ゴジラシリーズ全作品レビュー22 『ゴジラvsデストロイア』(1995年)
最初にお断わりしておきます。
『ゴジラvsデストロイア』は、当年とって53歳のトガジンにとりまして(2つのハリウッド作品も含めた)ゴジラシリーズ全31作品中のワースト1です。
これまで、出来る限り「良いところ」を探しながら書いてきた「ゴジラ全作品レビュー」ですが、今回ばかりはその「良いところ」を見出すのが非常に困難でありました。
もちろん、この作品を心底好きだと仰る方の想いにまで唾を吐くつもりはありません。
「この『ゴジラvsデストロイア』が生まれて初めて観た映画で人生で一番愛着がある作品だ」
「ゴジラの最期に涙した」
このように仰る方々が大勢いることも重々承知しております。
私とて、自身の劇場初体験作品である『ゴジラ対へドラ』のことを初代『ゴジラ』や黄金期の作品を知る先輩ゴジラファンからボロクソに罵られて悔しい思いをした経験があります。
(「昔自分が観た最初のゴジラはそりゃもう凄かった!」と自慢げに言われても困ってしまいますよね)
しかし、低年齢層向けとして作られながらも奮闘して見せた作品や、最初から単純明快な娯楽作品と割り切って作られたものと、この『ゴジラvsデストロイア』とでは問題の次元が違います。
『ゴジラvsデストロイア』制作陣が犯した取り返しのつかない愚行は、第一作から受け継がれた貴重な遺産を単なる客寄せの道具として無駄に消費してしまったことです。
そして、「ゴジラ死す」とか「今世紀最大の謎が今解き明かされる」などと大上段に構えておきながら、ゴジラ完結編として描くべきことを何一つ描き切ろうとしていなかったことです。
46年来のゴジラファンとして、そして『ゴジラ』第一作の志の高さに感銘を受けた者として、最高の御膳立てを得ていながらその全てを無駄にしたこの『ゴジラvsデストロイア』に対してだけはどうしても文句を言わずにいられないのであります。
『ゴジラvsデストロイア』

<あらすじ>
体内で炉心溶融を起こし赤く発光するゴジラが出現した。
Gサミットではゴジラの核爆発やメルトダウンの危険があることが判明したことから攻撃することすら出来ずにいた。
一方、東京湾岸に謎の生物が出現して人間たちを襲い始めた。
酸素研究の第一人者である伊集院博士は、この生物がかつて初代ゴジラを葬った芹沢博士の超兵器オキシジェン・デストロイヤーの影響で生み出されたことを突き止める。
Gサミットは、ゴジラJrを囮に利用してゴジラとデストロイアを戦わせ両者共倒れを画策するが、ゴジラメルトダウンのリミットは刻一刻と迫っていた。
【高まる期待】
私が『ゴジラvsデストロイア』を劇場で観たのは、何を隠そう公開初日(1995年12月9日)でありました。
この作品の宣伝ではとにかく詳しい情報が伏せられていたため、「ゴジラの最期はいかなるものか?」「オキシジェン・デストロイヤーが物語にどう絡んでくるのか?」などが全く分からなかったのです。
ネタバレされるのを避けるには初日に観に行くに限ります。
1995年12月9日の時点で、私のこの作品に対する期待値はそれほどまでに高かったのです。

「ゴジラ死す!」のキャッチコピーに、体内から真っ赤に燃えている凄惨な姿と化したゴジラのインパクト!。
また、「デストロイア」という名前からは初代『ゴジラ』のオキシジェン・デストロイヤーが想起され、第一作へのオマージュと40年越しに何らかの解答が描かれるのではないかと胸が高鳴りました。
ハリウッド版を前に東宝が・・・いや日本の特撮映画界が本気を見せてくれるものと思っていました。
期待する理由はもう一つありました。
前作『ゴジラvsスペースゴジラ』公開の3か月後に公開され、私を歓喜させてくれた『ガメラ 大怪獣空中決戦』の存在です。

