ゴジラシリーズ全作品レビュー16 『ゴジラ』(昭和59年版)
1975年春の『メカゴジラの逆襲』を以って、『ゴジラ』シリーズは一旦終止符を打ちました。
75年『ジョーズ』
76年『キング・コング』
78年『スター・ウォーズ』
79年『エイリアン』
80年『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』
81年『レイダース 失われた聖櫃』
82年『ブレード・ランナー』
83年『ダーク・クリスタル』
84年『ターミネーター』
それから9年。
思いつくまま挙げてみただけでも、その間にはこれだけのアメリカ特撮(SFX)映画がありました。
アイデア、ストーリー、映像表現の面白さや斬新さ。
どれをとっても「それまで見たことない世界」であり、たとえ低予算であっても撮り方や編集の工夫で面白さの追求を諦めることがありません。
そんな作品群に接して目が肥えてきた日本の観客に対し、東宝が再び『ゴジラ』を世に放ちます。
『ゴジラ』(昭和59年版)

<あらすじ>
東都日報の記者牧吾郎は、休暇中ヨットに乗っていたところ遭難した第五八幡丸を発見。
救助した唯一人の生存者奥村宏の話から、遭難の原因は昭和29年に日本を襲ったゴジラであることが判明した。
政府はパニックを恐れて報道管制を敷いたものの、ソ連の原子力潜水艦が何者かに襲われ撃沈される事件が起こる。
誤解から対立を深めるアメリカとソ連を抑制し、かつ早期対応を図るため政府はゴジラの存在を公表した。
やがて、静岡県井浜原子力発電所にゴジラが出現し原子炉から大量の放射線を吸収していった。
生物物理学者の林田教授はゴジラが渡り鳥の鳴き声に強く反応していたことから、ゴジラの帰巣本能を利用して火山の噴火口に追い落とす作戦を立案する。
一方、アメリカとソ連は対ゴジラ兵器として戦略核兵器を東京で使わせろと三田村総理に迫っていたが、三田村は「非核三原則の順守」を盾にこれを断固拒否する。
そして遂に東京にゴジラが上陸した。
自衛隊はカドミウム弾を撃ち込んでゴジラの核反応を抑制する作戦を開始。
林田教授たちのゴジラをおびき寄せる音の周波数の研究も完成に近づきつつあった。
しかしそんな中、不慮の事故によりソ連の核ミサイルがゴジラに向けて発射されてしまう。

84年版『ゴジラ』は、『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までの14作品を「無かったこと」にして、昭和29年のゴジラ上陸から30年後ふたたび(2匹目が)出現したという思い切った設定リセットを行っています。
敵対する他の怪獣は登場せず、一匹の巨大怪獣に人間がどう立ち向かうかというシンプルな物語。
登場人物は総理大臣をはじめとする政府閣僚たち、長年ゴジラを研究してきた生物学者、そして狂言回し的存在の新聞記者とゴジラの最初の目撃者である青年とその妹といった面々です。
こうして改めて見ると、昨年の『シン・ゴジラ』に繋がる要素がひととおり揃っていますね。
ゴジラの動きを止めるのにカドミウムを打ち込みますが、これも『シン・ゴジラ』の血液凝固剤の元ネタのように思えます。

また、本作の民間人サイドの主人公の名前が”牧吾郎”でした。
ちなみに『ゴジラの息子』で久保明さんが演じていたルポライターも漢字違いの真城伍郎であり、「マキ・ゴロウ」という名前はよほどゴジラと相性が良いようです。
【1984年12月】
公開初日に大学の友達数人と観に行きました。
当時は入れ替え制ではなく一日中映画館に居座ることも出来たので、「最低でも2回は観るぞ!」と早朝から息巻いて映画館へ入って行ったのを憶えています。
しかし・・・。
期待に胸ときめかせて劇場入りしたものの、その2時間後には口をへの字にして腕組みしたまま出てきてしまいました。
何かが違う!
怪獣映画なのにまるで血沸き肉踊らないのです。
テーマ性が前面に打ち出されていた昭和29年版の『ゴジラ』も、中盤では問答無用のゴジラ襲撃シーンが20分以上に渡って繰り広げられていました。
幼い頃に初めて観た『ゴジラ対へドラ』のほうがよっぽど怖くて子供心にも社会不安を感じ取ることが出来ましたし、単純に映画としてなら『ゴジラ対メカゴジラ』のほうがよっぽど面白かった、と心底思いました。

