『君の名は。』その3 美しい映像と甘いラストが心地良い麻薬のような映画
CATEGORYアニメ:カ行
トガジンです。
2度目の鑑賞で見えてくるチグハグさに、私はこの作品の目指すものが判らなくなってしまいました。

「その1」では、この映画を初めて観て存分に楽しんだ旨をお伝えしました。
「その2」では、それでも気になるいくつかの矛盾点を挙げさせてもらいました。
今回は、物語の構造と制作者の観点から『君の名は。』のターゲットについて考えます
映画の嘘(この場合はSF設定)の話
昔、「映画とは見てきたような嘘をつくものだ」と言った脚本家がいました。
その与太話を楽しんでもらうためには、「その嘘以外の部分のリアリティを徹底しなくてはいけない。」とも仰っています。
「嘘を誤魔化す」「嘘をより面白くする」そのためにさらに嘘を重ねることは客を愚弄する行為である、と。
本作にはざっと思いつくだけでも以下の如く「映画の嘘」が立て続けに出てきます。
①男女の人格入れ替わり
映画開始の時点で既に起こっている現象であり、これを前提に物語が進んでいく。
『転校生』のように、強制的にお互いの生活圏に放り込まれた男女のギャップと相互理解を楽しむ物語のように思える。
②二人の時間軸のズレ
中盤以降に発覚。
それまでは意図的に隠蔽されているため、次の展開③が非常に衝撃的に見える。
半面、細部の描写に不自然な箇所が多くなってリアリティを損なっていく。
③彗星のカケラが落下して町一つが全滅した。
過去に起こった出来事として物語中盤以降に明示される。
東日本大震災のメタファーだろうか。
イントロ部に伏線描写はあるものの、①で最初に予測し得る物語からは異質な感じが否めない。
映画ではクライマックスの映像的見せ場になっている。
④その町は1000年以上前にも隕石落下の大災害があった場所。
⑤女性主人公:三葉の一族は代々その地に根付く巫女の家系で不思議な能力を持っている(らしい)。
この映画で起こっている不思議な出来事や偶然性に対する免罪符的設定。
しかし男性主人公:瀧にはこうした設定はなく、なんらかの血縁関係も示されてはいない。
⑥瀧が自発的に時間を超えた入れ替わりを果たし、歴史に介入していく。
話の風呂敷が広がりすぎて「なんでもあり」な感じになっているが、「それで三葉が助かるのなら・・・」と許してしまう自分がいる。
⑦6年後の再会の時に、消えたはずのお互いの記憶が残っている。
タイムパラドックスの代償として「記憶が消えていく」ストーリーを選んだのにこの展開はありえない。
気持ち良いラストシーンで締めくくるために、それまでの整合性を無視している。
かなりの力技であの「赤い糸で結ばれた二人の再会」シーンへと持っていかれていますね。
私は、ふと三谷幸喜の『ラヂオの時間』を思い出してしまいました(笑)。
ところで、上記⑦の「気持ちの良いラストシーンのために整合性を無視する」ですが、これをやっていたアニメーション映画をつい最近観た記憶があります。
細田守監督の『バケモノの子』

プロデューサーは『君の名は。』と同じ川村元気氏です。
川村元気プロデューサーの存在
自身も作家であり、実写映画の企画プロデュースを多数手掛ける川村プロデューサー。
アニメーション作品は『もののけ島のナキ』をはじめ、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』、そして今回の新海誠監督の『君の名は。』になります。
細田守監督と新海誠監督といえば、どちらも新進気鋭のアニメ監督です。
宮崎駿監督の引退を受けて次世代のアニメ界を背負って立つであろう二人の監督をプロデュースするということは、近年までのスタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーのような存在とも言えますね。
もしそうなれば、向こう10年くらいの日本アニメ映画界を牛耳ることになる存在といえるかも知れません。