最初に観た時からすっかり夢中になり計4回も映画館に通ったうえ、秋に発売されたLDも購入してそれこそ猿のように何度も何度も繰り返し観た作品です。
後に『ゴジラxメガギラス』など3本のゴジラ作品を手掛けることになる手塚昌明監督は、この『ガメラ 大怪獣空中決戦』を観た感想を「椅子から立ち上がれないくらい悔しかった。」と述懐していらっしゃいます。
川北紘一特技監督も「視点の統一ということを徹底してやっていて、本篇のストーリーも面白くうまくマッチしていた。」と賛辞を送っておられました。
東宝のゴジラ関係者が『ガメラ 大怪獣空中決戦』に一目置いていたことは確かです。
その『ガメラ』の後を受けて作られる、怪獣映画の本家東宝の平成『ゴジラ』完結編がつまらない代物であるはずはありません。
そんなことは絶対にあり得ません。


映画は昭和29年の『ゴジラ』第一作を意識したかのような海面ショットから始まります。
バース島の消滅により、前作までの諸設定をリセットさせるところから始めようとしている様子で、この点も第一作『ゴジラ』を踏まえた物語として腰を据えて描いていこうする意気込みを感じました。
私としては、どうせなら過去4作品全部を「無かったこと」にして『ゴジラvsビオランテ』から続くストーリーにしてくれても良かったくらいです。

途中、コケそうになった部分はありました(笑)。
中国語はからきしな私でも、このパイロット役のセリフが「棒読み」であることくらいは分かります。
しかしこの直後、本作の目玉であるバーニング・ゴジラが姿を現し、彼の棒読み演技は帳消しになりました。

映画開始後2分10秒で早くも姿を現したバーニング・ゴジラの鬼気迫る姿と、伊福部昭先生の手による「切迫感」と「不吉な予感」に満ちた楽曲との相乗効果で、2年ぶりの本格的東宝特撮映画に酔い痴れていました。
この時点ではまだ、平成ゴジラ最終作への期待は微塵も揺らいではいません。
【失望の連鎖】
しかし、そんな私の期待も高揚感も上映開始からわずか4分55秒で木っ端微塵に打ち砕かれました。
カット数でいえば最初の東宝ロゴから数えて丁度50カット目です。

私がガッカリさせられたのは、香港の街をバーニング・ゴジラが蹂躙するシーンの中のこのカットです。
現地で撮影してきた実景映像にゴジラを合成したものですが、画面奥から巨大なゴジラが迫って来るというのにバスも談笑する人々も平然とゴジラのいる方向へ進んでいるのです。
これに気付いてしまった瞬間、私の気持ちは早くも警戒モードに切り替わってしまいました。
「この映画、ダメかもしれない・・・。」
合成用ベース画面は香港の夜景を普通に撮影してきただけの実景映像ですから、そこにゴジラと無関係な人々が映ってしまっているのはある程度仕方がありません。
しかし、その前景に逃げる人々を合成するなどして誤魔化すくらいのことは出来たはずです。
映画の途中ならまだしも、冒頭のいわゆる「掴み」のシーンでいきなりあんな気の抜けたミス・ショットを見せられては先が思いやられるのも当然です。
案の定、細部へのこだわりを欠いた絵作りはこのカットだけではありませんでした。
しかも、ストーリー上で緊張感を持続させるべき箇所に限って大雑把な特撮ショットがやたらと目に付くのです。

例えば、ゴジラとデストロイアの死闘が展開されている空港で、普通に離陸しようとする飛行機や搭乗橋をのこのこ歩いて旅客機に乗り込む乗客が写ってしまっていること。


品川駅前を逃げるエキストラに「何?この人たち?」な部外者が紛れ込んでいて緊張感を著しく損ねていることや、怪獣が出現したというのに普通に新幹線が運行しているという『ゴジラ(昭和59年版)』で失笑を買ったあの同じ過ちを繰り返していること。


ちびデストロイアの群れがいかにもオモチャの人形であるだけでなく、その動きもまたラジコン操作の単調なものでとても生き物には見えないこと。
また、バーニングゴジラに近づくいていくゴジラ・ジュニアがやはりただの人形で、脚の動きと移動距離とが全く合っておらず、まるで地面を滑っているかのようであること。
予算もスケジュールも、そして(失礼ながら)スタッフの経験値も遥かに劣っていたであろう『ガメラ 大怪獣空中決戦』が、それでも細部のリアリティに拘って丁寧にカットを積み上げていたことを思うと、その後を受けて作られた『ゴジラvsデストロイア』の絵作りがこの体たらくであったことは本当に残念なことでありました。

とはいえ、メーサー戦車と伊福部マーチの組み合わせだけは”別腹”です(笑)。
どんなに気持ちが醒めていても、条件反射で血沸き肉躍ってしまうのであります。
しかし、私がこの記事で書きたいことは、決してこんな技術的アラ探しではありません。
この映画には、もっと物語の根幹に関わる問題があるのです。
【山根恵美子】

