ゴジラシリーズ全作品レビュー20 『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)
1993年12月公開の『ゴジラvsメカゴジラ』は、当初平成VSシリーズの最終作になるのでは?と噂されていた作品です。
ゴジラシリーズ通算20作目という節目にあたる事と、東宝とトライスター社の契約成立によりアメリカ版『GODZOLLA』の制作が視野に入ってきたためです。
そのためか、本作には復活怪獣人気投票上位に名を連ねたメカゴジラとラドンが登場し、さらにはゴジラの子供(正確には同種族の幼生)ベビー・ゴジラまでもが姿を現します。
手持ちの駒を使い切って平成ゴジラの決定版にしようという意気込みが、画面のそこかしこから伝わってくる作品でした。
『ゴジラvsメカゴジラ』

<あらすじ>
未曾有のゴジラ被害に対応すべく、新たに設立された国連G対策センターは対ゴジラ用最終兵器の開発を進めていた。
回収されたメカ・キングギドラから23世紀の科学技術を研究・応用したメカゴジラである。
その頃、ベーリング海のアドノア島にて国立生命科学研究所の調査隊が巨大な卵を発見した。
始祖鳥のものと思われたその卵からはベビーゴジラが誕生する。
ベビーゴジラの存在を感知し日本に上陸したゴジラに対し、精鋭部隊Gフォースはメカゴジラで迎撃するもオーバーフローのため無念の敗北を喫してしまう。
ベビーゴジラを調査した結果、ゴジラには腰のあたりに第2の脳と呼べる部位がありそこを破壊すればゴジラを半身不随にすることが可能と判明。
Gフォースはベビーゴジラを囮にしてゴジラをおびき出し、再度メカゴジラで決戦を挑む。
【あの頃】
『ゴジラvsメカゴジラ』公開当時、私は29歳でした。
私生活においては自身の結婚問題でゴタゴタが絶えなかったのと、仕事のうえでも最初に就職した会社を辞めて同業他社に移籍することを考えていた非常に不安定な時期でした。
いかに特撮や怪獣映画が好きな私でも、人生の大事な決断を二つ同時に迫られていたこの頃ばかりは、ゴジラの新作に浮かれていられる状況ではなかったのです。
さらに、当時は平成ゴジラシリーズそのものに対しても気持ちが醒めつつありました。
『ゴジラvsキングギドラ』から薄々感じ始めていた「コレじゃない」感は『ゴジラvsモスラ』でますます明瞭なものになり、このまま無理矢理シリーズを続けようとしている平成ゴジラに対して懐疑的になっていたのです。
シリーズを通して設定の連続性を持たせるとともに、同一の登場人物を続けて登場させることで一つの世界を維持しようとすることが、かえって作品世界の矮小化・ストーリーアイデアの枯渇・表現のワンパターン化を招き、シリーズの首を絞めていると感じていました。
また、同じ年の夏にはあの『ジュラシック・パーク』が公開されていたこともあり、必然的に映像面で大きく見劣りするだろうと思っていました。
私が『ゴジラvsメカゴジラ』を観たのは、こんなマイナス要因満載の状況下だったのです。

【自衛隊不参加】
本作から、自衛隊の協力が得られなくなりました。
たとえゴジラという厄災に対処するためとはいえ、自衛隊が架空の超兵器(しかも巨大ロボット)を所有するなどという設定は認可が下りなかったのでしょう。
しかし、9年後の『ゴジラxメカゴジラ』に登場する三式機龍は日本政府主導で建造されたものであり、対特殊生物自衛隊の兵器として登場していました。
時代ごとの情勢や防衛大臣の意向によって基準が変化するせいかも知れませんが、1993年の本作品のどこが問題視されて協力を断られてしまったのかは不明です。
ともあれ、この自衛隊不参加によって以後のVSシリーズの方向性は大きく変化していくことになります。