『バケモノの子』のラストシーン。
この映画に出てくるバケモノの世界”渋天街”は、現実世界とは結界のようなもので隔絶した世界です。
主人公の九太を祝うお祭りが催されていますが、そこに人間界で知り合った女子高生”楓”が当たり前のように参入してきます。
「なんでお前がここに?」
「えへへ、お呼ばれしちゃった」
人間界も巻き込んだ一郎彦との闘いで九太を支えた子ですから、仲間の誰かが招待したのかも知れません。
でもあまりにも垣根が無さすぎです。
しかも、ここで彼女が切り出すのは「進学」の話なのです。
九太はその後人間界で暮らすことを選択するのですからそんな話は人間界で描けばよいシーンです。
楓が九太の前向きな返事に「やったあ」と可愛くはしゃぎ、一緒に花火を見上げる姿を描きたかったのでしょうか。
そのためには確かに彼女をあの場面で強引に登場させるしかありません。
確かに賑やかで気持ちの良いラストシーンだったかも知れませんが、楓が空気を読めない変な子に見えてしまいました。
そんな違和感のあるラストシーンを抱えるアニメ2作品のプロデューサーが同じ人物というのは見逃せないポイントです。
『君の名は。』のエンディングに迷いが見える
『君の名は。』は、新海誠監督作品にしては珍しいハッピーエンド作品です。
これまでの『ほしのこえ』や『秒速6センチメートル』は、決して二人が結ばれることもなく道ですれ違っても一方は気付くことすらない、というなんとも切ない終わり方をする物語でした。
しかし『君の名は。』では、一度は互いの記憶を失いながらも街で顔を見た瞬間に相手のことを認識します。
そんな女性の皆様の大好物シーンで幕を閉じます。
しかし、クライマックスの歴史改変からラストの再会を成就するまでには映画の中でかなりの尺を割いていることに気付きます。
物語上でも5年の歳月を経過させています。
その途中で、雪降る夜に瀧が三葉(とおぼしき女性)とすれ違いハッとするがそのまま離れてしまうという場面がありました。
過去の新海監督作品ならあそこがラストシーンになっていたかも知れません。
その後電車の窓越しに再会してあのラストシーンに行きつくわけですが、私にはどうにも蛇足的な印象が否めません。
どちらかの描写だけで良かったと思います。
平たく言えば「しつこい」です。
新海監督はどうしてあの意味深で切ない雪の夜のシーンを入れたのでしょうか。
後の再会シーンを盛り上げるための前座として、事前に一度すれ違いさせておこうというだけのシーンでしょうか?。
それにしては尺を食いすぎていてテンポを悪くしていると思います。
私には、「この物語にはこんな終わり方も在り得るんだよ」という監督の主張のようにも見えました。
心機一転してハッピーエンド作品を作ったものの、もう一つのエンディングも捨てきれずに披露しただけなのか。
川村プロデューサーのチューニングによる、世間受けはするが能天気なラストシーンへの確執によるものなのか。
邪推もはなはだしいですが、私にはそう受け取れる描写でした。
キャラクター設定に隠されたメタファー

人格が入れ替わって見知らぬ場所で悪戦苦闘する三葉と瀧。
その描写も声の演技も溌剌としていてなかなか面白かったと思います。
しかし、元の人格を形成したであろう二人の周辺事情についてはあまり深く触れられていませんでした。
二人が置かれた環境設定を箇条書きで羅列してみます。
すると、面白い図式が見えてきました。
【瀧】
東京に住んでいる
父子家庭(=女性からすると付き合うにあたってめんどくさい母親がいない)
ケンカっ早い(=正義感が強い)
建築家志望(=モテる職業の一つ)
お洒落なレストランでバイト
イケメン
でも彼女いない
いい友達がいる
【三葉】
父親と確執があり別居している(=ファザコンの女ほど付き合いにくいものはない)、
田舎娘(=純情で夢見がち)
すごく可愛い
しかもセーラー服
処女
彼氏いない
可愛い妹がいる
巫女さん
必然があればパンチラも辞さず
瀧の設定は、女性が「付き合うならこんなオトコがいい」と思うような理想的スペックを備えています。
三葉も、昨今の萌えアニメに多い「目立たないけど可愛い」「クラスで密かに人気があるタイプ」のキャラクターです。
どちらもアニメや漫画によく見られる定型的なものです。
どちらも外見は申し分ありませんし性格もとても良い子です。
その二人が声を揃えてこう叫びます。

