ゴジラシリーズ全作品レビュー21 『ゴジラvsスペースゴジラ』(1994年)
ゴジラシリーズ通算21作目にして、『ゴジラ』第一作公開から40周年というメモリアルイヤー公開作品。
潤沢な製作費をつぎ込んで超豪華な娯楽超大作を打ち出してくるかと思いきや、ハリウッド版『Godzilla』製作開始が大幅に遅れていたことから間を繋ぐ必要があったため急遽作られた作品でしかありませんでした。
「平成ゴジラVSシリーズ」は前作『ゴジラvsメカゴジラ』で一旦終了を予定していたはずでしたが、東宝としては大きなビジネスチャンスを前に世間からゴジラへの関心が薄れてしまうことを恐れたのでしょう。
『ゴジラvsスペースゴジラ』

<あらすじ>
宇宙に運ばれたゴジラ細胞がブラックホール内で結晶生物と合体して誕生した怪獣・スペースゴジラ。
地球に接近するスペースゴジラに対して、国連は対ゴジラ兵器モゲラを宇宙に送り込むがあえなく敗退。
ついに地球に飛来したスペースゴジラは、自分のオリジナルともいうべきゴジラに戦いを挑む。
【スペースゴジラと権藤さん】

ゴジラVSシリーズ次回作のタイトルが『ゴジラvsスペースゴジラ』だと聞かされた時・・・。

ふと私の脳裏に浮かんだのはやたら目が吊り上がった陰険な顔つきのウルトラマンと体中にゴテゴテと余計なパーツをくっ付けたウルトラセブンのイメージでありました。
そして本当に残念なことに、そのイメージの方向性は概ね間違ってはいなかったのです。

これがそのスペースゴジラ。
確かにトゲトゲがゴテゴテです。
いかに時間が無い中での急ごしらえとはいえ、「スペースゴジラ」というネーミングとそのデザインセンスには流石の私も劇場へ見に行く気が失せました。
いや、その設定が思わず膝を打つほど斬新で腑に落ちるものであれば興味も湧くというものですが・・・。

「宇宙へ飛散したビオランテの細胞か、あるいは宇宙へ飛び立ったモスラに付着していたゴジラの肉片かは定かではないが、そのいずれかに含まれていたG細胞がブラックホールに飲み込まれて結晶生物と恒星の爆発エネルギーを吸収、ホワイトホールから放出された結果、異常進化して誕生した。」
・・・ということであります。
○| ̄|_
ところで、ドヤ顔でスペースゴジラの正体をキッパリと断定して見せたこの美人さんは『ゴジラvsビオランテ』で殉職したあの権藤吾郎一佐の妹、千夏(演:吉川十和子)です。

そして権藤がらみでもう一人。
彼の親友で、その仇討ちに燃える結城晃Gフォース少佐(演:柄本明)。
本作の主人公の一人です。

1989年。
大阪のパナソニック・ツインタワーで、命を賭してゴジラに抗核エネルギーバクテリアを直接打ち込んだ権藤一佐(演:峰岸徹)。
メインの登場人物に『ゴジラvsビオランテ』で強い印象を残した彼との関係を絡めてくるとは、なかなかどうして巧いストーリー構築ではあります。
しかしSF設定にこだわる私としては、この話の流れはどうも腑に落ちません。
なぜならば、『ゴジラvsキングギドラ』において発生したタイムパラドックスにより、1984年に東京に上陸したゴジラの個体は「存在しなかった」ことになっており、1989年のビオランテ戦も「この歴史の上では無かった」ことになっているはずなのです。
すなわち、この時間軸世界では権藤一佐はまだ何処かで生きているはずであり、妹も親友もその仇云々を口にするのjはおかしいのです。
このことを口にするたびに周囲から「細かいことは気にするな」と言われてしまいます。
しかし、映画の出来不出来の判断基準をまずストーリーに求める私としては、この映画の基本設定は「根本から成立していない」のであります。
とはいえ、それはあくまでも『ゴジラvsキングギドラ』の無茶な設定のせいであり、ある意味仕方がないことかも知れません。
そこさえ考えなければ、『ゴジラvsスペースゴジラ』のストーリーは過去作品の設定(伏線)を巧みに利用して組み上げられたものであり、ネーミングやビジュアル面の不統一感以外は特に大きな破城はありません。
登場人物も、Gフォースに属するはぐれ者コンビとレギュラー超能力少女との交流、権藤一佐の死を引きずったその妹と親友という2つのストーリーラインが用意されていて一本の映画として見せ場に困ることはない”はず”でした。
ところで・・・。


