自衛隊に協力を要請する。
ヘドラはゴジラを上回るほどに巨大化した姿で富士山麓に出現した。
そこへゴジラも現われ、ヘドラとの最終決戦が始まる。
【初の映画館体験】
プロフィールにもある通り、これが私の映画館デビュー作です。
小学校一年生の夏休みでした。
一学期の成績が良かったことを喜んだ祖母が、ご褒美として初めての映画に連れて行ってくれることになったのです。
この時「東宝チャンピオンまつり」を選択したのも祖母でした。
当時私がテレビの『帰ってきたウルトラマン』に夢中になっていたことから、「怪獣が出る映画に連れて行けば喜ぶだろう」という単純な理由だったと思います。
連れて行ってくれた祖母もそれを許した両親も、そこで上映される『ゴジラ対へドラ』がこんなクレージーな映画だとは知る由もなかったはずです。

あのときの高揚感は今でもよく覚えています。
映画館の暗闇で初めて仰ぎ見る巨大なスクリーンと、そこに映し出されたゴジラの雄姿。
テレビと違って意識を集中する必要もなく、眼や耳に勝手に情報が飛び込んでくるような感じでそれに抗うことが出来ません。
卵から孵った雛が最初に見たものを親と思い込むのと同じように、私の脳に映画の原体験として刷り込まれてしまいました。

画面の奥からこちらを睨みつけてくる真っ赤な眼。
当時はこれが女性の●●●をモチーフにしたデザインとは知る由もなく、ただただ不気味で吸い込まれそうな恐怖を感じていました。


テレビの『仮面ライダー』で人間が解ける描写を見たことはありましたが、これほど明確に人が死ぬ場面を見せつけられたのはこの作品が初めてです。
ヘドロにまみれての圧死・窒息死や、高所から転落してなおかつ白骨化するなど、子供心にも「こんな死に方はしたくない」と思うようなものばかりでした。

悪評高いあのゴジラの飛行シークエンスについても、初めて見た私の目には頼もしいゴジラの能力の一つとして映っていました。
現在も、飛ぶ必然性について疑問はあるものの他の方たちが酷評するほどには抵抗は感じていません。

そして、綺麗なおねーさんの大胆な姿を目の当たりにして初めて抱いた何だかわけのわからない衝動と欲求・・・。
後に伝説の深夜番組「11P.M.」(火曜&木曜)を親の目を盗んでこっそり見たり、廃品回収のエロ本を集めたりしたことの原動力でありました。

もう一つ、忘れがたいイメージがこのマルチスクリーン・・・

・・・の中の一つ、ヘドロに埋もれて泣き叫ぶ赤ちゃん!。
照明スタッフのお孫さんを本当に泥の中に埋もれさせて撮影したそうです。
これはもう、一生忘れることの出来ない映像です。
連れて行ってくれた祖母は「子ども向け映画」ということで安心していたのか隣の席でぐうぐう寝ていました。
もし一緒に見ていたら「こんな残酷で教育に悪い映画はいけません」と、次から怪獣映画には連れて行ってもらえなかったかも知れません。

その日の私は、夏休みの絵日記に堂々6ページを使って『ゴジラ対へドラ』を観に行った時のことを書いています。
そのうち2ページは見開きでシネスコ画面を再現し、放射熱線を吐くゴジラと眼からビームを放つへドラの対決を画面いっぱいに描きました。
ビデオはもちろん書籍による資料も何も無かった頃です。
はっきりと記憶が残っているうちに、あの衝撃と興奮をなんとかして形に残そうと必死で書いたことを覚えています。
担任の先生はその力作に「たいへんよくできました」と花マルを付けてくれましたが、「でも、えにっきは1にち1ページにしましょうね」とやんわり注意書きを添えることも忘れていませんでした。
絵日記の現物が残っていないのが残念でなりませんが、このことは今でも同級生たちの笑い話にされています。
【登場人物】
矢野研(演:川瀬裕之)

研は『ゴジラ』(昭和29年)でいうところの尾形(宝田明)と同じ役回りのキャラクターであり、作品中のほとんどの主要場面に登場して状況を見聞しています。
この映画の主人公が、科学者でも政治家でもカッコいいヒーローでもなく私と同年代の少年だったことは、このメッセージ性の高い映画への感情移入を容易にしてくれていました。
矢野一家