(彼氏や彼女は)「いないんじゃなくて作らないの!」
私は先日、3度目の鑑賞でこのセリフを聞いたときに気付いてしまいました。
三葉と瀧が、実は”オタク”と”腐女子”の大好物を具現化したキャラクターであるということ。
その二人が、ノリの良い友達と幸運に支えられて「運命の人と赤い糸(=組紐)で結ばれる」。
これが、この映画の根幹です。
この映画にはリピーター客が大勢ついているそうです。
彼らは登場人物のめんどくさい成長物語には目もくれず、無数の矛盾点も脳内補完して甘美なストーリーを繰り返し繰り返し堪能し続けているのでしょう。
まるで麻薬のような映画です。
大ヒットしている理由が解かった気がします。
川村プロデューサーはこうした観客層をターゲットに絞り込んで作ったのではないでしょうか。
そう考えれば、私がこれまで述べてきたような矛盾点が放置されていることにも合点がいきます。
終盤で三葉(瀧)に協力するのがおばあちゃんではなく若くてノリの良い友人カップルであること。
私には重要に思えたクライマックスの父親との対峙シーンが全く無いこと。
細かな矛盾点は気にせず勢いで物語を進めてしまうこと。
いずれも、この映画においては問題にする必要もない要素だったというわけですね。

私が最初の鑑賞で感じたことは間違いではなかったようです。
美しい映像とラストの甘い蜜に心地よく惑わされる映画
良くも悪くも、この映画の感想はこれに尽きますね。
以上、長文にお付き合いくださり感謝申し上げます。
大ヒット驀進中の作品が相手ということで気合が入りすぎました。
また、ここでの内容は全て私個人の思い込みによるものです。
お気を悪くされましたら何卒ご容赦願います。
2度目の鑑賞で見えてくるチグハグさに、私はこの作品の目指すものが判らなくなってしまいました。

「その1」では、この映画を初めて観て存分に楽しんだ旨をお伝えしました。
「その2」では、それでも気になるいくつかの矛盾点を挙げさせてもらいました。
今回は、物語の構造と制作者の観点から『君の名は。』のターゲットについて考えます
映画の嘘(この場合はSF設定)の話
昔、「映画とは見てきたような嘘をつくものだ」と言った脚本家がいました。
その与太話を楽しんでもらうためには、「その嘘以外の部分のリアリティを徹底しなくてはいけない。」とも仰っています。
「嘘を誤魔化す」「嘘をより面白くする」そのためにさらに嘘を重ねることは客を愚弄する行為である、と。
本作にはざっと思いつくだけでも以下の如く「映画の嘘」が立て続けに出てきます。
①男女の人格入れ替わり
映画開始の時点で既に起こっている現象であり、これを前提に物語が進んでいく。
『転校生』のように、強制的にお互いの生活圏に放り込まれた男女のギャップと相互理解を楽しむ物語のように思える。
②二人の時間軸のズレ
中盤以降に発覚。
それまでは意図的に隠蔽されているため、次の展開③が非常に衝撃的に見える。
半面、細部の描写に不自然な箇所が多くなってリアリティを損なっていく。
③彗星のカケラが落下して町一つが全滅した。
過去に起こった出来事として物語中盤以降に明示される。
東日本大震災のメタファーだろうか。
イントロ部に伏線描写はあるものの、①で最初に予測し得る物語からは異質な感じが否めない。
映画ではクライマックスの映像的見せ場になっている。
④その町は1000年以上前にも隕石落下の大災害があった場所。
⑤女性主人公:三葉の一族は代々その地に根付く巫女の家系で不思議な能力を持っている(らしい)。
この映画で起こっている不思議な出来事や偶然性に対する免罪符的設定。
しかし男性主人公:瀧にはこうした設定はなく、なんらかの血縁関係も示されてはいない。
⑥瀧が自発的に時間を超えた入れ替わりを果たし、歴史に介入していく。
話の風呂敷が広がりすぎて「なんでもあり」な感じになっているが、「それで三葉が助かるのなら・・・」と許してしまう自分がいる。
⑦6年後の再会の時に、消えたはずのお互いの記憶が残っている。
タイムパラドックスの代償として「記憶が消えていく」ストーリーを選んだのにこの展開はありえない。
気持ち良いラストシーンで締めくくるために、それまでの整合性を無視している。
かなりの力技であの「赤い糸で結ばれた二人の再会」シーンへと持っていかれていますね。
私は、ふと三谷幸喜の『ラヂオの時間』を思い出してしまいました(笑)。
ところで、上記⑦の「気持ちの良いラストシーンのために整合性を無視する」ですが、これをやっていたアニメーション映画をつい最近観た記憶があります。
細田守監督の『バケモノの子』

