ゴジラシリーズ全作品レビュー18 『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)
前作『ゴジラvsビオランテ』は、私にとって二重三重の思い入れのある作品でした。
それは、生まれ育った故郷:福井と当時住んでいた第二の故郷:大阪の二つの土地が舞台になっているという親近感と、大阪でのロケシーンを見てエキストラへの興味を抱き始めたことによるものです。
そして”抗核エネルギーバクテリア”という生物学的見地からゴジラを封じるという優れたアイデアを作り出し、世界の核開発やバイオテクノロジーといった深いテーマを内包した知的好奇心を刺激してくれた傑作でもあります。
半面、序盤は理論的描写が大部分を占めることから年少者の目には小難しく映ったことと、娯楽映画としては動きに乏しいビオランテとの怪獣バトルが躍動感に欠けるなどといった問題もあったのは事実です。
実際、『ゴジラvsビオランテ』の興行成績は『ゴジラ(昭和59年版)』を下回っており、続く本作で単純明快な娯楽作品へと舵を切ることは容易に予想できました。
『ゴジラvsキングギドラ』

<あらすじ>
1992年のある日、23世紀の地球連邦機関から3人の未来人がやって来た。
彼らはゴジラ被災から日本を救うという名目で、1954年にタイムスリップしてゴジラ誕生を事前に阻止する計画を携えていた。
タイムマシンで1944年のマーシャル諸島へ向かい、そこに実在したゴジラの素体である恐竜ゴジラザウルスを物質転送装置でベーリング海に転送しゴジラは歴史から完全に抹殺された。
しかし、歴史が改変された1992年の日本は新たに出現した三つ首の怪獣キングギドラの脅威に晒されていた。
未来人たちの真の目的は、23世紀には超大国に肥大する日本を、任意にコントロール可能なキングギドラを使って弱体化させることだったのである。
キングギドラの脅威に対し、巨大コンツェルン帝洋グループの総帥で、かつてゴジラザウルスに命を救われた新堂会長は、ゴジラを復活させるべく東南アジア某国に隠し持っていた核搭載型原子力潜水艦をベーリング海に派遣しようと企てる。
しかし、既にベーリング海では不法遺棄された核燃料の影響でゴジラが復活していた・・・。

今作の発表時に私が危惧したのは”抗核エネルギーバクテリア”で封印したはずのゴジラを一体どうやって再び活動再開させるのか?”ということでした。
「効き目が切れた」とか「ゴジラに耐性が出来た」では、前作の物語を形骸化してしまいますし、何より殉死した権藤一佐がただの犬死にという事になってしまいます。
「別個体のゴジラが出現した」というプロットだと、再び抗核エネルギーバクテリアを使うストーリーになるだけで面白くなるとは思えません。
2年の月日をおいて大森監督が提示したその方法とは、ゴジラシリーズとしては意表を突いたものでした。
タイムマシンで過去に戻り、ゴジラとビオランテの戦いも抗核エネルギーバクテリアを巡る国家間の争いも「無かったこと」にしてしまえ!。
前作の「時代に合ったテーマ性が盛り込まれたインテリジェンス溢れる怪獣映画」はどこへやら、まるで「東宝チャンピオンまつり」に立ち返ったかのような荒唐無稽な娯楽第一主義の作品へと軌道変更していたのです。

そしてタイムマシンのアイデアは、『ゴジラvsビオランテ』公開当時に大ヒットしていたこのシリーズの影響があったことは間違いありません。
【この子誰の子?】

本作品でよく槍玉にあげられるのが「タイムパラドックス」描写のいい加減さです。
タイムマシンで過去に戻って「ゴジラは誕生しなかった」ことにしたはずなのに、何故かそのタイムパラドックス発生後の平行世界の住人が皆ゴジラの存在を当たり前に知っているというシークエンスには誰もが違和感を感じたと思います。
でも私が気になるのはそこ(だけ)ではありません。
本作で語られた「昭和29年に放射線を浴びてゴジラザウルスが異形化したゴジラ」は、同年オキシジェン・デストロイヤーによって駆除されているはずなのです。
この『ゴジラvsキングギドラ』に登場するゴジラは、昭和59年に30年ぶりに姿を現してその5年後にビオランテと戦った二匹目の個体であり、昭和29年にゴジラ化する恐竜に対処したところでそもそもの問題解決にはならないはずです。
しかし!
そんな野暮なツッコミはどうでもよろしい。
理屈ではなく勢いで楽しむのがこの『ゴジラvsキングギドラ』です。
なにしろ、ファースト・カットで私たちオールド特撮ファンのハートを鷲掴みしてしまうのですから!。
【東宝特撮マインドがたまらない】