私の『ゴジラvsデストロイア』に対する一番の不満。
それは、せっかく河内桃子さんが再び山根恵美子役で出演してくれたというのに、作品の内容に全く活かすことが出来ないまま終わってしまうことです。
この映画の中ではオブザーバー的な扱いに過ぎず、中盤以降はその登場場面すら無くなってしまいました。
河内さんのスケジュールの都合などもあったのかも知れませんが非常に中途半端な扱いで、あれでは旧作に対するオマージュにもなっていません。

山根恵美子は昭和29年の『ゴジラ』第一作における最重要人物の一人です。
彼女はゴジラを調査した古生物学者:山根博士(演:志村僑)の愛娘であり、大戸島で最初にゴジラを目撃した調査団の一員でもあります。

そして何より、あの芹沢大助博士(演:平田昭彦)の元婚約者であり、彼が作った(作ってしまった)オキシジェン・デストロイヤーを直接その目で見た唯一人の人物なのです。
ゴジラによる被害の大きさと悲惨さに耐えかねた彼女はその秘密を漏らし、結果としてゴジラ抹殺と芹沢の自決を招くことになってしまいます。

恵美子は、酸素研究の第一人者である伊集院(演:辰巳琢郎)が開発中だというミクロ・オキシゲンが、かつて芹沢博士が産み出し、苦悩の末自らの生命と引き換えにゴジラと共に海に葬ったオキシジェン・デストロイヤーそのものではないかと危惧します。
そして、そのことを伊集院に伝えたいとTVキャスターである姪のゆかり(演:石野陽子)に相談するのですが・・・。

その後に描かれたのは、ゆかりが恵美子の伝令役として伊集院にその旨を伝える間接的描写だけでした。
ここは本作品のテーマについて語られる重要なシーンですが、私には地に足が付いていない文言のやり取りにしか見えなかったのです。
「ミクロ・オキシゲンの先にオキシジェン・デストロイヤーがあることは分かっている。」
そう言う伊集院に対しゆかりはこう問いただします。
「では芹沢博士の死の意味は?。」
伊集院に対するこのセリフは、ゆかりではなく芹沢博士とオキシジェン・デストロイヤーを直接知る恵美子自身の口から発せられるべきものだったと思います。
そして・・・
「芹沢博士の遺志に逆らってまで作るとは言っていない。」
この伊集院の答えもまた、恵美子本人に向けられてこそ意味のある言葉です。
芹沢博士との面識も無くオキシジェン・デストロイヤーの現物も見ていない非当事者同士がいくら語り合って見せたところで、観る者の心に響いてくるものは何もありません。
昭和29年と平成7年がどうしても繋がらないのです。

日本怪獣映画の始祖である昭和29年の『ゴジラ』第一作。
不遜を承知であの歴史的名作をひと言で表すならば、「毒(オキシジェン・デストロイヤー)を以って毒(ゴジラ)を制した物語」だと私は解釈しております。
怪獣出現の恐怖を描いたパニック映画ではなく、核の申し子としてのゴジラと、科学の鬼子とも言うべきオキシジェン・デストロイヤーとそれを生み出してしまった芹沢博士の物語です。
その数少ない生き残りの中で、芹沢博士の遺志を平成の時代にきちんと語り伝えることが出来るのは山根恵美子だけでした。

河内桃子さんは一時期「ゴジラ女優」と呼ばれるのが嫌で、長い間特撮作品とは距離を置いていらっしゃったそうです。
それが「ゴジラ完結編」ということもあってか、今回41年ぶりに同じ山根恵美子役での出演オファーを受けてくれたのです。
『ゴジラ』第一作の直系の続編、すなわち芹沢博士の物語を改めて世に問う作品を作り得る最初で最後のチャンスでした。
しかし、このたった一度のチャンスを『ゴジラvsデストロイア』の制作者たちは完全に無駄遣いしてしまいました。
一作目へのオマージュを謳いながらもそれは上っ面だけで、中身は『ゴジラvsスペースゴジラ』までと何も違わない怪獣バトルものから脱却出来ていなかったのです。
もうやり直すことは出来ません。
なぜならば、河内桃子さんはこの『ゴジラvsデストロイア』公開の3年後にこの世を去ってしまわれたのですから。
【ゴジラ核暴走に関する違和感】