プロデューサーは『君の名は。』と同じ川村元気氏です。
川村元気プロデューサーの存在
自身も作家であり、実写映画の企画プロデュースを多数手掛ける川村プロデューサー。
アニメーション作品は『もののけ島のナキ』をはじめ、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』、そして今回の新海誠監督の『君の名は。』になります。
細田守監督と新海誠監督といえば、どちらも新進気鋭のアニメ監督です。
宮崎駿監督の引退を受けて次世代のアニメ界を背負って立つであろう二人の監督をプロデュースするということは、近年までのスタジオ・ジブリの鈴木敏夫プロデューサーのような存在とも言えますね。
もしそうなれば、向こう10年くらいの日本アニメ映画界を牛耳ることになる存在といえるかも知れません。

『バケモノの子』のラストシーン。
この映画に出てくるバケモノの世界”渋天街”は、現実世界とは結界のようなもので隔絶した世界です。
主人公の九太を祝うお祭りが催されていますが、そこに人間界で知り合った女子高生”楓”が当たり前のように参入してきます。
「なんでお前がここに?」
「えへへ、お呼ばれしちゃった」
人間界も巻き込んだ一郎彦との闘いで九太を支えた子ですから、仲間の誰かが招待したのかも知れません。
でもあまりにも垣根が無さすぎです。
しかも、ここで彼女が切り出すのは「進学」の話なのです。
九太はその後人間界で暮らすことを選択するのですからそんな話は人間界で描けばよいシーンです。
楓が九太の前向きな返事に「やったあ」と可愛くはしゃぎ、一緒に花火を見上げる姿を描きたかったのでしょうか。
そのためには確かに彼女をあの場面で強引に登場させるしかありません。
確かに賑やかで気持ちの良いラストシーンだったかも知れませんが、楓が空気を読めない変な子に見えてしまいました。
そんな違和感のあるラストシーンを抱えるアニメ2作品のプロデューサーが同じ人物というのは見逃せないポイントです。
『君の名は。』のエンディングに迷いが見える
『君の名は。』は、新海誠監督作品にしては珍しいハッピーエンド作品です。
これまでの『ほしのこえ』や『秒速6センチメートル』は、決して二人が結ばれることもなく道ですれ違っても一方は気付くことすらない、というなんとも切ない終わり方をする物語でした。
しかし『君の名は。』では、一度は互いの記憶を失いながらも街で顔を見た瞬間に相手のことを認識します。
そんな女性の皆様の大好物シーンで幕を閉じます。
しかし、クライマックスの歴史改変からラストの再会を成就するまでには映画の中でかなりの尺を割いていることに気付きます。
物語上でも5年の歳月を経過させています。
その途中で、雪降る夜に瀧が三葉(とおぼしき女性)とすれ違いハッとするがそのまま離れてしまうという場面がありました。
過去の新海監督作品ならあそこがラストシーンになっていたかも知れません。
その後電車の窓越しに再会してあのラストシーンに行きつくわけですが、私にはどうにも蛇足的な印象が否めません。
どちらかの描写だけで良かったと思います。
平たく言えば「しつこい」です。
新海監督はどうしてあの意味深で切ない雪の夜のシーンを入れたのでしょうか。
後の再会シーンを盛り上げるための前座として、事前に一度すれ違いさせておこうというだけのシーンでしょうか?。
それにしては尺を食いすぎていてテンポを悪くしていると思います。
私には、「この物語にはこんな終わり方も在り得るんだよ」という監督の主張のようにも見えました。
心機一転してハッピーエンド作品を作ったものの、もう一つのエンディングも捨てきれずに披露しただけなのか。
川村プロデューサーのチューニングによる、世間受けはするが能天気なラストシーンへの確執によるものなのか。
邪推もはなはだしいですが、私にはそう受け取れる描写でした。
キャラクター設定に隠されたメタファー

