ゴジラシリーズ全作品レビュー23 『GODZILLA』(1998年)
CATEGORY『ゴジラ』シリーズ
トガジンです。
第19回ゴールデンラズベリー賞「最低リメイク賞」「最低助演女優賞」をダブル受賞した超大作であります(笑)。
一応これも『ゴジラ』シリーズの一本ということで全作品レビューに加えることにしました。
出来や内容はどうあれ、これが日本のゴジラシリーズへ与えた影響も皆無ではないからです。
本作の制作の遅れが平成VSシリーズの幕引きのタイミングを狂わせましたし、翌年からのミレニアム・シリーズが性急なスタートを切ったのもこの作品への不満が原因でした。
そして『ゴジラvsデストロイア』とこのトライスター版『GODZILLA』の2作品は、私にオリジナル『ゴジラ』(昭和29年)の素晴らしさを再認識させてくれた反面教師でもありました。
『GODZILLA』(1998年版)
![1998 GODZILLA[1998]](https://blog-imgs-116.fc2.com/e/i/z/eizo22/20171025225428643s.jpg)
<あらすじ>
タヒチ沖で海難事故が続発し、パナマの丘陵地帯では巨大な足跡が発見された。
唯一の目撃者である日本の老人も「ゴジラ・・・ゴジラ・・・」と虚ろに繰り返すばかり。
調査に当たった生物学者のニック・タトプロスは、それがフランス核実験の影響で誕生した新種の巨大生物ではないかと推測していた。
そしてフランス諜報部もまた巨大生物の謎に迫りつつあった。
突如ニューヨークにその生物:ゴジラが現れたが、敵の生態を掴めないアメリカ軍は闇雲に被害を拡げるばかり。
ニックはゴジラがマンハッタンに巣を作り繁殖しようとしている事実を突き止めるが……。
【日本では作り得ないゴジラ映画】
公開当時、私の興味は「核保有国が作るゴジラ映画とはいかなるものになるのか?。」の一点に集約されていました。

昭和29年11月3日公開の『ゴジラ』第一作が、日本映画史上最高位に位置する名作中の名作であることに微塵も疑う余地はありません。
しかし、何度も観返しているうちに一つの大きな疑問が湧いてくるのも事実であります。
他国の核実験の影響で目覚めさせられたゴジラが、どうしてその核保有国そのものに襲い掛かろうとせずわざわざ日本にやって来て東京を襲うのか?。
この点を「ゴジラの帰巣本能のため」とか「太平洋戦争の英霊がゴジラに乗り移った」と理由付けして観るのもそれはそれで楽しいことではありますが、所詮それは後付けの説明に過ぎません。

もちろん作品テーマの面での意味合いはよく理解しているつもりです。
初代ゴジラが身に纏っていた核の恐怖は、決してその躯体を巨大化させるための方便だけではありません。
繁栄を取り戻した東京を致死量の放射線をまき散らしながら蹂躙するゴジラ。
それは、当時の日本人が太平洋戦争末期に経験した空襲と第五福竜丸が被った核実験の死の灰の恐怖そのものでもありました。
その姿に畏怖することで、戦後の復興を驚異的スピードで果たした日本人に改めてあの戦争体験と核兵器廃絶の必要性を脳裏に刻み込む作品だったのです。

だからこそあの作品には、日本人(芹沢博士)が作り出してしまった核以上の大量殺戮兵器(になり得る)オキシジェン・デストロイヤーをゴジラと同じ比重を以って描く必要がありました。
そして、ゴジラと芹沢(オキシジェン・デストロイヤー)を刺し違えさせることでしかあの映画の決着の付け方は無かったのです。

日本の初代『ゴジラ』に納得したうえで、それでもやはり一度は見てみたいと思うのです。
「非核三原則」を有する日本国内では決して作ることの出来ないゴジラ映画を。
自ら生み出してしまったゴジラに情け容赦なく蹂躙されていくという、核保有国の自己批判を。
その一点さえ押さえられていれば、たとえその姿形が多少(?)日本のゴジラと違っていようとも私としては全然OKだったのです。
【ラ・マルセイエーズ】