ストーリー的には穴だらけのこの映画ですが、それでも私を惹きつけてやまないのは本作に漂う「東宝特撮マインド」です。
冒頭の深海調査艇が海底探査をするこの場面からして、『日本沈没』『メカゴジラの逆襲』『緯度0大作戦』などが思い出されてゾクゾクしてしまいます。
しかも、そこに流れる音楽が伊福部昭大先生の新録による楽曲ときていますから、これだけでもう掴みは十分です。
物語にも過去の東宝特撮作品を彷彿とさせてくれる展開が見られます。

謎の円盤でやってきた異星人(未来人)が、オーバーテクノロジーをひけらかしながらニコニコと友好的に近づいてくる。
協定が成立したように思えたものの、やがて相手は態度を急変させて侵略者としての本性を現します。
東宝特撮ファンにとっては、『怪獣大戦争』のX星人や『ゴジラ対ガイガン』のM宇宙ハンター星雲人を彷彿とさせてくれる敵役の設定であります。
長い間シリアスで知的でテーマ性が高いゴジラ映画を嘱望していた私も、その欲求が前作である程度満たされた以上同じようなテイストで続けられても疲れるだけだったかも知れません。
その意味では、この「知能指数低下現象」とも思えるほどの思い切った方向転換は正しい選択だったと言えるでしょう。
【余談ですが・・・】

『ゴジラvsキングギドラ』と『ヤマトよ永遠に』って、内容も立ち位置的にもよく似ていると思いませんか?。
どちらもシリアス指向だった前作を振り切るように娯楽性重視へと大きく路線変更したシリーズ3作目ですし、困難と思われたシリーズ続行のための設定変更を「前作を無かったことにする」という力業で強引に行ったのも同じです。
また敵の作戦が「味方に見せかけて罠にかける」という実にめんどくさい代物であるのもソックリで、さらにはどちらも「未来人」がキーワードになっています。
考えすぎかも知れませんが、本作のストーリー作りにおいて『ヤマトよ永遠に』を参考にしたなんてことはないのでしょうか?。
【伊福部サウンドと自衛隊】
本作は自衛隊の協力が随所に生かされている作品です。
実在の兵器が多数画面に登場しており、架空兵器は札幌市でのゴジラ迎撃に使われたメーサー戦車くらいのものでした。
これらとが画面に与えたリアリティは計り知れないものがあります。


ずらりと本物の自衛隊車両や戦車が並ぶ中を俳優さんが歩き、その先には合成されたUFO(タイムマシン)が佇んでいる。
現実と非現実がシームレスに繋がった素晴らしい映像です。
こうした映像は実写部分に本物を配置したからこそ出来たものであり、シリーズ後期では自衛隊の協力が得られなくなって荒唐無稽化していくのが残念でなりません。

今回は音楽に伊福部昭先生が本格復帰しています。
当時、これほど喜んだことはありません。
重厚なだけでなく繊細さも兼ね備えてたその楽曲は、特撮映画との相性が何故か非常に良いようです。
前作におけるすぎやまこういちさんの楽曲もあれはあれで良いものでしたが、その中に伊福部サウンドがポンと入ってくると観ている者のイメージが即座に上書きされてしまいます。
本来の音楽担当者だったすぎやまさんの楽曲は、ほんの数曲の伊福部音楽に食われてしまう結果になっていました。
伊福部先生は本作の音楽を引き受けるにあたり、スクリーンで映像を見ながら演奏するという昔ながらの音付け方法を条件にていたそうです。
この映画が持つ、妙に心地よい一体感はそこから来ているのだと思います。

ゴジラが海面に浮上するその一瞬、何故かハープの涼やかな音色が奏でられ、おもむろにゴジラが出現します。
このシーンの音楽の使い方には鳥肌が立ちました。
まさに「静」と「動」を音楽で表現していたわけで、仕事で制作するVTRにも時々この手法を真似して使うことがあります。