結城役の柄本明さんは、既存のゴジラ映画出演経験のある俳優をほとんど起用しなかった『シン・ゴジラ』にも官房長官役で出演されていました。
『シン・ゴジラ』つながりで少々横道へ逸れますが・・・。

バース島での結城は、とある薬剤をゴジラの皮膚の弱い部分(腋の下)に打ち込んでゴジラを倒そうとしていました。
その薬剤とは「血液凝固剤」。
『シン・ゴジラ』の「ヤシオリ作戦」で使われたものと同じ性質のものであり同じ名称です。
長い間本作を見返すことが無かったため気付きませんでしたが、意外なところに『シン・ゴジラ』の元ネタがありました。
そして、その着想そのものは『ゴジラvsビオランテ』の抗核エネルギーバクテリアへと遡ります。
どうやらゴジラを倒す(あるいは活動停止させる)ための方法は、外からの物理攻撃ではなく投薬投与による内部からの攻撃が有効であるという結論に落ち着いたようです。
そこから思うに、「平成ゴジラVSシリーズ」は、『ゴジラvsビオランテ』と『ゴジラvsキングギドラ』がその頂点であり、あとはひたすらその再生産を繰り返していただけではないのか?と思えてなりません。
『vsキングギドラ』以降は、斬新なゴジラ撃退方法やゴジラの新能力開拓などの思い切った描き方をしてはいません。
『vsモスラ』も『vsメカゴジラ』も、そして今作も「早くも守りに入っている」という印象が強いです。
【川北特撮】


新宿東宝ビルの屋上から顔を出しているゴジラの顔は、この『ゴジラvsスペースゴジラ』の時のイメージだそうです。
現在も日本人のほとんどが思い描くゴジラのイメージは、川北紘一監督が作り上げたVSシリーズのゴジラ像ではないでしょうか。
川北監督は「平成ゴジラVSシリーズ」を成功に導いた最大の功労者です。
しかし時として特撮シーンを無闇に長尺化してしまい、映画全体のバランスを壊してしまうこともありました。
『ゴジラvsモスラ』と、この『ゴジラvsスペースゴジラ』では特にその傾向が目立ちます。

ゴジラとスペースゴジラ、そしてモゲラによる三つ巴の怪獣バトルは終盤で「これでもか」とばかり延々と特撮シーンが続きます。
前々作『ゴジラvsモスラ』の終盤30分は人間ドラマがほとんど描かれなくなってしまうほどで退屈でしたが、今回はさらにテンポの悪さも加味されていて最後まで見続けることが苦痛にすら感じます。


中でも、モゲラに関しては変形・合体シーンがあるたびに省略することなく繰り返し繰り返し律義に描写していますが、結果としてそれが映画のテンポを悪くしています。
川北監督は『地球防衛軍』を観て特撮映画の世界へ入ったと言われる方ですからモゲラに特別愛着があるのはよく分かりますが、これはもう「しつこい!」とさえ感じてしまうレベルでした。
中には台本に無かったメカシーンが勝手に作られていた箇所もあったようで、そのために本編部分の尺が圧迫されてしまい山下本編監督はせっかく作った人間ドラマ部分を刈り込む羽目になったそうです。

映画の冒頭で、新城(演:橋爪淳)と佐藤(演:米山善吉)がバース島へ左遷させられた理由について、脚本には明確にそのシーンが描かれていたにも関わらず完成した映画ではカットされてしまっていました。
バース島へ至るまでに新庄のキャラクターが明確にされていないため、三枝未希(演:小高恵美)に出会った時の「会ったら聞いてみたかったんだ。どうしたらそんなにゴジラが好きになれるのか?って」と尋ねる姿が単に不しつけで軟派な男のように見えてしまう危険がありました。

