『ガメラ 大怪獣空中決戦』
1995年初頭。
子供の頃から映画・テレビで「怪獣もの」を観て育った私ですが、この頃の平成ゴジラVSシリーズに対してはすっかり愛想が尽きていました。
『ゴジラvsスペースゴジラ』の陳腐なストーリーに大雑把な特撮映像、そしてそれまでの世界観すら無視したリトル・ゴジラのデザイン、架空の軍隊Gフォースとその所有兵器である合体変形ロボット:モゲラによる現実感の喪失、等々・・・。
架空の存在が架空の世界で暴れまわるだけのファンタジーと化していました。
さらに、1月17日に発生した阪神淡路大震災の約2ヶ月に渡る現地取材の体験が、私を心身ともにクタクタに疲れさせていました。
撮影業務そのものの困難さと、水・食料・電気の不足と余震などで安眠出来ないことによる肉体疲労もさることながら、あの神戸の惨状を「他人事」「番組のネタ」としてしか見ない東京キー局ワイドショーのスタッフ陣の無神経さに連日イライラしていものです。
特に、焼土と化した神戸市長田区の惨状を見て「うわ~、ゴジラが来たみたいっすね~。」と無邪気にはしゃぐ若いディレクターには普段温厚な私も心底激怒したものでした。
※あの震災体験を怪獣映画と同じ枠組内で語ることは不謹慎と考えますのでここまでにしておきます。あの震災については後日別枠にて、きちんと書き残しておきたいと考えております。
あの大災害をこの目で見てしまった私には、たとえフィクションでも・・・いやフィクションだからこそ物語や人物像にしっかり筋が通っている作品でなくては受け入れ難くなっていました。
例えば、「人の死」をおふざけで描くような映画には無意識のうちに嫌悪感を抱くようになりました。
破壊された家屋や焼土と化した街の画も、そこに住んでいたであろう人々の痕跡が見い出せないお為ごかしな映像では納得出来ません。
そんな私が最初の鑑賞で夢中にさせられただけでなく合計4回も映画館に通い、発売日に購入したLDはそれこそ猿のように何度も何度も繰り返し観るに至った空想特撮怪獣映画。
それがこの『ガメラ 大怪獣空中決戦』です。
『ガメラ:大怪獣空中決戦』

<あらすじ>
プルトニウム輸送船「海竜丸」が移動する巨大環礁に接触するという事故が発生した。
同じころ五島列島姫神島に巨大な鳥が現れ人間を襲い始める。
岩礁を調査する海上保安官米森と鳥類学者の長峰は一つの結論に行き着いた。
移動する岩礁・ガメラは、人を襲う鳥・ギャオスを倒すために古代人が残した生物兵器だったのではないか?。
しかし、日本政府はガメラを敵と認識して攻撃を始めてしまう。
【この人なら・・・】
発表されたメインスタッフの名前は、当時の私には一人を除いてあまり馴染みの無い人たちがほとんどでした。
「金子修介って何作った監督やったっけ?。」
「樋口真嗣って、アニメの絵コンテ描いてた人?。」
お恥ずかしい話ですが、今では敬愛してやまぬ御二方に対して当時はこの程度の知識しか持っておりませんでした。
ただ一人、脚本を手掛ける伊藤和典氏にだけは大いに期待を寄せていました。
アニメ『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』『攻殻機動隊』など、押井守監督の相棒として名を馳せた脚本家です。
難解になりがちなSFの設定・世界観をストーリー序盤で手際よく処理して観客に理解させ、その上でエンターティメントを盛り込んでいく無駄のない構成力と台詞回しのセンス。
特に『機動警察パトレイバー』劇場版2作品は、それまでのアニメや特撮映画が持っていたご都合主義を全く感じさせないドライなストーリーテリングとエンターティメント性を同居させた傑作だと思っております。
近年押井守監督が実写でセルフリメイクした『2』もオリジナルアニメ版は大傑作でしたが、私は1989年公開の『1』が特に印象深いです。