真面目に作られているのはよく分かります。
ゴジラという得体の知れない巨大生物が現われて、無慈悲に東京の街を焼き払い蹂躙していく。
人間の持つ兵器は役に立たず成す術もないが、それでも動物としての本能を利用してなんとか撃退する。
そんな現代を舞台とする第一作のようなストイックな『ゴジラ』。
熱望してやまなかった映画が実現したはずなのに全然満足出来ないのです。

この時は、例の武田鉄矢の悪ふざけが過ぎて緊迫感をぶち壊しにしたせいだと思っていました。
特撮場面にしても「円谷のお家芸にこだわっている限り、所詮アメリカのSFXには太刀打ちできない」と失望を隠せませんでした。
【再編集】
前々作『ゴジラ対メカゴジラ』を観ていた時に、ベルベラ・リーンの歌が長すぎて映画の流れを損ねていると感じたことから、あの歌のシーンを丸ごとカットしてみたことがあります。
映画のリズムを狂わせストーリー進行のブレーキになっていたシーンを削除することで、クライマックスへの突入がスムーズになり本当に何度見ても楽しめる作品になったと思います。
それにならって今回『84ゴジラ』の気になる部分、気に食わない部分を可能な限り再編集してみることにしました。
削除その1、第五八幡丸のミイラ


ハチマキの柄から見て、このミイラの主は第五八幡丸の通信士のようです。
生きてる姿を演じていたのは『メカゴジラの逆襲』の時にも紹介した加藤茂雄さんですが、当時俳優業と漁師を掛け持ちしていたという加藤さんにはまさに適役です。
ただ、このミイラの造形がまるで紙粘土で作ったみたいな雑な代物で、その見せ方も椅子に座っている後姿を振り向かせると死体だったといういかにも旧態然とした演出で処理されています。
後で出てくる巨大フナムシ(ショッキラス)も大概ですが、映画が始まって早々にこんなお粗末な代物を見せられては気持ちが萎えるというものです。
私たち観客はこの時すでに『エイリアン』のフェイスハガーを見てしまっているのです。
『メカゴジラの逆襲』までのように脳内補完しながら楽しむことはもう不可能で、造形や見せ方にはもっと工夫を凝らして欲しかったものです。

この通信室のシーンの削除は比較的容易です。


牧が階下に降りてくるカット。
ライトを左の通信室へ向ける直前にIN点を打ちます。
そして次の部屋へ向かうまで,、この間約43秒。

削除!。
これで、映画の初っ端からお粗末な造り物を見ないで済みます。
しかし、ここで予め牧に変死体を見せておかないと次の場面で異様な死体がゴロゴロしているのに牧が驚かないという不製脈が生じてしまうのも確かです。
ここは理屈を取るか没入感を取るかで決めても良いかと思います。
削除その2、新幹線


ゴジラの足元めがけて新幹線が突っ込んできてしまう。
あわててブレーキをかける運転士。
阿鼻叫喚に陥る乗客たち。
・・・いやいや、1984年ともなれば新幹線はおろか在来線だってコンピューター制御で運用管理されてる筈ですから、ずっと前の地点で自動停止しているはずです。
54年版の『ゴジラ』や33年の『キング・コング』へのオマージュなのでしょうが、ほとんどの観客から失笑を買った場面でした。
更にその新幹線車内で、神父姿のムッシュかまやつが何故かヘラヘラと笑っていたことから失笑が嘲笑に変わっていきます・・・。
この新幹線のシークエンスは編集でまるごとカットしてしまうことが可能です。


