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映画と日常

『君の名は。』その2:初回と2度目では見えるものが違う

トガジンです。

3回に分けてこの映画を語らせていただいております。
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2回目の今日は、映画の中の気になる点をあれこれ紹介してみたいと思います。
その中には、個人的に「致命的」とも思える欠陥が含まれています。

そもそも「突っ込みどころ」なんてのはどんな作品にもあるものです。
しかしこの映画のそれはあまりにも多く、作劇するうえでの「迷い」すら感じます。
しかも、終盤においてのあるシーンの欠落は「監督がやりたいこと」「映画が目指すもの」が見えなくなるほどのものでした。


以下、いくつか気になるシーンを挙げていきます。
物語の進行上でストレスになるような点に絞っています。


瀧は世事に疎い?
君 瀧
瀧が彗星落下により3年前に三葉たちが既に死んでいると知って愕然となるシーン。
私もあのどんでん返しには驚き、そしてその後の展開を見守りました。

でも2回目に観たときには、「コイツは三年前にこんな大災害があったことを知らなかったのか?。」と思ってしまいます。
まさに奥寺先輩とツカサ君のリアクションそのものです。
今の日本に、5年前の東日本大震災とそれに伴う福島原発事故を知らないという高校生がいるでしょうか?
ましてや、被災地のすぐ近くまで来ているというのにそれに思い当たらないのは鈍感すぎます。

「あれは瀧の記憶が消えつつあるから」と弁護する人がいました。
いえいえ、それは脳内補完というものです。
糸守町の災害はタイムパラドックスでも不回避ですからその記憶が消えるはずはありません。

ちなみに、「記憶が失われる」「スマホの日記が消える」という描写もタイミングがおかしいです。
これらの事象が起こるのは歴史が変わる時であり、少なくとも口噛み酒を飲んでもう一度入れ替わってからであるべきです。
しかも「名前が思い出せない」といいながら、口噛み酒やご神体の場所やそれらにまつわるおばあちゃんの話はしっかり覚えていたのも変ですね。

この記憶に関する一連のご都合主義は、二度目に映画を観たときに非常に間抜けに見えます。
しかし初鑑賞の時点では、観客は全然気になることはありません。
何故か?。
この映画で彗星落下と糸守町壊滅の事実が明示されるのは、瀧たちが現地に訪れて以降だからです。
そのため初めて見た段階では、観客は物語の矛盾点や意図的隠蔽に気付かないのです。

この映画は初見では粗や矛盾に気付きにくい構成になっています

話が前後しますが、二人が入れ替わっていたとき、お互いに三年の時間のズレに気付かなかったのかという疑問もあります。
例えば、瀧の学校の教室には「2016年学園祭」のポスターが貼ってありました。
三葉の家では朝のテレビで「ティアマト彗星の最接近が近い」というニュースをやっているところへ、三葉(in瀧)が入ってくるという描写があります。
当初はお互い「夢」だと思い込んでいましたが、途中からは「本当に入れ替わってる!」と事態を認識していたはずです。
三葉と瀧が互いの環境において「あれ?変だな」と思う描写が全然無いのも不自然な気がします。

テッシ―、君はいい奴だ

君 友
三葉(in瀧)は、テッシ―とサヤちんという2人の友人に協力してもらって町民の避難作戦を計画・実行します。

しかし、そこに至るまでに必要なある大事な描写が抜けています。
「三葉の中身は3年未来から来た少年のものであり、その日の夜に彗星の破片が落下してみんな死んでしまう。」
こんな荒唐無稽な話を、あの2人にどうやって信じてもらったのか?。