『1』は当時一般的にはまだ馴染みが薄かったコンピューターウィルスの危険性を扱った作品です。
パソコンに詳しくない観客にもその犯罪の目的の恐ろしさを理解させたうえで、その被害を(文字通り)水際で食い止めた特車二課第2中隊の活躍をクライマックスの見せ場として昇華させるストーリーテリングは本当に見事でした。
これは、Windows95の発売によりパソコンの操作性が劇的に向上してインターネットが一般的になる6年も前の作品です。
私のように「もしもWindows95に帆場ウィルスのようなものが仕込まれていたら?」と怖くなった者も少なくないのではないでしょうか。
あの『機動警察パトレイバー劇場版』を書いた伊藤氏が『ガメラ』を手掛けるうえの抱負として語った言葉は、私がこの新生『ガメラ』に期待を抱くに十分なものでした。
「ちゃんとした怪獣映画を作りたい」
「ちゃんとしてない怪獣映画って?」というツッコミは置いとくとして(笑)、それがあの時期の私が求めていたシリアスな怪獣映画を示していることは明らかでした。
信頼のおける脚本家のこの一言だけで、お金を払って劇場に赴く価値は十分にあると確信したのです。
【怪獣のいる世界】
この映画では今まで一度も怪獣なるものが出現したことがない設定になっており、全ての登場人物は関係者・一般人を問わず初めて巨大生物(怪獣)を目の当たりにしてその恐怖に右往左往することになります。
本作は、『ウルトラマン』や「東宝チャンピオンまつり」から怪獣ものを観始めた私が初めてリアルタイムで体験する「ゼロからスタートする怪獣映画」でした。


「海の怪獣をガメラ、鳥形の生物をギャオスと呼称します。」
このセリフを聞いた時、(たとえリブートとはいえ)既成のルールに捕らわれない新しい怪獣映画の誕生に立ち会えた喜びを実感したものです。
後に『シン・ゴジラ』が同様のアプローチで日本のゴジラを再生することに成功しましたが、その21年前の本作品はその先駆けであったわけです。
しかし、こうした既定路線を排した作りには、旧ガメラのイメージを壊したくないとする大映サイドの反対も大きかったと思われます。
そもそも「ガメラが子供の味方として明確に描かれていない」ことに難色を示す向きも多かったそうですし、ガメラの飛び方やガメラの正体を古代人が作った生物兵器とする脚本の根幹部分にまで難癖を付けられて、金子監督は随分ご苦労されたそうです。

この「時間とエネルギーの無駄使い」としか思えないガメラの回転ジェット。
確かにこの映画には合わないかも知れませんが、ビジュアルがダイナミックで実は結構好きだったりします。
私は「目覚めてから最初の飛行ということでガメラもまだ要領を得ていなかったんだろう。」と脳内補完しながら見ることにしております(笑)。

さらに、怪獣が初めて出現する世界ということからガメラとギャオスを最初から対となる存在として描いた点もリアリティを高めていました。
「怪獣対決物」は怪獣出現というただでさえ大きな嘘を本物らしく描かなければならないところに、それが2匹出てくることで大嘘も2つになり作品のリアリティを損なっていくばかりなのですが、ガメラとギャオスを一対の存在とすることでストーリー破綻を防いでいます。
こうした怪獣二匹の対決ものとしては『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』以来の成功例ではないかと思われます。


さらに、「細部にこだわる演出」にも手抜きがありません。
「怪獣のせいで魚が値上がりして困る」と言う主婦目線や、怪獣出現を「ブルセラ売春」や「裏ビデオ極上27本」と一緒に扱う雑誌の吊り広告などといった「怪獣が出現したらあり得そうなコト」を細かく画面に映し出してリアリティを高めています。