しかし映画が始まって1分も経たないうちに、それが私の単なる夢想にすぎないことを知りました。
なぜならば、オープニングで流れていたBGMがフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」だったのです。
「え?なんでフランス?。」
と、疑問を抱くと同時に理解もしました。
この映画公開の2年前、フランスは世界各国の反対を押し切ってムルロア環礁で核実験を強行して非難を浴びたばかりだったのです。
そのニュースがまだ記憶に新しかったことから、ゴジラ出現の原因(核実験)と責任をフランスに押し付けて自らは被害者面を決め込むことにしたのでしょう。
流石は「広島・長崎への原爆投下は、あの不毛な戦争を早く終わらせるためのものだった。」と公言してはばからないお国柄であります。

その一方で、母国の汚点を濯ごうと暗躍するフランス諜報部隊がアメリカ軍より遥かに有能に描かれるなどフランスへの気配りも忘れてはいません。
ジャン・レノ演じる指揮官:フィリップは、「祖国を守りたい。祖国の犯した過ちからも・・・。」と語ります。
普段はジョークを絶やさないキャラクターのフィリップがこの時ばかりは真剣な面持ちを見せていて、ニックならずとも情にほだされてしまう良い場面でした。

結局、「核を弄んだ自らの尻拭い」という役どころは全てフランス人が肩代わりさせられることになっていました。
しかし、私が観たかったアメリカ(核保有国)製ゴジラ映画とは、「天に唾吐く自らの所業に対して、手痛いしっぺ返しを食らう」という寓話だったのです。
その根幹部分をこうもあからさまにはぐらかされたのでは、もうハリウッド製怪獣パニック映画として楽しめるだけ楽しむしかありません。
次にアメリカが『ゴジラ』をリメイクする時は、きっと北朝鮮の核で誕生するゴジラが登場することでしょう(笑)。

ちなみに私が劇場で初鑑賞した時には、すでに一部マスコミのネタバレによってゴジラのデザインが日本のものと全く違うことは事前に理解していました。
その点についてはある程度免疫を持った(諦めた)うえで観ましたので無問題としています(笑)。
【ゴジラの名】
私のこの映画についてもう一つの関心事は、ゴジラシリーズ全体における本作のポジショニングについてでした。
昭和29年(1954年)公開作品『ゴジラ』の続編としての位置付けなのか、ゼロから始まるリメイク(あるいはリブート)なのか?。
その答えは映画開始から9分23秒目、謎の巨大生物に襲われた日本漁船の生き残りの証言にありました。

「ナニガ起コタ?」
こうフランス人に尋ねられたこの老人は、虚ろな目で「ゴジラ・・・ゴジラ・・・」と繰り返しつぶやきます。
最初からゴジラという名前を知っている日本人が出てきたのです。
この時点で、本作は昭和29年公開の『ゴジラ』第一作と世界観を同じくする続編ということになります。
彼には44年前に日本を襲ったゴジラ災害の記憶が残っていて、ゴジラとは似て非なる巨大生物に襲われた恐怖から思わずその名が出てしまったのでしょう。

初代『ゴジラ』の存在を基本とするミレニアム・シリーズの『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』には、アメリカに出現したとされるこの怪獣の案件に触れるシーンがありました。
(もっとも「アレはゴジラと認められていない」と一蹴されていましたが)
よく言われていることですが、この作品はゴジラ映画ではなくゴジラと勘違いされた哀れな生き物の物語として楽しむのが妥当です。

しかし、何故かこれ以降の本編中には1954年に日本を襲ったゴジラに関する描写が全く出て来ません。
主人公:ニック(演:マシュー・ブロデリック)のような生物学者やアメリカ軍幹部なら、かつて日本に出現したという原子怪獣ゴジラの情報を知らないはずはありません。
ニューヨークに現れた巨大生物への対策方法を練るための参考事案として、それが話題に出てきても良さそうなものです。
この作品では”ゴジラ”という名前が単なる記号としてしか扱われていないように感じました。

日本国内外の殆どのゴジラファンがこの作品を忌み嫌う理由はここにあるような気がします。
この作品からは、『ゴジラ』第一作に対する敬意や思い入れといったものがまるで感じられないのです。
ローランド・エメリッヒ監督やプロデューサーのディーン・デヴリンがやったことは、日本の『ゴジラ』をアメリカを舞台にリメイクすることではなく自分たちが作りたかった巨大生物パニック映画に「ゴジラ」というブランド名を付け足しただけでした。