それはもう、『ターミネーター』におけるカイル・リースの警告に匹敵するような非現実的な話です。
そんな話を彼らが信じてくれるシーンは全くありませんでした。

にせの町内放送くらいならまだしも、変電所を爆破するなどとはこれはもうテロリストです。
バレたらただではすまされません。
テッシ―は雑誌「ムー」の愛読者という設定のようでしたが、そんな表現だけであそこまで過激な行動を起こすことの免罪符にはなり得ません。
作戦会議では異様にやる気まんまんのテッシ―ですが、その時の描写はそれまでと違ってどこかマンガ的で誤魔化された感が強いです。

大事な時におばあちゃんがいない
君 おばあちゃん
町民避難作戦開始以降、何故かおばあちゃんが姿を見せなくなってしまいます。

三葉(中身が瀧のとき)に対し、「夢を見てるね」「三葉じゃないね?」と見破ったタダ者ではないおばあちゃん。
「自分も昔そんな夢を見たことがある」と語るなど強烈な存在感を放っていました。
この映画の終盤のキーパーソンに違いないと誰もが思ったはずです。

ところがその後、おばあちゃんはこの物語の進行からあっさり姿を消してしまいます。

終盤、町長室に四葉と一緒にいましたがその経緯も不明です。
アップショットもセリフの一言もなく、前半の存在感はどこへやら。
あの扱いの変化はどうしたことでしょう?。

先ほど、テッシ―たちがすんなり信じてくれたことの不自然さを述べました。
しかし、あのおばあちゃんは既に三葉の異変に気付くという伏線描写があります。
まず、おばあちゃんが三葉=瀧の言葉を信じてくれるところから終盤の展開を始めるべきだったと思います。
それがこのストーリーの自然な流れだったと思います。

どうして急におばあちゃんの出番が無くなったのかは私には分かりません。
しかし、一本の映画の作劇としてはかなりいびつな展開であることは確かです。
終盤にあのおばあちゃんが傍にいてくれたら、あんな過激な計画に走らずとも何かやりようがあったのではないでしょうか。

三葉と父親の対峙シーンが無い
君 彗星
私がこの映画で一番しっくり来ない部分です。
この重要なシーンがスッポリと(多分意図的に)抜け落ちています。

変電所爆破とにせの町内放送で町民を誘導する作戦は失敗。
それでも高校への町民避難を成し遂げなくては皆死んでしまう。
そのためには折り合いの悪い父親である町長の理解を得なければならない。

ここは、間違いなくこの映画の見せ場だったはずです。
映像面ではなく、三葉の成長ドラマとしての見せ場です。
映画の冒頭では、父親に対して確執がありその前では萎縮してしまっていた三葉。
しかしこの時点では、龍との入れ替わりによる経験や未来を知ってしまった使命感などで大きく成長しているはずです。
その様(さま)を見せる映画の集大成的場面になるはずなのです。

ところが
意を決した三葉が父親の町長室へ入っていくところでシーンは終わってしまいます。
そして彗星事故で糸守町が壊滅。
その後、当日なぜか町民は避難訓練をしていて全員助かったということになっています。

ここは初めて観たときから最も疑問でならないところです。
何故、どうして父親との直接対峙シーンが無いのでしょうか?。
上白石萌音ちゃんの見せ場(聞かせ場)であったはずなのに!。
いや、それはともかく作劇のうえで絶対必要なシーンであるはずなのに!。

ここは三葉というキャラクターがこの物語を経てひとり立ちする大事な場面です。
頭ごなしに自分を否定しようとする父親と正面から向き合う彼女の姿を見せなければこのお話は完結しません。

瀧は「口噛み酒を飲んでもう一度限りの入れ替わりに賭ける」という行動を起こした時点で男になりました。
でも、三葉はここでのシーンがない限り、父親の前で萎縮していた序盤のか弱いイメージのままで終わってしまいます。
そんな重要な場面を、新海監督はなぜきちんと描こうとしなかったのでしょうか?。


長文にお付き合いいただきありがとうございました。
君の名は。』を語るのは次回で最後にします。
次は「キャラクターからみたこの映画の構造」と、「観客がこの映画に見ているもの、見ようとしているもの」についてです。
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