自衛隊の不参加を受けて、今作からゴジラ対策に当たるのは国連機関である国連G対策センターとその一部である特別部隊:Gフォースという設定になりました。
例えるなら『ウルトラマン』の科学特捜隊(国際科学警察機構の一部)や『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊(地球防衛軍の一部)みたいなものです。
これまでは「ゴジラの存在」という点を除いては現実世界としっかり地続きだった平成ゴジラ作品も、この設定の導入によりあらゆる面で荒唐無稽化していくことになります。
例えば・・・。


高嶋政宏演じる主人公:青木一馬があまりにも組織の規範を逸脱しすぎで、戦闘中に勝手に担当部所を離れたり生命科学研究所の資料を無断で持ち出すなど非常識な行動が平然と描かれています。
これなどは自衛隊のチェックが入った場合、確実にNGにされたと思います。
ヒーローとして描いているつもりなのかも知れませんが、組織やチームの一員として貢献するでもなくアウトローにもなり切れていない、非常に中途半端で身勝手な人物にしか見えません。
一度干されたあとも、自らが開発したガルーダをメカゴジラ強化プランとして売り込むことで最後までストーリーラインに居残るというご都合主義が横行しており、これでは見ている子供に対しても良い影響があるとは思えません。
さらに付け加えるなら、登場人物がGフォースと生命科学研究所の関係者ばかりで構成されていて、市井の人々の視点が全く描かれていません。
そのため非常に世界観の狭い作品になってしまっているのも残念なところです。
ゴジラから日本を守ろうとする組織を描くなら、彼らが守るべき人たちの姿も描くべきだったと思います。


一方で特撮映像の作り手側にしてみれば、自由な発想で物語や映像を構築出来るという利点に繋がります。
従来は、架空の兵器といえどそれなりに理論武装したうえで自衛隊の認可を得る必要があったはずですが今作ではその必要もありません。
突拍子もないアイデアを思いついても、メカ・キングギドラから未来のオーバーテクノロジーを応用したという裏付け設定がありますので多少の無茶もまかり通せます。

メカ好きの川北紘一特技監督にしてみれば、水を得た魚のごとく張りきったことでしょう。
メカドック内で進行中のメカゴジラ建造風景を描いた重量感溢れるこのタイトルバックは、川北紘一特技監督お得意のメカニック描写の見事さと伊福部昭先生の力強い楽曲との相乗効果で平成ゴジラシリーズ屈指の名場面になっています。
川北特撮に対して若干食傷気味であった私も、このオープニングには血沸き肉躍るものがありました。

ところで、メカゴジラの当初のアイデアは7機のマシンによる合体ロボットだったそうです。
実際の映画では予算と時間の制約のため単体のロボット兵器として描かれていましたが、生頼範義先生の手による初期ポスター絵にはその名残りが残っていました。
ポスター依頼の時点ではまだ7機合体プランで進められていたために、生頼先生は最初期のイメージデザインを元にあのポスターを描き上げたわけですが、それだけであの世界観をイメージ出来る絵の才能には感服します
近年になって生頼ポスター版メカゴジラが立体キットとして発売されていましたが、あのカッコ良さに惹かれた人は私だけではなかったようです。
【本編特撮】
前作『ゴジラvsモスラ』の後半30分は人間側のドラマは無きに等しく、ただ延々と怪獣バトルを見せ続けられるばかりで見ていて苦痛ですらありました。
子供たちは喜んだかも知れませんが、一本の映画として見た場合非常にいびつな作りだったことは間違いありません。
今作も本編パートに比較して特撮シーンの比率が非常に高く、後半はひたすらゴジラとメカゴジラの戦いの描写が続きます。