ゴジラと呼ばれる怪獣が『ジュラシック・パーク』の恐竜みたいでも、あるいはただの巨大イグアナに過ぎなくても構いません。
そのゴジラもどきがアメリカ軍の通常兵器:ミサイルで殺されてしまうのも仕方がないことです。
だってゴジラじゃありませんから。
でも、この作品の作り手が「これが我々の考えるゴジラだ」と言い張るのであれば、せめてそこにオリジナルである日本のゴジラへの畏敬の念と愛情を含ませて描いてもらいたかったと思います。
そして自分たちが作った怪獣の殺し方にしても、もう少しやりようがあったのではないでしょうか。
ワイヤーに絡めとられて身動き出来ないところに何発もミサイルを撃ち込んで嬲り殺す・・・。
あれではただの害獣駆除です。
怪獣愛など微塵も感じられません。
【主人公とジャン・レノ以外、頭の悪い奴ばかり】

以外に俊敏で知能も高いゴジラに翻弄されっぱなしの軍幹部。
再選のことしか頭になく、ゴジラ騒動も選挙に利用しようとするNY市長。
実直な生物学者のニックと母国の汚点を濯ぎたいフィリップ達フランス兵を除いて、この映画に登場するのは実にマンガチックで頭の悪いキャラクターばかりです。

軍のヘリでゴジラを攻撃しているはずなのに、ことごとく避けられて街を破壊してしまうシーンもありました。
実はこれと似たシチュエーションが日本の昭和シリーズ作品『怪獣総進撃』にもあったりします(笑)。
キラアク星人に操られたゴジラたち怪獣を街の各所に仕込んであった武器で攻撃するのですが、そのほとんどは怪獣に当たらずむしろ建物を次々と破壊していくばかり・・・。
まさか『怪獣総進撃』のあの場面にだけオマージュを捧げたわけではないでしょうが、私はエメリッヒ版『ゴジラ』を観ながら『怪獣総進撃』を懐かしく思い出していたのでありました。

この映画は主人公の生物学者:ニックを中心とする科学者チームと軍隊が主軸となって物語を引っ張っていきますが、それと並行してニックの元カノ:オードリーを中心としたテレビ局スタッフのサブストーリーも描かれていて、クライマックスで両者が合流するという構成になっています。
そのテレビ局サイドのメイン登場人物三人。
奥でアメ玉をしゃぶっているのが、ニックの元カノ:オードリー。
右端の男性がハンク・アザリア演じるカメラマンのビクター(通称:アニマル)。
中央はアニマルの奥さんで、彼女もまたオードリーと同じテレビ局の同僚です。
失礼ながら、彼女もオードリーもとてもテレビ局で働くような知的な女性には見えません。
映画業界のテレビ界に対する偏見がこんな描写にさせたのでしょうか?。

オードリーは、記者としての取材活動やレポーターに憧れてTV局に努めているものの上司のパワハラに阻まれて一向に目が出ない・・・と、自分ではそう思い込んでる意識高い系OLです。
残念ながらそうとしか見えないのは、上司に自分を売り込むシーンの前に彼女のジャーナリストとしての実力描写が無いことが原因です。
演じたマリア・ピティロさんはこの作品でゴールデンラズベリー賞の「最低助演女優賞」というありがたくもない賞を与えられてしまいましたが、これは必ずしも彼女の演技のせいではないでしょう。
稚拙な脚本と、女性を魅力的に描くことに興味を持てない監督の責任です。
本作以降は目立った出演作がありませんが本当にお気の毒なことでありました。

そのパワハラ&セクハラ上司のケイマン。
軍人の死亡シーンも描かれているこの作品にあって、この男は単なるギャグメーカーとして非常に浮いた存在です。
私からすると昭和59年版『ゴジラ』の武田鉄矢にも等しい不愉快なキャラクターであり、こんな人物を喜々として物語に登場させる制作者の良識を疑います。
窓の外で大変な事態が起こっているというのに、電話や音楽に夢中になっていて気が付かない・・・。
アメリカ人って、このギャグ大好きなんですね~。
この映画には似たシークエンスがもう一つあって、市場のシーンでヘッドホン着けながら新聞を読んでいて前方から迫るゴジラに気付かないトラックの運転手がいました。
この前年に公開されたスピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』にも波止場の事務所で同じようなギャグがありましたし、最近だと『アメイジング・スパイダーマン』にも音楽聞きながら仕事する用務員さんが背後でのスパイダーマンの戦いに全く気付かないという間抜けなシーンがありました。
いずれの場合も振動や周囲の雰囲気で気付きそうなものですがねえ。
怪獣ものに限らず映画、特にSF映画はディテールのリアリティをないがしろにしてしまうと全てが瓦解します。
ローランド・エメリッヒ監督は、前作の『インデペンデンス・デイ』とは気合の入り方が全然違う気がして残念です。
【トガジン的ツッコミどころ】
この映画、TVのカメラマンを職業とする私としてはツッコミどころ満載の作品です。
正確には「テレビの仕事を馬鹿にしとんのか!」と苦笑いの連続であります。