ただ、不満や違和感が全く無いわけではありません。
その一つが、ガメラもギャオスも古代人が遺伝子工学で作った生物兵器であるという基本設定になっていることです。
これにより、この世界における怪獣は人工的なものでそのイメージが矮小化されたと感じてしまうのも事実でした。
しかし、続く『ガメラ2 レギオン襲来』と『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』では、その設定を逆に生かしてガメラのキャラクターをさらに底知れぬものへと昇華させています。
【特撮】
ゴジラの特撮とガメラの樋口特撮の違いを私の仕事で例えるとしたら、「セット全体を作り込んでのマルチカメラ撮影」と「1カット毎に被写体と背景・前景を作り込む1カメ撮り」の差でしょうか。

ゴジラ(東宝)の特撮は大セット主義とも言われ、一つのシーンのミニチュアセットを広大なステージに作り込んでしまいます。
この精巧さたるや、中野昭慶特技監督曰く「小手先のカメラワークやカット割りに頼らずとも、フィックス(カメラ固定)による長尺ショットでも画が持つ」ほどのものです。
大きな箱庭にシーンごとのジオラマを作りこんでその中で撮影するようなものです。
このセット内で暴れる怪獣の一連の動きを複数のカメラを使って同時に撮影し、その後編集用に部分アップなどを撮るというマスター・ショット方式撮影も可能です。
ロング(全景)を撮るのも一発でOKで、しかも他の特撮ショットとの質感差は生じません。
半面、撮れるアングルや動きの範囲が限定されてしまい映像がワンパターン化してしまう可能性があります。
平成ゴジラVSシリーズ後期ではこの傾向が顕著に表れていて、毎年毎年大量の怪獣バトルシーンを作らなければならなかった川北特技監督のご苦労がうかがえます。
また、アングルにも制限があり、一発勝負の爆発ショットなどでは「写ってはいけないもの」まで写ってしまうこともありました。
それは例えば、空(ホリゾント)にくっきり映る建物や怪獣の影であったりとか、建物ミニチュアが吹っ飛んだあとに見えるステージののっぺりした地肌とかいったものです。

それに対してガメラの特撮は、盆栽方式とでも呼称すればよいのでしょうか。
特撮カット一つ一つを絵コンテに起こし、画面内に必要なものだけを入念に作り込んでカメラレンズ前に配置する方法です。
無駄なものは作らない、撮らない。
その代わり1カット毎の密度を、予算とスケジュールの許す限り高めていく。
予算の関係で大がかりなセットが使えないためにこのような方法を取ったと思われますが、逆にこれが怪獣映画としての臨場感を高めていたように思います。

セットに奥行きがないことを誤魔化すためにもローアングルが基本になっていますが、これがことごとく「巨大怪獣を見上げる人間の視点」の映像になっているのです。
平成『ゴジラ』ではまるで怪獣バトルをヘリコプターで撮影したかのような怪獣目線の俯瞰ショットが圧倒的に多く、逆にこうした人間目線のローアングル特撮ショットは皆無に等しいです。
また、これらのシーンの大半は屋外(オープンセット)で撮影しているため、太陽光のおかげでミニチュアも着ぐるみも質感が増して見えます。
爆発の光でホリゾントに被写体の影が写ってしまうこともありません。

オープンセットの利点を生かした、この映画一番のゴールデンショット(私見)です。
お金も時間もない中でありながら、この画を撮るために樋口監督たち特撮班は何日も天気待ち(夕日待ち)をしたそうです。


この方法の弱点はロング(全景)ショットが撮りづらいことです。
そのため『ガメラ』では都市の全観ショットのほとんどは実景映像か、(ゴジラに比べて)スケールの狭いミニチュアセットで賄っています。
前述のローアングルで作り込んだショット群との質感差もはっきり画面に表れてしまっており、ゴジラに比べると特撮ショットの不統一感が気になるのは確かです。
もちろん「どちらが良い」とか「正しい」といった問題ではありませんし、「どちらが好きか」と訊かれたら「どちらも好き」と答えます。
しかし、1991年の『ゴジラvsキングギドラ』から『スペースゴジラ』までの4年間、毎年同じようなパターンの川北特撮に食傷気味だった当時の私が『ガメラ』の目新しい特撮映像に心惹かれたのも無理からぬことでありました。