しかし、今回は戦闘時にもメカゴジラ内部のコクピット描写があることと、人間たちとベビーゴジラの関係を描く本編部分にもウェイトが割かれていることもあって、前作のような物語性が崩壊するほどのバランスの悪さは感じません。
これは、ベビーゴジラと佐野量子たち生身の俳優が共演するシーンを、特撮班ではなく本編班の大河原孝夫監督が演出していることが功を奏しているものと考えられます。
前作『ゴジラvsモスラ』では大きく崩れてしまっていた特撮シーンと本編ドラマシーンの関係が、今回はちょうど良いバランスに収まっているように思えます。

そのベビーゴジラ。
当初話を聞いた時点では、旧作のミニラや『REX 恐竜物語』の悪夢が蘇ってきて「終わった・・・」と思ったものでした(笑)。
実際に映画に登場したその姿形は、恐竜をベースに眼が大きくデザインされていて、ファンシーとリアルさの間でうまくバランスを取っている印象です。


意外なことに、川北監督による派手な怪獣バトルよりも、大河原監督の演出による梓たち人間とベビーゴジラとの等身大の芝居のほうが集中して観ていられました。
当時は『ジュラシックパーク』の公開後だったことから、ベビーゴジラと人間の共演が陳腐なものに見えてしまうことを危惧していたのですが全くの杞憂でした。
特に、G対策センターの飼育室でベビーゴジラの頭上を青木と梓が翼竜型小型飛行機で飛ぶシーンは、今見てもほのぼのしていて気持ちが和みます。
【五条梓】


『ゴジラvsメカゴジラ』のメインヒロインです。
演じた佐野量子さんは、(失礼ながら)演技に関してはお世辞にも上手とは思いません。
年齢より幼く見える姿形のためか、有能な生物学者という役どころにも背伸びしている印象が強いです。
しかし、この映画の成否を分けると言っても過言ではない「ベビーゴジラと人間の交流シーン」を成功に導いたのは、彼女自身が醸し出す「母性」そのものではなかったかと思います。
人間の子供と接するかのように同じ目線に立って諭すように語り掛ける佐野量子さんの真摯な演技があって、ベビーゴジラも初めて生き物として見えるのだろうと思います。
これらの場面を気恥しく感じる人も多いと思いますが、『ジュラシック・パーク』では得られない、こうした演出・表現を愛でることこそが東宝特撮ならではの楽しみだと思っております。
佐野さんは本作品公開の一年後に女優業から引退、武豊騎手と結婚してしまいました。
さぞ素敵なお母さんになっていることだろうと思っていたのですが、何故か子供はいないそうです。
それでも男か、武豊!。
【三枝未希】

『ゴジラvsビオランテ』でそれまでになかった「超能力者」という新要素を引っ提げて登場した三枝未希ですが、『vsキングギドラ』『vsモスラ』では目立った活躍は無く、単なる生きたゴジラレーダーといった印象しかありませんでした。
最終作を意識して作られた本作では、彼女の能力を利用してゴジラの第2の脳の在処を探るというシチュエーションがあったものの彼女のゴジラに対する思いは決着を見ていません。
おそらくベビーゴジラ担当である梓(演:佐野量子)の描写が優先されたために、未希の描写に時間を割くことが出来なかったものと思われます。
彼女の物語の完結は続く『vsスペースゴジラ』と『vsデストロイア』へと持ち越されることになります。
【川北特撮】
川北紘一特技監督が平成ゴジラシリーズ成功の一番の功労者であることは間違いありません。
常に新しい表現を模索する姿勢も、観客のことを第一に考えるサービス精神の旺盛さも、映像制作業の端くれとして見習うべきところの多い素晴らしい方だと思っています。
しかし私は、正直なところ川北監督が描く「怪獣」についてはあまり好きではありません。
川北監督の怪獣描写で物足りないのは、登場する怪獣たちがいかにも作り物っぽくて生物感が無いことでした。
例えば、モスラ幼虫の直線的で単調な動きだったり、飛行するキングギドラの脚がウルトラマンの飛び人形のように固定されて揺れもしないことなどが挙げられます。
メカニック描写を得意とする監督さんですが、生き物もまたメカのように扱ってしまっている印象です。