更にF15イーグル戦闘機(記録映像)とキングギドラとの空中戦シーンは、巧みな編集と伊福部昭先生の楽曲との融合で何度見ても血沸き肉踊ります。
私は、これを大画面で味わいたくてブルーレイを買ったようなものです。
この映画は、伊福部昭という大作曲家が奏でる楽曲にどっぷりと身を委ねて楽しむ作品なのです。
とりあえずストーリーは二の次で構いません(笑)。
【初期プロットでは日本の核でゴジラを蘇らせるはずだった?】

最近になって、大森監督が提示した準備稿に驚くべきストーリー展開が書かれていたことを知りました。
キングギドラ出現後、帝洋グループが所有する原子力潜水艦の核ミサイルを本当にベーリング海に打ち込み、日本人の手でゴジラを作り出してしまうというものです。
この案には田中友幸プロデューサーが断固反対して、完成作品ではベーリング海に沈む核廃棄物のせいにされていました。
しかし、もしこの設定で本作が作られて更にシリーズが継続したとしたら一体どうなっていたでしょうか。
そもそも昭和29年に最初のゴジラが作られた背景には第五福竜丸事件と広島・長崎への原爆投下の影響があったわけで、核に関しては日本人は被害者としての立場を維持し続けています。
それでいながら、「アメリカによる核の申し子であるゴジラが何故日本ばかりを襲撃するのか?」という疑問は第一作のころから未解決のままで、それに関して様々な後付設定や独特の解釈が付け加えられてきました。
例えば、「ゴジラの帰巣本能によるものだ」とか、「ゴジラには太平洋戦争で死んだ日本兵の英霊が乗り移っていて日本に帰りたがっているのだ」とか・・・。
いずれも苦しい言い訳のような設定であり未だ腑に落ちる説明はなされていません。


1998年と2014年にアメリカで『ゴジラ』が作られるとなった時に、私はまずその点に注目しました。
アメリカが、自ら使った核で産み出してしまったゴジラによって強烈なしっぺ返しを食らうという、当たり前ではあるが正当なゴジラの物語を期待していました。
ところが、1998年エメリッヒ版では核実験はフランスのせいになっていましたし、2014年の通称ギャレゴジではゴジラは元々放射線の強い時代の生物だったとされて、アメリカの核使用についての描写は避けられていました。

もし本当に日本人が自らの意思で核を使いゴジラを作り出すというストーリーが語られるとしたら?。
その作品は、本当の意味で『ゴジラ』に引導を渡すシリーズ最終作品になってしまうことでしょう。
【俳優たち】
前作『vsビオランテ』では意図してか旧作の俳優陣をほとんど起用していませんでした。
それが新しいゴジラ・ワールドのイメージを形作っていたのは事実でしたが、若干の寂しさもあったのは事実です。

今回、帝洋グループの進藤会長を演じた土屋嘉男さんは、前述の『怪獣大戦争』のX星人統制官を演じた張本人であり昭和の東宝特撮映画でひとクセもふたクセもある人物ばかりを好んで演じていた方です。
今作の土屋さんのキャスティングは、我々オールド・ファンとしては「自分は今、東宝特撮映画を観ているッ!」という気分にさせてくれる本当に嬉しいものでありました。

進藤の最期は、若い頃に南太平洋の戦地でゴジラザウルスに助けられたという思いからか、自社ビルの窓越しにゴジラと感慨深げにじっと見つめ合ったのち放射火炎の直撃を浴びて消滅するという凄まじいものでした。
怪獣と見つめあい、昔に思いを馳せるなんて演技はこの人でなければとても出来ない代物です。
しかし、もし上記の「進藤が核を使ってゴジラを復活させた」というプロットが実現していたら、このシーンの持つ意味は全く違うものになっていたはずです。
再び眠りにつけたはずのゴジラを核を使って再び世に送り出した日本人として報いを受けるという非常に重いシーンになっていたでしょう。
それはそれで「土屋嘉男さんらしい役」とも思えますが・・・。

反対に、笑えるのが佐々木勝彦さん。
海洋生物学者ということで、ことあるごとに「その可能性は十分考えられる」と設定のお墨付きとなるコメントを発する役なのですが、どういうわけかドラッド3匹が合体してキングギドラになることも「考えられなくもない」と安直に肯定しています。

その姿は、『ゴジラ対メガロ』で何故か突然自我を持ち巨大化したジェット・ジャガーを使命感がそうさせたと理論付け「きっとそうだよ!」と根拠もなく断定した18年前の役柄と全く同じでした。