研の父である海洋生物学者・矢野徹(演:山内明)と母の敏江(演:木村俊恵)。
とても意外なことですが、ゴジラシリーズの中で子供とその両親が一緒に暮らしているという「当たり前の家庭」が描かれている作品はこの『ゴジラ対へドラ』だけです。
前作『オール怪獣大進撃』も怪獣好きの少年が主人公でしたが、両親とも健在でありながら親子3人が一緒に映る場面は存在しませんでした。
他にも子どもがメインキャラクターとして登場する作品はありますが、いずれも片親だったり離れて暮らしていたり兄弟だけで生活していたりと「親子が一緒に暮らす当たり前の家庭」が描かれた作品はありません。
作品的には異端と呼べる『ゴジラ対へドラ』が、どうして一般的な家族の姿から物語を始めていたのか?
この映画には、まだまだ考察の余地が残されています。
毛内行夫(演:柴本俊夫)

この作品の中で最も理解に苦しむキャラクターです。
映画序盤での初登場シーンは爽やかな好青年風で、研を助けてくれる頼れる存在として活躍するものと思っていました。

ところがこのアングラ喫茶での行夫は、飲み過ぎなのかクスリでもやっているのか、虚ろな目をして幻覚に怯えるだらしのない姿が描かれていました。
もしこれが「東宝チャンピオンまつり」の一篇でなければ、ミキとの濡れ場があってもおかしくないような描写です。
行夫は終盤で無謀にも松明でへドラに立ち向かいますが、ヘドロを浴びてあっけなく死んでしまいます。
しかし、その死に対してミキや研が驚いたり悲しんだりする描写は一切ありません。
過去の怪獣映画にありがちだった「特定のキャラクターにヒーロー性を持たせる」ことを徹底して避けているのが分かります。
富士宮ミキ(演:麻里圭子)

♪
水銀 コバルト カドミウム 鉛 硫酸 オキシダン
シアン マンガン バナジウム クロム カリウム ストロンチウム
汚れちまった海 汚れちまった空~
『ゴジラ対へドラ』といえばこの主題歌「かえせ! 太陽を」が思い浮かぶという方も多いと思います。
しかし私は、大人になって映画を観返すまでこの歌についてはほとんど記憶に残っていませんでした。
おそらくオープニングのヘドロの映像やアングラ喫茶の派手なビジュアルといった視覚面の印象が強くて、歌には意識が向いていなかったものと思われます。

当時7歳になったばかりの私は、映画冒頭やアングラ喫茶でこの歌を歌い踊る珍奇な格好のおねーさんと、後半でずっと研に寄り添ってくれていたミキは別人だと思い込んでいました。
行夫の性格設定もそうですが、ミキは前半と後半でキャラクターの外見がまるで違うため小学一年生の認識能力の範疇を大きく超えてしまっていたように思います。
【板野義光監督】

中央の人物が板野義光監督 左は特殊技術の中野昭慶氏
『ゴジラ対へドラ』は板野監督の初監督作品になります。
前年の大阪万博の三菱未来館の映像演出を経て、田中友幸プロデューサーからゴジラ次回作について相談を持ちかけられたのがきっかけでした。
板野監督は40歳で監督デビューとやや遅咲きでしたが、水中映像やイベント映像等の撮影ノウハウに長けている方で、『ゴジラ』映画の3Dライセンスまで所有しているほど映像表現に深い造詣を持つ監督さんです。
脚本はベテランの馬淵薫氏との共作になっていますが、実際は板野監督が全面的に書き直していたとのことです。
これは板野監督が『ゴジラ対へドラ』において「作りたいもの」「撮りたい映像」のイメージを明確に持っていたことの現れでしょう。
しかし板野監督はゴジラ飛行シーンを強行したことで田中プロデューサーの逆鱗に触れてしまい、その後ゴジラシリーズから干されてしまいました。
【ゴジラと公害】
昭和29年の初代『ゴジラ』は、当時の日本人にとって最大の社会悪であった核兵器問題を主軸として戦争被害の記憶を脳裏に刻み直した作品でした。
第3作目『キングコング対ゴジラ』は、全体にコメディタッチでありながらもコマーシャリズムに踊らされる経済成長期の日本の風潮を描いていました。
続く『モスラ対ゴジラ』においても同様で、エスカレートする商業主義の傲慢に加えてインファント島の描写を通して十年ぶりに再び核についても問題提起しています。
初期のゴジラ映画は、その時代ごとの社会問題を機敏に取り入れたストーリー作りをしていたのです。
ところが『地球最大の決戦』『怪獣大戦争』『怪獣総進撃』では宇宙怪獣や異星人が相手になり、『南海の大決闘』『ゴジラの息子』では南洋の孤島を舞台としていたため、これらの作品には社会性を盛り込む余地がありませんでした。
『ゴジラ対へドラ』は、『モスラ対ゴジラ』以来久々に登場した社会メッセージを内包するゴジラ映画です。
昭和29年の『ゴジラ』第一作の核問題を公害に置き換えてリスペクトしているのです。