カメラマンのアニマルは、ご同業という親近感もあって本作品における数少ない好きなキャラクターの一人です。
彼には、ゴジラに真正面から遭遇してスクープ映像をものにするという、実に報道カメラマン冥利に尽きる最高の見せ場が用意されています。
しかし、この時の彼のカメラマンとしての描写には同業者として一言も二言も文句が言いたいのであります。

ゴジラを目撃したアニマルは、危険を顧みることもなく迷わずにカメラを持ち出して後を追います。
分かる!。
そのはやる気持ち、私にはよ~く分かります。
この時持ってるカメラが後のシーンのものとは違う機種であることも見て見ぬフリ出来るくらい共感してしまいます(笑)。

しかし、彼は土砂降りの雨の中でカメラのテープ挿入口を開放したまま移動していました。
これはいけません。
あれでは水滴がカメラ内部に入ってしまう危険があるため、プロのカメラマンの所作としては落第です。
もしヘッド部やテープに少しでも水滴が付いてしまったら、テープが走行不能になって確実に撮影は不可能となります。

しかも、彼はこのカメラに使うべきテープを間違えています。
彼が持っていたカメラは、当時主流だったアナログ方式のベータカムSP規格でした。
(しかも放送局仕様のBVWシリーズではなくブライダルやイベント用途の廉価版PVWシリーズ)
しかし、アニマルが焦って押し込もうとしていた水色のカセットは新規格のデジタル・ベータカム専用のテープです。
よく見ると「Digital」と黄色で印刷されているのが分かります。
形状は同じでも規格が全く違うテープでから、いくら丁寧に挿入したところでこのカメラで使うことは出来ません。
エラーが出て強制排出されてしまいます。

何とか頭上を通り過ぎるゴジラを撮影した(かのように見える)アニマルですが、よく見るとテープ挿入口が空いたままでテープも飛び出した状態です。
撮影中は赤く点灯し続けるはずのRECランプもチカチカとエラーを示す点滅状態になっていて、これはカメラが正常に動いていないことを物語っています。
つまりこの映像を見る限り、アニマルはこんな千載一遇のチャンスに巡り合いながらも全く撮影出来ていなかったということになるのです。
「最高の瞬間を撮り逃す」なんてのは、カメラマンにとってまさしく「悪夢」そのものです。
私も、まだ新人だった四半世紀以上昔にそんな失敗をやらかした苦い記憶があります。
それが不意に夢に出てきた日には、「チクショー!」と深夜に大声をあげながら飛び起きてしまいます。
それくらい本当に悔しくて情けないものなのです。

ところが数分後、何故かその時の映像がスクープ映像として放送されて、アニマルは仲間の称賛を一身に受けることになります。
なんかもう・・・「撮れてて良かったね~」としか言いようがありません(笑)。
本職の人間が見たら「何やってんねん!?」と画面にツッコミ入れたくなる場面ではありますが、現場にはおそらく放送用ビデオカメラについて知っている人間がいなかったのでしょう。
こうした雑な演出はいかがなものかとは思いますが、昔の自分を思い出させてくれるという点で思い出深いシーンではあります。
また、アニマル役のハンク・アザリアさんは全編で良い味を出していて、彼のおかげでこの作品自体もそれほど嫌いにはならずに済んでおります。
【続編~アニメ版~】

ゴジラ(と呼称された巨大生物)がアメリカ軍の通常兵器を喰らって死んでしまうという、まるで昔の『キングコング』のようなストーリーに反感を持った観客(特に日本人)が多かったこの作品。
実は最初からシリーズ化を想定して企画されていて、続編の構想もある程度練られていたそうです。
そしてそれは、テレビアニメとしてすでに映像化もされていました。

主人公はこの映画版と同じ生物学者のニック・タトプロス。
爆破されたマディソン・スクエア・ガーデンの卵を調べていた彼の目前で、生き残った一個の卵が孵化し始めます。
初めて見た生き物が死んだ親ゴジラの臭いが染みついたニックだったことで、その子ゴジラは彼のことを親と認識してなついてしまいます。