本作品ではラドンにその傾向が顕著でした。
硬質なイメージの造形もさることながら、終盤でラドンが角を光らせながらビームを吐く姿はまるで戦闘機のようで興醒めでした。
「身体の一部を光らせてビームを放つのはゴジラも同じ」と言えば確かにそうなのですが、このファイヤーラドンといい、触角からビームを撃つモスラといい、パワーアップに対する着想があまりにも『ウルトラ』的過ぎて、「ゴジラ映画はテレビ特撮とは別格」と思って育ってきた者としては残念な”進化”でありました。

ビームといえばもう一つ気になるのが、ゴジラが放射熱線を吐くときの溜め(背ビレが光ってから吐くまでの「来るぞ~」感)が作品を重ねるごとに短くなっていることです。
発射までのプロセスをしっかり見せたうえで「ゴォォォォ」と吐くことがゴジラの怖さやカッコ良さにも繋がっていたと思うのですが、VSシリーズではいつの間にか口を開くだけで簡単に連射出来るようになっていました。
これでは、伝家の宝刀・放射熱線にも有難み(?)が無くなってしまいます。
しかも、終盤でこれほどエネルギーを消費するというのに、作品中一度も核エネルギー補給(原発襲撃など)の描写がありません。
劇中で見せるゴジラの強さの表現に実感が伴わず、そのことも怪獣の生き物感不足に繋がっています。
メカと光線技を得意とする川北監督が、巨大生物:ゴジラと真正面から向き合ったのは、『ゴジラvsビオランテ』の時だけだったと思うのは私だけでしょうか?。
【終わった・・・】


機械であるメカゴジラとの対比のためか、今作では昭和後期作品のように血しぶきをあげてのたうち回るゴジラの姿も描かれています。
更に終盤では、第2の脳を破壊されてメカゴジラの前に手も足も出せない哀れな姿を晒します。
しかし、ここまではまだ大逆転の前フリと思ってスクリーンをじっと見つめておりました。


ところが、この映画における逆転勝利は、ゴジラ自身の力によるものではありませんでした。
しかも、その逆転勝利に至る流れは、私が作劇手法として最も嫌うご都合主義丸出しの「命の奇跡」なるもののおかげだったのです。
メカゴジラに撃墜されたラドンは第2の脳を破壊されて動けないゴジラに覆いかぶさって絶命します。
そのラドンの生命エネルギーを吸収したゴジラは突如復活。
第2の脳もみるみるうちに元通りになり、超絶パワーアップした赤色放射熱線でメカゴジラを撃破します。
ええええ~~~っ?
これじゃまるで、ピンチに陥った現役ヒーローが兄貴や父親に助けてもらっていた『ウ●ト●マン・エ●ス』みたいじゃないですか!。

真っ赤な放射熱線を吐き、一撃でメカゴジラを撃破した復活後のゴジラは確かに大迫力でありました。
しかし、どんなにカッコ良く描かれようが凄んでみせようが、私はどうしてもこの他力本願的な逆転勝利を受け入れることが出来ません。
この場面は、たとえどんなに突拍子もないアイデアであってもいいから、ゴジラ自身の底力を見せつけて逆転する姿を見せて欲しかったです。