そしてシリーズ初となる、戦う女性主人公エミー。
演じた中川安奈さんは『宇宙大戦争』の安達博士など科学者役で知られる千田是也さんの孫娘で、そのことを知ったときには特撮映画の縁のようなものを感じたものでした。


映画のクライマックスでは、メカ・キングギドラに乗り込んでのコクピット演技で単調になりがちな怪獣戦を盛り上げてくれました。
この手法は以降のメカゴジラやモゲラ、そして三式機龍(遠隔操縦)へと引き継がれていくことになります。
中川さんは本作以降は主に舞台で活躍されていましたが、残念ながら3年前に若くしてお亡くなりになってしまいました。
残念です。
【矮小化されたキングギドラ】

ここからは、どうしても許せない不満点を論っていきます。
それはタイムパラドックスの矛盾でもなければ、中途半端な洋画のパロディでもM11のケムール人走りでもありません。
この映画のキングギドラがあまりにも情けないことです。
旧作では宇宙怪獣であったキングギドラですが、今回は全くその出目が変わってしまいました。
本来ゴジラを誕生させてしまうはずだったビキニ諸島の核実験でゴジラザウルスの代わりに放射能を浴びて誕生したのが今回のキングギドラということになっており、これはつまりゴジラの「影の存在」としての意味合いも持つことになっています。
それはそれで良いのですが、新生キングギドラの表現にはかなり物足りなさを感じます。
動きも固く、飛行時の姿はウルトラマンの飛行人形のように足を揃えていて、まるで大型戦闘機のようです。
飛びながらも不規則に動いていた旧作の生物感は感じられず、ゴジラの最大のライバル怪獣というにはかなり残念なものでした。

そのキングギドラの素体は三匹の可愛い(三枝未希:談)未来のペット:ドラッドです。
特定の音波でコントロール出来ることから、この3匹が合体・巨大化して誕生したキングギドラは単に未来人たちに操られるだけの存在でしかありません。
九州の都市襲撃やゴジラとの初戦の際に見せた凶暴性は未来人に操られていたからに過ぎず、コントロールが切れた途端に逃げ腰になってしまいます。

さらに未来でメカキングギドラに改造されて再登場した時には、見た目のインパクトこそ強烈だったものの人間が乗り込んで操縦する単なるロボットでしかありませんでした。
意図した表現かどうかにかかわらず、この映画からスタッフのキングギドラに対する愛が感じられず残念です。
【キングギドラにはシネマスコープがよく似合う】
「なんでビスタサイズなんだ!?」
最初に劇場でキングギドラの登場シーンを観た時、率直に思ったことです。


寄りのショットでは翼を開いたキングギドラがとても窮屈そうに見えますし、さらに全身を写した飛行ショットでは上下が空いてスカスカの画になっています。
ストーリー重視だった前作・前々作はビスタサイズでもしっくり来ましたが、本作のように派手な怪獣バトルものとして開き直るのなら万難を排してでもシネマスコープにするべきだったと思います。


こうして旧作のキングギドラをシネスコ画面で見てみると、2.35:1の横長画面に美しく収まるデザインになっていることがよく分かります。
後年の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』では、CGながらもシネスコの横長画面いっぱいに翼を開いたキングギドラの姿が神々しくて、こちらの画も本作より印象深いです。
【いろいろ文句はあるけれど】

この際、カタいこと言うな
・・・と、『ゴジラvsキングギドラ』にタイムトラベルネタを導入する要因となったあの名作からの一言でした。
ストーリーや若手俳優の演技、そしてキングギドラの表現には疑問や不満も多いですが、『ゴジラvsキングギドラ』はいつの間にかそれらを忘れて楽しんでしまえる不思議な作品でした。
過去のゴジラ作品では、産みの親である田中友幸プロデューサーが頑として目を光らせていて若手の自由な発想が生かされることが難しい状況が多々あったようです。
さすがに「日本人が核を使ってゴジラを呼び覚ます」というプロットは却下されたものの、今回はこれまで取り入れようとしなかったタイムトラベルものの導入を認めるなど新しいアイデアも盛り込まれて若いスタッフが乗って作っている印象です。
そのエネルギーこそが映画を面白くしていたのでしょう。
『レイダース 失われた聖櫃<アーク>』のように、ストーリーの矛盾を気にする暇を与えないくらい見せ場てんこ盛りの映画でありました。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!。