人格が入れ替わって見知らぬ場所で悪戦苦闘する三葉と瀧。
その描写も声の演技も溌剌としていてなかなか面白かったと思います。
しかし、元の人格を形成したであろう二人の周辺事情についてはあまり深く触れられていませんでした。
二人が置かれた環境設定を箇条書きで羅列してみます。
すると、面白い図式が見えてきました。
【瀧】
東京に住んでいる
父子家庭(=女性からすると付き合うにあたってめんどくさい母親がいない)
ケンカっ早い(=正義感が強い)
建築家志望(=モテる職業の一つ)
お洒落なレストランでバイト
イケメン
でも彼女いない
いい友達がいる
【三葉】
父親と確執があり別居している(=ファザコンの女ほど付き合いにくいものはない)、
田舎娘(=純情で夢見がち)
すごく可愛い
しかもセーラー服
処女
彼氏いない
可愛い妹がいる
巫女さん
必然があればパンチラも辞さず
瀧の設定は、女性が「付き合うならこんなオトコがいい」と思うような理想的スペックを備えています。
三葉も、昨今の萌えアニメに多い「目立たないけど可愛い」「クラスで密かに人気があるタイプ」のキャラクターです。
どちらもアニメや漫画によく見られる定型的なものです。
どちらも外見は申し分ありませんし性格もとても良い子です。
その二人が声を揃えてこう叫びます。

(彼氏や彼女は)「いないんじゃなくて作らないの!」
私は先日、3度目の鑑賞でこのセリフを聞いたときに気付いてしまいました。
三葉と瀧が、実は”オタク”と”腐女子”の大好物を具現化したキャラクターであるということ。
その二人が、ノリの良い友達と幸運に支えられて「運命の人と赤い糸(=組紐)で結ばれる」。
これが、この映画の根幹です。
この映画にはリピーター客が大勢ついているそうです。
彼らは登場人物のめんどくさい成長物語には目もくれず、無数の矛盾点も脳内補完して甘美なストーリーを繰り返し繰り返し堪能し続けているのでしょう。
まるで麻薬のような映画です。
大ヒットしている理由が解かった気がします。
川村プロデューサーはこうした観客層をターゲットに絞り込んで作ったのではないでしょうか。
そう考えれば、私がこれまで述べてきたような矛盾点が放置されていることにも合点がいきます。
終盤で三葉(瀧)に協力するのがおばあちゃんではなく若くてノリの良い友人カップルであること。
私には重要に思えたクライマックスの父親との対峙シーンが全く無いこと。
細かな矛盾点は気にせず勢いで物語を進めてしまうこと。
いずれも、この映画においては問題にする必要もない要素だったというわけですね。

私が最初の鑑賞で感じたことは間違いではなかったようです。
美しい映像とラストの甘い蜜に心地よく惑わされる映画
良くも悪くも、この映画の感想はこれに尽きますね。
以上、長文にお付き合いくださり感謝申し上げます。
大ヒット驀進中の作品が相手ということで気合が入りすぎました。
また、ここでの内容は全て私個人の思い込みによるものです。
お気を悪くされましたら何卒ご容赦願います。
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