そして親と同様巨大に成長したゴジラ・ジュニアは、ニックたちと協力して放射能で巨大化した他の怪獣たちと戦うのでありました。
その敵怪獣というのは、巨大な蛾とかその幼虫でしょうか?。
あるいは巨大な鳥とかエビとかカマキリとか、首が3本ある金色の奴とか?(笑)。
この映画は、こうしたシリーズ化を前提としたエピソード1(あるいはエピソード0)に過ぎなかったのかも知れません。
そう考えてみれば、最初のゴジラが死んでしまうことも二匹目が人間の味方になるということも、昭和のゴジラシリーズ全体を踏襲しているとも言えるでしょう。
ゴジラ作品の一つとしてではなく、ゴジラの模倣品として・・・。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
第19回ゴールデンラズベリー賞「最低リメイク賞」「最低助演女優賞」をダブル受賞した超大作であります(笑)。
一応これも『ゴジラ』シリーズの一本ということで全作品レビューに加えることにしました。
出来や内容はどうあれ、これが日本のゴジラシリーズへ与えた影響も皆無ではないからです。
本作の制作の遅れが平成VSシリーズの幕引きのタイミングを狂わせましたし、翌年からのミレニアム・シリーズが性急なスタートを切ったのもこの作品への不満が原因でした。
そして『ゴジラvsデストロイア』とこのトライスター版『GODZILLA』の2作品は、私にオリジナル『ゴジラ』(昭和29年)の素晴らしさを再認識させてくれた反面教師でもありました。
『GODZILLA』(1998年版)
![1998 GODZILLA[1998]](https://blog-imgs-116.fc2.com/e/i/z/eizo22/20171025225428643s.jpg)
<あらすじ>
タヒチ沖で海難事故が続発し、パナマの丘陵地帯では巨大な足跡が発見された。
唯一の目撃者である日本の老人も「ゴジラ・・・ゴジラ・・・」と虚ろに繰り返すばかり。
調査に当たった生物学者のニック・タトプロスは、それがフランス核実験の影響で誕生した新種の巨大生物ではないかと推測していた。
そしてフランス諜報部もまた巨大生物の謎に迫りつつあった。
突如ニューヨークにその生物:ゴジラが現れたが、敵の生態を掴めないアメリカ軍は闇雲に被害を拡げるばかり。
ニックはゴジラがマンハッタンに巣を作り繁殖しようとしている事実を突き止めるが……。
【日本では作り得ないゴジラ映画】
公開当時、私の興味は「核保有国が作るゴジラ映画とはいかなるものになるのか?。」の一点に集約されていました。

昭和29年11月3日公開の『ゴジラ』第一作が、日本映画史上最高位に位置する名作中の名作であることに微塵も疑う余地はありません。
しかし、何度も観返しているうちに一つの大きな疑問が湧いてくるのも事実であります。
他国の核実験の影響で目覚めさせられたゴジラが、どうしてその核保有国そのものに襲い掛かろうとせずわざわざ日本にやって来て東京を襲うのか?。
この点を「ゴジラの帰巣本能のため」とか「太平洋戦争の英霊がゴジラに乗り移った」と理由付けして観るのもそれはそれで楽しいことではありますが、所詮それは後付けの説明に過ぎません。

もちろん作品テーマの面での意味合いはよく理解しているつもりです。
初代ゴジラが身に纏っていた核の恐怖は、決してその躯体を巨大化させるための方便だけではありません。
繁栄を取り戻した東京を致死量の放射線をまき散らしながら蹂躙するゴジラ。
それは、当時の日本人が太平洋戦争末期に経験した空襲と第五福竜丸が被った核実験の死の灰の恐怖そのものでもありました。
その姿に畏怖することで、戦後の復興を驚異的スピードで果たした日本人に改めてあの戦争体験と核兵器廃絶の必要性を脳裏に刻み込む作品だったのです。

だからこそあの作品には、日本人(芹沢博士)が作り出してしまった核以上の大量殺戮兵器(になり得る)オキシジェン・デストロイヤーをゴジラと同じ比重を以って描く必要がありました。
そして、ゴジラと芹沢(オキシジェン・デストロイヤー)を刺し違えさせることでしかあの映画の決着の付け方は無かったのです。