新幹線が走ってくるカットから、ゴジラが手に持った車両を投げ捨てて歩き出すまでの約1分02秒。
実はこの間、うっすらと音楽が鳴っていてブツ切り状態になるのですが、S.Eにかき消されて全く気になりません。
削除その3、武田鉄矢関連

ゴジラ出現の騒ぎに紛れて一流ホテルで豪華な食事を目論むホームレス。
当時「3年B組金八先生」で人気だった武田鉄矢が特別出演しています。
プロデューサーや東宝上層部の意向だったのかもしれませんが、それにしても場の空気を壊すことはなはだしいキャラクターです。
ストイックなこの映画で唯一笑いを取ろうとしている場面ではありますが、作品の雰囲気と乖離しすぎていて全く別の種類の笑いになっています。
ギャグとユーモアは全くの別物だということを理解していないのでしょう。
しかし、橋本監督も本当はこのシーンに違和感を感じておられたのではないでしょうか?。
そう思えるのは、彼の出番は編集できれいさっぱりカットしてしまうことが可能な作りになっているからです。


厨房で食材を漁る登場カットから、「でっかい顔して歩くんじゃねえ、この田舎もんが!」とへたり込むこのカットまでバッサリ切ってしまいましょう。
この間約55秒。
削除後は前後の繋がりもスムーズで、こんな場面が存在した痕跡さえ分からないほど綺麗に繋がります。
武田鉄矢はこの後にも登場して、牧と尚子がビルから脱出する時に手伝ってからしばらく行動を共にします。
やってみて驚いたのですが、この一連のシーンも本編の流れを全く損なうことなく削除することが可能です。


まずは崩れた階段のシークエンスそのものを無かったことにしてしまいます。
牧と尚子が降りてきて下を見るカットから、崩れた階段のカットまで。
わずか2カット7秒弱ですが、ここは音声処理が必要です。
音楽が鳴っている途中を切ることになるため、そのままカットすると音楽がブツ切りになってしまうのです。


「オーディオ・クロスフェード」タグから「リニア」を選び接続点に貼り付けます。
これで音楽が徐々に消えていくのと同時に次のカットのヘリの音が立ち上がって自然なつながりになりました。


さらに牧が消化ホースを持って来るカットから、ホースを支えている武田のカットまでの約55秒間もカットします。

「災難と思うな、チャンスと思え!」
3人が脱出した後のこの辺のくだりもバッサリ切ってしまって問題ありません。


ビルから出てきたこのカットから、武田が気を失うこのカットまで1分25秒を削除。

これで『ゴジラ』(昭和59年版)から武田鉄矢の姿を一掃することが出来ました。
でも残念ながらオープニング・クレジットやエンドロールの名前だけは消せません。


ここで示したカットポイントを全て削除すると、総尺1時間43分20秒18フレームから1時間38分13秒08フレームと5分短くなっています。
余計な箇所をそぎ落としたうえで改めて見直すと、ゴジラ襲来という仮想の出来事をストイックにシミュレートしようとした作品であることが明確になります。
しかし、リアリティに凝り固まってエンターティメント部分が置き去りにされてしまい、結果として武田鉄矢のシーンが悪目立ちしていたようです。

合間に差し挟まれていた新幹線や武田鉄矢関連のシーンを削除すると、驚くほどゴジラに見せ場が無い映画であることが分かります。
ゴジラが自発的に”攻撃”をしたのは上陸時の突堤を放射火炎で一掃した時と、スーパーX戦でビルに大穴を開けるほどの熱線を吐いた時くらいです。
高速道路の炎上は墜落したヘリによる誘爆に過ぎず、有楽町のビルに至っては地下道に足を踏み抜いてよろけてぶつかっただけという、なんとも拍子抜けさせてくれるゴジラです。