橋爪淳さん自身のキャラクターと演技のおかげでそうした誤解は免れたものの、やはり人物描写が希薄なために後半の未希とのロマンスに関してはやや唐突なものに映ってしまいました。
もっとも、この新城と未希の関係については次回作『ゴジラvsデストロイア』では一切語られていません。
その後お互いに接点を見い出せずに別れてしまったものと思われます。
(当時の自分の状況や心情からは、こういうネガティブ発想が先に立ってしまいます・・・)
この頃のゴジラ映画は、ストーリーではなく特撮そのものが映画の本幹部分となっていて、ドラマ部分はそれを解説するためだけのものでしかなくなっています。
まるで川北特技監督が影の監督であり、本編監督はそれを補足するための画を撮るB班(セカンド・ユニット)のように思えてしまいます。
この頃は作品そのものに対する発言力も相当強かったようで、時にはシナリオや本編監督の意向を無視して好き勝手に作ってしまうことも多かったようです。
現に、突然シナリオにないシークエンスの撮影準備を指示された若いスタッフがその理由を尋ねたとき、「ホンが面白くないからだ!」と一喝されたというエピソードも残っています。
この逸話が本当なら、後期平成VSゴジラの製作現場は非常にいびつなものだったように思えてなりません。
「現場の判断」は確かに大事ではありますが、少なくとも山下憲章本編監督やプロデューサーには事前にひと言相談するべき場面です。
そうして作られた特撮場面がメイン・ターゲットとする子供たちを大いに喜ばせ、興行成績向上に大きく貢献したであろうことは確かですが、一本の映画のバランスを破壊してしまっていたことも事実です。
【リトルゴジラ】

予告編でこれを見てしまった瞬間、私にとって平成VSシリーズは「完全に終わった」と思いました。
30歳を過ぎた男に、これに何を期待しろと言うのか・・・。

これが・・・

一体何を食ったらこうなるのか?。
良く言えば「ファンシー」悪く言えば「女性や子供客に媚びた」このリトルゴジラのデザインを推したのは、他ならぬ川北紘一特技監督だったそうです。
前々作『ゴジラvsモスラ』は、徹底したマーケティング・リサーチにより親子連れと女性の集客を狙った作りに徹底することで、(作品の出来や内容とは別の理由で)大成功を収めました。
しかし、作り手の目線が狙いを定めたターゲット層のみに向けられていることがハッキリ判ってしまうことで、我々のような古参の怪獣映画ファンは疎外感を感じたものでした。
そしてこの『ゴジラvsスペースゴジラ』にも、「あんた達のために作ったんじゃないよ」的オーラが全身に漂っていたのです。
【それでもやっぱりゴジラだから・・・】
結局、私は劇場に足を運んでしまいました。
あのゴジラの雄姿と咆哮を私の身体が求めていたのかも知れません。
考え方の違いから冷めた関係になってしまった女であっても、それでも時々会いたいと思ってしまうようなものでしょうか?。
変な例えでスミマセンが、互いの求める方向性さえ一致するなら私はいつでも縒りを戻すつもりでいたのです。
しかしそれには、7年後の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』と22年後の『シン・ゴジラ』を待たなければなりませんでした。
観たのは年が明けてから2週間ほど、上映期間も終わりが見えてきた頃です。
冬休みが終わり小中学校が新学期を迎え、小さい子供が来なくなったタイミングを見計らって劇場に足を運びました。
『ゴジラvsスペースゴジラ』は、世を拗ねた30歳過ぎの男が心底楽しめるような作品ではありませんでした。
私の興味は、『ゴジラvsビオランテ』以来くすぶっていた「怪獣映画へのエキストラ出演」に関する部分がほとんどでありました。




本作では、北海道から九州まで日本列島を縦断するスペースゴジラの移動に合わせて、当時の各都市の風景が大勢の市民エキストラの姿とともに登場しています。
中にはご当地のアナウンサーや番組スタッフがそのままレポーターとして出演していたシーンもありました。
私は福岡の女性レポーターの郷土愛溢れる実況を聞きながらも、彼女を撮りつつ自分もしっかり映画に顔を出していたカメラマンのことを(同業者として)心底羨ましく思ったものでした(笑)。