このギャオスに襲われた姫神島のオープンセットも新鮮に映りました。
なぜならば、この頃のゴジラVSシリーズでは、こうした怪獣に襲われた被害状況の描写は皆無だったからです。
繊細かつ大胆な壊しっぷりに、美術さんや大道具・小道具さんが楽しんで仕事しているのが画面からビシバシ伝わってきます。
ただ、公開当時の私は阪神淡路大震災の現場でこうした全壊家屋を数えきれないほど見てきたばかりだったため心穏やかではいられなかったのも事実です。
しかし、俳優さんの真摯な演技と被害状況を真面目に描こうとしている演出のおかげで嫌悪感を抱くことは一切ありませんでした。
【登場人物】


冒頭で移動する環礁(ガメラ)に遭遇する海竜丸と巡視船「のじま」の船長役として、久保明さんと本郷功次郎さんが出演しています。
久保さんは『マタンゴ』『ゴジラの息子』など、60年代の東宝特撮作品で数多く主演を務めていた方です。
本郷さんも同じ時期に旧作『ガメラ対ギャオス』をはじめとした昭和ガメラシリーズで主演を務めた方ですが、私としては『大魔神怒る』の千草十郎役が印象深いです。
直接顔を合わせる事はありませんが、かつて同時期にライバル会社同士の怪獣映画で主役を張ったお二人がこうして復活ガメラの冒頭を飾ってくれるとはオールドファンとしては嬉しい限りです。

ギャオス担当ヒロインにして可愛すぎる鳥類学者:長峰真弓。
少々舌足らずながらも、警察や環境庁審議官に対しても毅然とした態度で対応する女性です。
演じる中山忍さんはこの2年前『ゴジラvsメカゴジラ』にチョイ役出演していますが、あの時のお人形さんぶりとは見違えるほどイイ女になっています。
『ガメラ』のオーディションにはかなり熱心に参加していたらしく、当時は実姉:中山美穂の七光りと思われるのが嫌で女優業に真剣に取り組む決心をしていた時期でもあったようです。

勾玉を介してガメラと精神でつながってしまう少女、草薙浅黄(演:藤谷文子)。
別に古代人の血を受け継いでいるとか元々超能力者だったとかでなく、たまたま勾玉を手にしたことでガメラとシンクロしてしまったようです。
正直なところ彼女とガメラの関係については今もよく理解出来てはいませんが、そこにどことなくエロスを感じてしまうのは私がおっさんだからでしょうか?(笑)。
多分彼女の容姿にも関係していると思えるのですが、この後『2』『3』とガメラとの関係性が薄れていくことを思うと本作品において(エロティシズムも含めて)その点をもっと示唆しておいて欲しかったと思います。
(『3』の綾奈はその点を補う意味も併せ持ったキャラクターでした。その件についてはいずれそのうち『ガメラ3』の記事で考察したいと思っております。)

浅黄の友人:雪乃(演:坂野友香)
脇役もいいところですが、この子も私にとっては重要なヒロインの一人であります(笑)。
ガメラに惹かれて異常な行動をとり始める浅黄を心配する良き友達で、私は彼女をこの映画における一般人の代表と思っております。
『ガメラ2』にも同じ役で登場してくれたのは嬉しかったものですが、残念ながら坂野友香さんは病気のため女優業を引退されてしまったようです。

ガメラ担当キャラクター、米森良成(演:伊原剛志)
映画の前半は最初のガメラ目撃者としてその正体をつかもうと奔走して物語を引っ張っていましたが、浅黄がガメラとシンクロしてからは長峰とのコンビでガメラとギャオス誕生の意味を考える役割に回っています。