「この田舎もん!新宿歩けば都会人だと思ってんだろ」
当時の私も福井から大阪に出てきて間もない「田舎者」だったせいか、この地方出身者を蔑視するような差別的セリフを聞いたときは不愉快でなりませんでした。
私がこのキャラクターを毛嫌いする理由の一つでもあります。
しかし、このシーンを削除したうえで改めて観返してみると、『ゴジラ』(昭和59年版)のゴジラ像を最も端的に言い表していたのはこのセリフだったように思えてきます。
自分より巨大なビル群の中で右往左往するばかりといったゴジラの姿は、確かに都会で戸惑い粋がろうと躍起になって周囲に迷惑をかけてしまう地方出身者そのものでした。
まさかそんな風刺を込めた映画ではないでしょうが、少しこの映画の見え方が変わってきました。
その他
あと、編集ではどうすることも出来ないがやはり気になる部分をいくつか。
1、沢口靖子の学芸会レベルの演技

こればっかりは撮り直してもらうしかありませんね(笑)
編集でどうこう出来る問題ではないです。
でも不思議なもので、何度か見ているうちに慣れてきます。
沢口靖子は今ではすっかり「科捜研の女」ですが、この頃は健気でポッチャリしていて可愛かったです。
2、実景と合成したゴジラのサイズが滅茶苦茶

実景との合成シーンにおいてゴジラと建物とのサイズ差の整合がとれていません。
ゴジラがまるで山のように超巨大に見えて、下半身は地面にめり込んでいるかのようです。
9年前の『メカゴジラの逆襲』でも同様のミスショットがありましたが、実は5年後の『ゴジラvsビオランテ』にも存在しています。
こうした大掛かりな怪獣特撮映画を作る機会が少なかったために、技術研究が進まなかったのだろうかとさえ考えてしまいます。
3、奥村兄の宙づりアクション

ビル最上階に取り残された林田教授・牧・尚子の元に自衛隊ヘリに乗ってやってきた奥村。
水先案内人ということで奥村がヘリに乗っているのは分かります。
しかし、あの乱気流の中で民間人である奥村がヘルメットも被らず宙づりになって妹たちのいる窓に近づく危険な役目をするのはどう考えても変です。
それはヘリに同乗していた自衛隊員の仕事でしょう。
事件に関係した一般人の主要人物を、自衛隊や警察を差し置いて無闇に活躍させてしまうのは東宝特撮映画の悪癖です。
4、スーパーXへの違和感

総理大臣への報告会議シーンにおいてスーパーXは名のみ語られます。
しかし、その実物が姿を見せるのは中盤以降。
そのデザインの非現実感もあいまって、ヒーローメカの如く突然颯爽と現れたという印象が否めません。
閣僚たちが整備中のスーパーXを視察するとか、報告時にスーパーXの映像を見せるといった視覚面での伏線がありませんでした。
それと、ゴジラの足元に一般市民が逃げ惑っているのに、全くお構いなしに攻撃を開始するのはいかがなものかと思います。
【平成シリーズの土台として】

新時代の『ゴジラ』を作ろうと意気込んだ作品でありながら、その制作意識は旧昭和シリーズ時代のままだったことがその足を引っ張っていたと考えます。
旧態然とした演出技法。
演技力未知数の新人女優の起用。
一般人キャラクターが特別待遇されすぎる脚本。
”スーパーX”という作品世界にそぐわないデザインとネーミング。
時の人気タレントを集めた顔見せ興行。

本当に残念で勿体ない企画でした。
しかし本作品には、後のVSシリーズの監督になる大河原孝夫氏や山下賢章氏が助監督として参加しています。
そして『シン・ゴジラ』の樋口真嗣監督もこの作品への参加がキャリアのスタートになっているのです。
内容面以外でも、この映画が後の平成シリーズの土台になっていることは間違いありません。
最後までお付き合いいただきありがとうございjました。
次回の『ゴジラ』は、本作の続編にあたる『ゴジラvsビオランテ』です。