日本の初代『ゴジラ』に納得したうえで、それでもやはり一度は見てみたいと思うのです。
「非核三原則」を有する日本国内では決して作ることの出来ないゴジラ映画を。
自ら生み出してしまったゴジラに情け容赦なく蹂躙されていくという、核保有国の自己批判を。
その一点さえ押さえられていれば、たとえその姿形が多少(?)日本のゴジラと違っていようとも私としては全然OKだったのです。
【ラ・マルセイエーズ】

しかし映画が始まって1分も経たないうちに、それが私の単なる夢想にすぎないことを知りました。
なぜならば、オープニングで流れていたBGMがフランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」だったのです。
「え?なんでフランス?。」
と、疑問を抱くと同時に理解もしました。
この映画公開の2年前、フランスは世界各国の反対を押し切ってムルロア環礁で核実験を強行して非難を浴びたばかりだったのです。
そのニュースがまだ記憶に新しかったことから、ゴジラ出現の原因(核実験)と責任をフランスに押し付けて自らは被害者面を決め込むことにしたのでしょう。
流石は「広島・長崎への原爆投下は、あの不毛な戦争を早く終わらせるためのものだった。」と公言してはばからないお国柄であります。

その一方で、母国の汚点を濯ごうと暗躍するフランス諜報部隊がアメリカ軍より遥かに有能に描かれるなどフランスへの気配りも忘れてはいません。
ジャン・レノ演じる指揮官:フィリップは、「祖国を守りたい。祖国の犯した過ちからも・・・。」と語ります。
普段はジョークを絶やさないキャラクターのフィリップがこの時ばかりは真剣な面持ちを見せていて、ニックならずとも情にほだされてしまう良い場面でした。

結局、「核を弄んだ自らの尻拭い」という役どころは全てフランス人が肩代わりさせられることになっていました。
しかし、私が観たかったアメリカ(核保有国)製ゴジラ映画とは、「天に唾吐く自らの所業に対して、手痛いしっぺ返しを食らう」という寓話だったのです。
その根幹部分をこうもあからさまにはぐらかされたのでは、もうハリウッド製怪獣パニック映画として楽しめるだけ楽しむしかありません。
次にアメリカが『ゴジラ』をリメイクする時は、きっと北朝鮮の核で誕生するゴジラが登場することでしょう(笑)。

ちなみに私が劇場で初鑑賞した時には、すでに一部マスコミのネタバレによってゴジラのデザインが日本のものと全く違うことは事前に理解していました。
その点についてはある程度免疫を持った(諦めた)うえで観ましたので無問題としています(笑)。
【ゴジラの名】
私のこの映画についてもう一つの関心事は、ゴジラシリーズ全体における本作のポジショニングについてでした。
昭和29年(1954年)公開作品『ゴジラ』の続編としての位置付けなのか、ゼロから始まるリメイク(あるいはリブート)なのか?。
その答えは映画開始から9分23秒目、謎の巨大生物に襲われた日本漁船の生き残りの証言にありました。

「ナニガ起コタ?」
こうフランス人に尋ねられたこの老人は、虚ろな目で「ゴジラ・・・ゴジラ・・・」と繰り返しつぶやきます。
最初からゴジラという名前を知っている日本人が出てきたのです。
この時点で、本作は昭和29年公開の『ゴジラ』第一作と世界観を同じくする続編ということになります。
彼には44年前に日本を襲ったゴジラ災害の記憶が残っていて、ゴジラとは似て非なる巨大生物に襲われた恐怖から思わずその名が出てしまったのでしょう。

初代『ゴジラ』の存在を基本とするミレニアム・シリーズの『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』には、アメリカに出現したとされるこの怪獣の案件に触れるシーンがありました。
(もっとも「アレはゴジラと認められていない」と一蹴されていましたが)
よく言われていることですが、この作品はゴジラ映画ではなくゴジラと勘違いされた哀れな生き物の物語として楽しむのが妥当です。

しかし、何故かこれ以降の本編中には1954年に日本を襲ったゴジラに関する描写が全く出て来ません。
主人公:ニック(演:マシュー・ブロデリック)のような生物学者やアメリカ軍幹部なら、かつて日本に出現したという原子怪獣ゴジラの情報を知らないはずはありません。
ニューヨークに現れた巨大生物への対策方法を練るための参考事案として、それが話題に出てきても良さそうなものです。
この作品では”ゴジラ”という名前が単なる記号としてしか扱われていないように感じました。