光化学スモッグでばたばたと人が倒れるシーンは前年の夏に実際にあった出来事の再現であり、これは一作目でいえば第五福竜丸事件にあたる出来事といえます。

前半でへドラが襲撃するのは公害が社会問題になった「四日市コンビナートの工場」や「田子の浦港」でした。
これは、初代『ゴジラ』が戦争の記憶を呼び覚ますかのように東京大空襲のB29と同じルートをたどって蹂躙したのと重なります。
さらに、へドラが通った跡に硫酸ミストによる大気汚染と金属腐食の被害が残るのは、かつてゴジラが蹂躙したあとには致死量の放射能汚染が残されていたことをなぞっています。
そして、ラストのテロップ「そしてもう一ぴき?」
これは昭和29年『ゴジラ』ラストシーンにおける山根博士の台詞そのものです。
【警察と自衛隊】
初代をリスペクトしている『ゴジラ対へドラ』ですが、過去の本多猪四郎監督作品とは決定的に違う部分があります。
本多作品では、怪獣出現に際して住民避難を誘導する警察官や規律正しくテキパキと行動する自衛隊の姿が必ず描かれていました。
しかし板野監督の『ゴジラ対へドラ』では、どちらも全く無能な存在として扱われています。


警察は「へドラが地上に現れた」との通報を「へドラは海のお化けだろう」と言って無視したため人的被害の拡大を招いています。
また、自衛隊は最初のへドラ出現から上陸まで一度も出動・応戦するところが描かれていません。
終盤の電極版作戦のくだりでも足並みが揃わずに計画が狂ったり、事故による電源消失に指揮官は喚き散らすばかりで頼りにならないことこの上ありません。
『ゴジラ対へドラ』製作の3年程前に「東大安田講堂事件」が起こったばかりで、「国や役人はあてにならない」「むしろ敵」という風潮があったことから意図的にこのような描写をしているものと思われます。
【睨】
「『ゴジラ対へドラ』は子供向け、この作品からゴジラが人間の味方になった」と言われます。
公害問題という重いテーマをゴジラを使って子供にも分かり易く描いた点では、確かに「子供向け映画」と呼んで差し支えないと思います。
しかしゴジラを人間の味方として描くことはしていません。

辛うじてへドラに勝利したゴジラが、去り際に人間たちをギロリと睨みつける場面があります。
ゴジラは自然環境のためにへドラと戦ったのであって決して人間のためではなかったということです。
これはあの怪獣映画の傑作『ガメラ2<レギオン襲来>』におけるガメラの立ち位置と同じです。
再びへドラを生み出すようなら昔のように人間社会に牙を剥くことも辞さないという、人間に対して怒りの意思を見せた最後の昭和ゴジラでした。
【公開日の謎】
些細なことですが、ちょっと気になっていることがあります。
Wikipediaをはじめ全ての公式資料において、『ゴジラ対へドラ』(を含む東宝チャンピオンまつり)の公開日は昭和46年7月24日(土)となっています。

<福井新聞縮刷版より昭和46年7月21日付>
ところが、当日7月24日の地元新聞にはどこにも「東宝チャンピオンまつり」の広告が無く、3日前の7月21日(水)の新聞に「本21日全国同時封切」と書かれていました。
7月21日といえば夏休み初日です。
地元映画館(福井東宝)がフライングで上映開始したのかと思いましたが、「全国同時封切」と明記されていますからそうではないようです。
たった3日の差ですが気になります。
他の地域ではどうだったのでしょうか?。
それとキャッチコピーが間違ってますね。
「地球が危ない!負けるゴジラ!公害怪獣へドラを倒せ!」
正しくは「負けるなゴジラ!」だと思いますが、こんなチョンボがあるということは東宝オフィシャルではなく地元映画館の独自広告だったのでしょうか?。

私にとって生まれて初めて映画館で観た映画であり、今も最も思い出深い作品です。
とめどなく長文になってしまうのを抑えることが出来ませんでした。
絵日記に6ページを費やした小学一年生の頃から全然成長していませんね(笑)。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。