ギャオスに纏わる姫神島以外ほぼ全てのシーンに登場し、中盤以降は長峰との淡い恋愛感情も見受けられてストーリーラインの縦軸を構成しています。
そんな彼が、どういうわけか続編の『ガメラ2』にも『3』にも名前すら出てこないのは非常に残念です。
『2』において「ガメラは本当に人類の味方なのか?」と疑問を抱くのは、穂波ではなく最初からガメラを見てきた米森であるほうがふさわしい気がします。
「製作サイドと伊原剛志さんとの間に何か確執でもあったのか?」と勘繰ったりもしましたが、伊原さん自身は『2』にも出たがっていたという話を聞いて少し安心しました。
ガメラ発見者としての役割を終えた彼は、仮に『2』『3』に出たとしても長峰との関係が気になる存在であるためウジウジした恋愛ドラマを発生しかねません。
怪獣出現シミュレーション映画『平成ガメラ』としてはドライに彼を切り離したものと考えています。

ギャオスに関する狂言回し的役回りの大迫力(おおさこつとむ)刑事(演:螢雪次朗)。
この大迫を見ていると、伊藤和典氏の脚本のキャラクター配置の特徴が浮き彫りになります。
伊藤脚本ではシーン毎に二人一組で物語が進行することが多いのです。
洗練されたセリフをテンポ良く応酬することで物語を進行していくスタイルのためか、単独行動のキャラクターを描くことは少ない気がします。



例えば、この映画のガメラ担当ペアは、「米森&草薙(父)」→「米森&浅黄」→「草薙父娘」へと推移していきます。


そしてギャオス担当は、「長峰&大迫」に始まり、舞台が福岡から東京に移った時点で「長峰&米森」ペアへと入れ代わります。
大迫の出番は福岡ドームのシーンで終わってしまいましたが、彼は後のシリーズ全てに相手怪獣の最初の目撃者として登場することになります。
こうした作劇手法を採る伊藤さんにとって、大迫はどんな相手とも組み合わせやすい懐の深いキャラクターに仕上がっていたのでしょう。
もちろんそこには、螢雪次朗さんの演技力と人柄の影響もあったと思います。

「閣議決定だから」と、人間を捕食するギャオスをまるで絶滅危惧種のように捕獲保護せよと迫る環境庁の斎藤審議官(演:本田博太郎)。
上層部の意向や過去の例にばかり囚われて実態を見据えることが出来ない人物です。
これは私の憶測ですが、金子監督にとって斎藤審議官というキャラクターは「昭和ガメラのイメージから脱却出来ず、新作での設定変更にイチャモンばかりつけてくる大映上層部の面々」のメタファーだったのではないのでしょうか?。
そう考えて見ると『ガメラ3』で斎藤が長峰にこっそり情報提供して見せるシーンは、平成『ガメラ』に信頼を寄せ始めた彼らへの金子監督の心情変化を表していたものだったかも知れません。


映画へのエキストラ出演にハマっている私としては、「怪獣から逃げ惑う人々」としてこの傑作にその姿を刻むことが出来た人たちが羨ましくて仕方がありません。
こうして見ると、福岡のシーンは夜間撮影であるにも関わらず小さいお子さんや赤ちゃん連れの参加者が多いので驚きます。
撮影は94年のはずですから、この赤ちゃんも今はもう成人して社会人になっっているのでしょうね。

時の流れついでに・・・。
エキストラの皆さんが新宿でギャオスを見上げているこのショットですが、先日久しぶりに観返してちょっとした違和感を覚えました。
撮影されたのが1994年ということで、全員スマホも携帯も持っていません。
このような場面だと、現在なら皆スマホをギャオスに向けて写真や動画の撮影に夢中になっている画になると思われます。
ストーリーも映像も古さを感じさせない作品ですが、こうした映像を見るとやはり22年前の映画であることを実感します。
好き過ぎてとんでもなく長文になってしまいました。
当時の私にとっての『ガメラ 大怪獣空中決戦』を飲み物に例えるなら、灼熱の荒野で心身ともに渇ききっているところに絶妙なタイミングで差し出された無添加のミネラル・ウォーターのようなものでした。
身体が求めていたためにゴクゴクと一気に飲み干して、今でもお代わりを求め続けているような気がします。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。