日本国内外の殆どのゴジラファンがこの作品を忌み嫌う理由はここにあるような気がします。
この作品からは、『ゴジラ』第一作に対する敬意や思い入れといったものがまるで感じられないのです。
ローランド・エメリッヒ監督やプロデューサーのディーン・デヴリンがやったことは、日本の『ゴジラ』をアメリカを舞台にリメイクすることではなく自分たちが作りたかった巨大生物パニック映画に「ゴジラ」というブランド名を付け足しただけでした。

ゴジラと呼ばれる怪獣が『ジュラシック・パーク』の恐竜みたいでも、あるいはただの巨大イグアナに過ぎなくても構いません。
そのゴジラもどきがアメリカ軍の通常兵器:ミサイルで殺されてしまうのも仕方がないことです。
だってゴジラじゃありませんから。
でも、この作品の作り手が「これが我々の考えるゴジラだ」と言い張るのであれば、せめてそこにオリジナルである日本のゴジラへの畏敬の念と愛情を含ませて描いてもらいたかったと思います。
そして自分たちが作った怪獣の殺し方にしても、もう少しやりようがあったのではないでしょうか。
ワイヤーに絡めとられて身動き出来ないところに何発もミサイルを撃ち込んで嬲り殺す・・・。
あれではただの害獣駆除です。
怪獣愛など微塵も感じられません。
【主人公とジャン・レノ以外、頭の悪い奴ばかり】


以外に俊敏で知能も高いゴジラに翻弄されっぱなしの軍幹部。
再選のことしか頭になく、ゴジラ騒動も選挙に利用しようとするNY市長。
実直な生物学者のニックと母国の汚点を濯ぎたいフィリップ達フランス兵を除いて、この映画に登場するのは実にマンガチックで頭の悪いキャラクターばかりです。


軍のヘリでゴジラを攻撃しているはずなのに、ことごとく避けられて街を破壊してしまうシーンもありました。
実はこれと似たシチュエーションが日本の昭和シリーズ作品『怪獣総進撃』にもあったりします(笑)。
キラアク星人に操られたゴジラたち怪獣を街の各所に仕込んであった武器で攻撃するのですが、そのほとんどは怪獣に当たらずむしろ建物を次々と破壊していくばかり・・・。
まさか『怪獣総進撃』のあの場面にだけオマージュを捧げたわけではないでしょうが、私はエメリッヒ版『ゴジラ』を観ながら『怪獣総進撃』を懐かしく思い出していたのでありました。

この映画は主人公の生物学者:ニックを中心とする科学者チームと軍隊が主軸となって物語を引っ張っていきますが、それと並行してニックの元カノ:オードリーを中心としたテレビ局スタッフのサブストーリーも描かれていて、クライマックスで両者が合流するという構成になっています。
そのテレビ局サイドのメイン登場人物三人。
奥でアメ玉をしゃぶっているのが、ニックの元カノ:オードリー。
右端の男性がハンク・アザリア演じるカメラマンのビクター(通称:アニマル)。
中央はアニマルの奥さんで、彼女もまたオードリーと同じテレビ局の同僚です。
失礼ながら、彼女もオードリーもとてもテレビ局で働くような知的な女性には見えません。
映画業界のテレビ界に対する偏見がこんな描写にさせたのでしょうか?。

オードリーは、記者としての取材活動やレポーターに憧れてTV局に努めているものの上司のパワハラに阻まれて一向に目が出ない・・・と、自分ではそう思い込んでる意識高い系OLです。
残念ながらそうとしか見えないのは、上司に自分を売り込むシーンの前に彼女のジャーナリストとしての実力描写が無いことが原因です。
演じたマリア・ピティロさんはこの作品でゴールデンラズベリー賞の「最低助演女優賞」というありがたくもない賞を与えられてしまいましたが、これは必ずしも彼女の演技のせいではないでしょう。
稚拙な脚本と、女性を魅力的に描くことに興味を持てない監督の責任です。
本作以降は目立った出演作がありませんが本当にお気の毒なことでありました。