その中に、神戸市上空をスペースゴジラが飛び去る場面もありました。
当時の私にとっては、神戸もまた頻繁にロケで訪れることが多かった、とても馴染み深い土地です。
前作『ゴジラvsメカゴジラ』で京都のシーンを観た時と同様、心地よい既視感に酔うことが出来ました。
しかし・・・。
【平成7年1月17日、AM5時46分52秒】

阪神淡路大震災発生。
まさか新作ゴジラを観たわずか数日後に、あのような大災害が現実に起こるとは夢にも思っていませんでした。

当時関西マスコミの末席にいた私も、その日から約2か月間は東京キー局主導の神戸取材に拘束されることになりました。
ゴジラ映画の記事の中で阪神淡路大震災を語るのはあまりにも不謹慎と考えますので詳細は控えますが、私の人生に最も大きな影響をもたらした体験であることは確かです。
それはゴジラなど特撮怪獣映画とも決して無関係ではありません。
阪神淡路大震災については、後日単独記事として書き残すことにしております。
震災関係の写真2枚は神戸市のオープンサイト「阪神・淡路大震災1.17の記録」より拝借させていただきました。
最後に明るい話題を二つ紹介して締めにしたいと思います。
【ゴジラ九州縦断ルートの謎】

『ゴジラvsモスラ』から大々的に行われるようになったご当地エキストラ参加ツアーは、実施された都市の興行成績を引き上げるのに大きく貢献していました。
その地でゴジラのロケが行われたとあれば、参加者とその家族・関係者はもちろんのこと街中の人が映画を見に行くであろうことは確実であり、特別な広告宣伝費を使わずとも一定地域の興行収入を上げることが出来るのです。
逆にそのことが、高収益が期待出来る大都市や有名ランドマークを有する地域にばかりロケ地が集中してしまうという弊害をもたらしていました。


しかし今作ではそれに一矢を報いるようなエピソードがありました。
今回のゴジラは鹿児島から九州に上陸して、一路スペースゴジラが拠点とする福岡に向かって行くわけですが、本来なら熊本から一直線に福岡を目指せばいいものを、なぜか一旦大分県に向けて大きく迂回するルートを取っています。

拉致されたリトルゴジラを取り戻すため一刻も早く福岡に行きたいはずのゴジラが、どういうわけか九州4県全部を律儀に回ってみせたわけです。

実はこれ、大分県の商工会議所や各市町村が「大分だけ無視とは何事か!」と東宝に対して積極的に誘致活動を行った結果なのだそうです。
映画のリアリティとしてはいかがなものかとは思いますが、これはこれで心温まるお話ではないでしょうか。
日本各地の県や市町村が『男はつらいよ』やNHK大河ドラマの誘致を狙っていたのと同じように、ゴジラもまた「町興し・村興し」の神輿として見られるようになっていたのですね。
我が福井県の為政者たちも、ゴジラ誘致にこれくらい熱心に動いてくれたら嬉しいんですがねえ。
【沖永良部島の子供たち】
最後にもう一つ心温まるエピソードを。
これは『ゴジラvsスペースゴジラ』のDVDに収録されたオーディオコメンタリーで山下監督が語っていた話だったと記憶しています。

ゴジラとリトルゴジラが生息するバース島のシーンは、奄美群島南西部に位置する沖永良部島で撮影されました。
ところが撮影当時、ロケハン時とは潮の状態が大きく異なって引き潮状態になっており、美しかったはずの浜辺は大量のゴミや藻で撮影どころではなくなっていたのです。
しかし、それを知った沖永良部島の小学生たちが総出で浜の清掃をして、蘇った綺麗な浜辺とともに撮影隊を迎えてくれたのだそうです。
彼らのおかげで無事に撮影出来たそのお礼として、山下監督たち東宝サイドは映画完成後すぐに『ゴジラvsスペースゴジラ』を島の子供たち全員に無料で鑑賞してもらうプレゼントをしたとのことでした。

正直なところ、私にとっては見るべきところがほとんど無いゴジラ映画でしたが、当時の沖永良部島の子供たち(現在は30代半ばくらい?)にとっては大切な思い出が詰まった映画のはずです。
そのことを考えると無下に貶すことも出来ませんし、映画の出来栄えだけが評価の全てではないとも思う今日この頃であります。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。