例えるなら後の『ガメラ2 レギオン襲来』のラストで満身創痍のガメラが放ってみせたウルティメイト・プラズマのように。
前半部分に限って言えば、『ゴジラvsメカゴジラ』はシナリオも良く出来ていてなかなか面白い怪獣映画でした。
ゴジラ、ベビーゴジラ、ラドンの各怪獣の設定も有機的に繋がっていて楽しめましたし、懸念していたベビーゴジラと人間の交流シーンも意外なほどすんなり受け入れられました。
メカゴジラも、メカキングギドラの研究の成果であるという過去作品の設定を柔軟に生かして描かれており、決して浮いた存在になっていません。
過去のシリーズ作品を尊重しながら、地に足の着いた新しいゴジラの物語を描こうとする点を高く評価していたのです。
しかし、クライマックスのあの逆転劇には本当に失望させられました。
そして、結局自力でメカゴジラに勝てなかった(この個体の)ゴジラには、もはや神秘性も畏怖の念も感じることは出来ません。
『ゴジラvsデストロイア』を待たずして、私にとっての平成ゴジラはこの作品で終わったも同然でありました。
【最後に】
「こんな都合のいい話がそうそうあってたまるか!」
これが、当時『ゴジラvsメカゴジラ』鑑賞直後の私の感想の全てでありました。
前半におけるベビーゴジラと梓のほのぼのシーンのことなど、どこかへ吹き飛んでしまっていました。
冒頭で書いた通り、当時の私は色々悩みを抱えていてナーバスになっていたと思います。
そのせいでこんなヒネくれた見方をしておりました。
他力本願で奇跡に頼った勝ち方で終わるこの映画に対して強い違和感を感じてしまうのは、現状打破に悩んでいた当時の私の心境が影響していたのは確かです。
「この映画が一番好きだ」という方や「これが初めて観た映画だ」という方には不愉快な思いをさせてしまったかも知れません。
あくまでも私個人の感想でありますことをご理解願います。
【おまけ:ゴジラ in 京都】
今回も、最後ネガティブな印象で終わってしまいました。(自己嫌悪)
お口直しに、先日(6月下旬)京都へ行った際に撮ってきた『ゴジラvsメカゴジラ』ロケ地巡りの写真で締めたいと思います。
この日は気温30度を超える真夏日だったため全ての場所を回るのは断念しましたが、これはこれでなかなか楽しい一日になりました。
当時大阪でテレビ番組制作の仕事をしていた私にとって、京都は頻繁に赴くことの多い取材エリアの一つでした。
京都の風景ショットを撮るにあたりこの映画の撮影ポジションやアングルをパクらせてもらったこともありましたし、逆に以前自分が全く同じ場所から同じレイアウトの画を撮ったことがあるシーンもあったりして、「ああ、この画はあそこから撮ったな」と一人ほくそ笑んだ場面もあったりします。
【東寺より】

まずは三重県鈴鹿サーキットから移動してきたゴジラが京都入りしたところを、東寺方面から望遠で捉えたこの場面。

東寺前の歩道橋の上から、出来るだけ映画の場面に近いアングルで撮ってみた写真がこれです。
映画では、画面手前の建物の屋上で中継しているTVクルーがいましたが、この写真右端のマンションがその建物です。

高さから察するに、映画の撮影場所は歩道橋よりさらに奥の病院(白とピンクの建物)の屋上だと思われます。
勝手に病院の屋上に上がり込むわけにもいきませんので、ここまでで諦めることにしました。
【京都タワー】

ゴジラが放射熱戦で京都タワーを破壊するこの場面。
これらの建物は全てミニチュアだと思われますが、一応同じアングルでの撮影を試みました。

・・・が。
行ってみると、バスターミナルの屋根が邪魔で映画の場面のように見上げることは出来ません。
う~ん、残念。
京都駅自体は乗り換えなどで利用することは多いですが、こうして周辺をゆっくり見て回ったのは初めてです。
【三条大橋】

三条は、私が京都の中で最も行く機会が多い場所であります。
なぜならば、福井から車(下道)で京都へ行くときに国道161号線バイパスを道なりに進んで行くとこの三条に行き着くからです。
此処から地下鉄やバスで京都の各地へ向かったり、京阪電車で大阪へ移動するなど、私にとっては関西方面へのハブ的地点になっているのです。
ただし、土日祝日は駐車料金が異様に高いのが難点で、休日の場合は滋賀県の大津京駅に車を置いて行動することにしています。