核の恐怖を身にまとって出現した昭和29年の初代ゴジラ。
しかし、『ゴジラの逆襲』以降の作品では、核も放射能の危険性も具体的に作品中で語られることはほとんどありませんでした。
ゴジラが歩いたり放射熱戦を吐いた跡地には高濃度の放射線が蔓延しているはずなのに、です。


『ゴジラvsデストロイア』では、ゴジラ暴走の果ての核爆発やメルトダウンの恐怖を正面きってきちんと描いて見せています。
ゴジラが「核の怪獣」とされていながらこれまでのシリーズではどこか遠慮がちだった部分に果敢に攻め込んでいる点は評価しています。

さらに、『ゴジラvsビオランテ』の高浜原発以来となる原子力発電所への接近なども描かれています。
しかし、「核」に関する脅威はこんなに煽っておきながら、放射線汚染に関しては全くと言っていいほど描写されていません。
冒頭でゴジラが上陸した香港はさぞかし高濃度の放射線で壊滅状態だったことと思います。
あの最初の時点で、家を焼かれて途方に暮れる人たちや多量の放射線を浴びて医者も為す術がないといった一作目の避難所のようなシーンを描いておくべきでした。
そして。

もう一つの不満といいますか疑問に思うのは、今回ゴジラ体内炉心の核分裂暴走が起きたその原因についてです。
劇中の説明ではバース島の地下にあった天然ウランが爆発した影響ということになっています。
つまり「天然の核エネルギー」を多量に浴びてしまった事が原因でゴジラが暴走したとの事ですが、本作のテーマから考えてそんな設定では筋違いではないか?と思います。
「筋違い」というのがおかしければ「勿体ない」と言い換えても良いです。
何故、この箇所を「天然の核エネルギー」ではなく「人間が作り出してしまった核の脅威」と設定しなかったのでしょう?。
どこかの国の核実験でも原子力潜水艦の事故でも良いのです。
再び核の恐怖を身に纏うことになったゴジラとオキシジェン・デストロイヤーから生まれたというデストロイアの対決によって昭和29年の第一作をリプロダクションしたうえでゴジラシリーズに幕を引くというコンセプトならば、そのトリガーとなるのは自然災害などではなく人間が作り出してしまった科学の驕り、すなわち核兵器であるべきだと思うのです。

映画の最後に「これが科学を・・・核を弄んだ人間の償いなのか?」というゆかりのセリフがありますが、今回のゴジラ暴走が自然発生的なものであってはこのセリフにも全く説得力がありません。
「広島・長崎への原爆投下は戦争を早く終わらせるためだった」などと嘯く”彼の国”に対して遠慮でもしたのでしょうか?。
肝心なところが腰砕けになっているのが実に残念です。
【デストロイアって・・・要る?】

そもそも、このコンセプトに対して新怪獣:デストロイアは本当に必要だったのでしょうか?。
体内にオキシジェン・デストロイヤーの力を持っているはずの怪獣ですが、結局のところはそれ以上の力を発揮したゴジラによって葬られてしまいました。
私にはコイツが何のために出てきたのか未だによく分かりません。
むしろ、コイツのためにオキシジェン・デストロイヤーに関する論点がぼやけてしまい、結果として山根恵美子の存在意義も中途半端なものにされてしまったと考えています。
(恵美子が登場しなくなるのも、群体デストロイアが出現したあたりからです。)
デザイン・配色ともバーニング・ゴジラとソックリなのも、ビジュアル面ではマイナスでしかありません。

怪獣の設定としても中途半端で、群体デストロイアが合体して巨大デストロイアになる過程の描写も無ければ、その納得いく空想科学的理由も語られていません。
これでは、あの『ゴジラ対メガロ』におけるジェット・ジャガーの巨大化と何ら変わりはありません。
かつて『ゴジラ対へドラ』をはじめとする「東宝チャンピオンまつり」のゴジラ作品を徹底的に蔑視した先輩ゴジラファンたちが、何故この『デストロイア』に対して声を荒げようとしないのか、私には不思議でなりません。
『ゴジラvsデストロイア』という作品を料理に例えるなら、伝説のレシピに二度と手に入らない貴重な食材を揃えながらも、肝心の味付けがまるっきりお子様ランチだった・・・みたいなガッカリ感に尽きます。
そして、その伝説のレシピはもう二度と再現することは不可能になってしまったという怒りと哀しみも・・・。
残念です。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。