端の造りや周辺の建物など、風景はほとんど変わっていませんね。
映画と出来るだけ近いアングル&サイズで撮ってみました。
今回の写真は、下の川べりに降りて、自撮り棒を思い切り伸ばして高さを稼いで撮影したものです。

1993年当時、川北監督たち撮影隊が実際にカメラを置いたであろう場所には、現在はこのように街路樹が茂っていました。
この映画が作られてから四半世紀近く経っているわけですが、三条大橋の変わらなさには驚きます。
【清水寺】

京都駅→三条と、北上を続けると思われたゴジラは何故か急に五条方面へと舞い戻り清水寺に現れます。
清水寺といえばこのアングルです。
定番撮影ポイントである奥の院から撮影したものでしょう。
私もよくこの場所でこれと同じアングルの画を撮ったものです。
このように、この映画の中に出てくる京都の名所シーンはそれぞれがいわゆる「定番ショット」だったように思います。
『ゴジラvsメカゴジラ』はトライスター版『Godzilla』に先駆けて海外でのセールスも視野にあったはずですから、そこに盛り込まれた京都のショットが、観光誘致パンフレットや絵葉書みたいな定番ショットになるのも頷ける話です。
しかし、残念なことに清水寺は現在「平成の大改修」の真っ最中でありました。
したがって、有名な清水の舞台(本堂)は工事用の櫓に覆われてしまっていると思われます。
あえてその工事中の姿を見に行くことも一瞬考えましたが、ここは漢らしくスパッと諦めました。
クソ暑いですし、50を超えたおっさんとしては無駄なエネルギーは使いたくないのであります。
【二年坂】

というわけで、清水寺のすぐ近くにある二年坂を見に行きました。
京都の大抵の観光地は見たつもりでいましたが、この二年坂は今回が初めてでした。
こうして坂の上から見下ろすと、意外に狭い路地でしかもかなり急な傾斜であることが分かります。

下の方から映画の場面と同じアングルを探してみたものの、建物や樹木の形がまるっきり違うためにかなり苦労しました。
さらに、電柱が綺麗さっぱり無くなっていて、建物と建物の区切りも分かりにくくなっています。
多分電気は地下から供給しているのでしょうが、さすがは景観を重視する京都だと感心してしまいました。
画面右側にある木の節目を生かした板塀を見つけてようやく場所が特定出来たものの、手持ちのデジカメでは映画と同じ広角で全体を写真に収めることは出来ませんでした。
そのため撮影ポイントを若干後方に下げて撮影しています。
これは趣味でエキストラをやっている者の感想ですが、この急な坂道を大勢で駆け下りるのはちょっと危ない気がします。
一人がコケたら皆ドミノ式に倒れていって大変なことになってしまいそうです。
【鴨川上流】

ゴジラは再び北上し、出町柳付近を移動して行きます。
この場面は鴨川上流の出雲路橋の下から撮影したショットです。
場所は京阪:出町柳駅から川沿いに歩いて20分程度のところでした。

鴨川沿いに歩道と芝生が整備されていて、散歩する人やお弁当を広げている家族連れなどが大勢いました。
またランニングコースとしても最適らしく、酷暑の中ゼェゼェ言いながら歩いている私の横を、どこかの高校の陸上部の子たちが全力疾走で駆け抜けていきました。

そのうえで・・・。
この場面をよく見ると、ゴジラが目の前にいるにもかかわらず普通にランニングしている人の姿が小さく映っていることに気が付きます。
この人たちは、自分が『ゴジラvsメカゴジラ』の一部になれたことに気付いているのでしょうか?。
いつもエキストラ募集の当落に一喜一憂している私には羨ましい限りです(笑)。
ゴジラの京都縦断はここまで。
どうせならこのまま北上を続けて我が福井県まで来て欲しいところでしたが、何故かクルリとUターンし大阪梅田を蹂躙して去って行きました。
それもまたタイアップの一環だったのでしょうね(笑)。
今回は・・・いや、今回も詰め込み過ぎて長文になってしまいました。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。