そのパワハラ&セクハラ上司のケイマン。
軍人の死亡シーンも描かれているこの作品にあって、この男は単なるギャグメーカーとして非常に浮いた存在です。
私からすると昭和59年版『ゴジラ』の武田鉄矢にも等しい不愉快なキャラクターであり、こんな人物を喜々として物語に登場させる制作者の良識を疑います。
窓の外で大変な事態が起こっているというのに、電話や音楽に夢中になっていて気が付かない・・・。
アメリカ人って、このギャグ大好きなんですね~。
この映画には似たシークエンスがもう一つあって、市場のシーンでヘッドホン着けながら新聞を読んでいて前方から迫るゴジラに気付かないトラックの運転手がいました。
この前年に公開されたスピルバーグの『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』にも波止場の事務所で同じようなギャグがありましたし、最近だと『アメイジング・スパイダーマン』にも音楽聞きながら仕事する用務員さんが背後でのスパイダーマンの戦いに全く気付かないという間抜けなシーンがありました。
いずれの場合も振動や周囲の雰囲気で気付きそうなものですがねえ。
怪獣ものに限らず映画、特にSF映画はディテールのリアリティをないがしろにしてしまうと全てが瓦解します。
ローランド・エメリッヒ監督は、前作の『インデペンデンス・デイ』とは気合の入り方が全然違う気がして残念です。
【トガジン的ツッコミどころ】
この映画、TVのカメラマンを職業とする私としてはツッコミどころ満載の作品です。
正確には「テレビの仕事を馬鹿にしとんのか!」と苦笑いの連続であります。

カメラマンのアニマルは、ご同業という親近感もあって本作品における数少ない好きなキャラクターの一人です。
彼には、ゴジラに真正面から遭遇してスクープ映像をものにするという、実に報道カメラマン冥利に尽きる最高の見せ場が用意されています。
しかし、この時の彼のカメラマンとしての描写には同業者として一言も二言も文句が言いたいのであります。

ゴジラを目撃したアニマルは、危険を顧みることもなく迷わずにカメラを持ち出して後を追います。
分かる!。
そのはやる気持ち、私にはよ~く分かります。
この時持ってるカメラが後のシーンのものとは違う機種であることも見て見ぬフリ出来るくらい共感してしまいます(笑)。


しかし、彼は土砂降りの雨の中でカメラのテープ挿入口を開放したまま移動していました。
これはいけません。
あれでは水滴がカメラ内部に入ってしまう危険があるため、プロのカメラマンの所作としては落第です。
もしヘッド部やテープに少しでも水滴が付いてしまったら、テープが走行不能になって確実に撮影は不可能となります。

しかも、彼はこのカメラに使うべきテープを間違えています。
彼が持っていたカメラは、当時主流だったアナログ方式のベータカムSP規格でした。
(しかも放送局仕様のBVWシリーズではなくブライダルやイベント用途の廉価版PVWシリーズ)
しかし、アニマルが焦って押し込もうとしていた水色のカセットは新規格のデジタル・ベータカム専用のテープです。
よく見ると「Digital」と黄色で印刷されているのが分かります。
形状は同じでも規格が全く違うテープでから、いくら丁寧に挿入したところでこのカメラで使うことは出来ません。
エラーが出て強制排出されてしまいます。


何とか頭上を通り過ぎるゴジラを撮影した(かのように見える)アニマルですが、よく見るとテープ挿入口が空いたままでテープも飛び出した状態です。
撮影中は赤く点灯し続けるはずのRECランプもチカチカとエラーを示す点滅状態になっていて、これはカメラが正常に動いていないことを物語っています。
つまりこの映像を見る限り、アニマルはこんな千載一遇のチャンスに巡り合いながらも全く撮影出来ていなかったということになるのです。
「最高の瞬間を撮り逃す」なんてのは、カメラマンにとってまさしく「悪夢」そのものです。
私も、まだ新人だった四半世紀以上昔にそんな失敗をやらかした苦い記憶があります。
それが不意に夢に出てきた日には、「チクショー!」と深夜に大声をあげながら飛び起きてしまいます。
それくらい本当に悔しくて情けないものなのです。

ところが数分後、何故かその時の映像がスクープ映像として放送されて、アニマルは仲間の称賛を一身に受けることになります。
なんかもう・・・「撮れてて良かったね~」としか言いようがありません(笑)。
本職の人間が見たら「何やってんねん!?」と画面にツッコミ入れたくなる場面ではありますが、現場にはおそらく放送用ビデオカメラについて知っている人間がいなかったのでしょう。
こうした雑な演出はいかがなものかとは思いますが、昔の自分を思い出させてくれるという点で思い出深いシーンではあります。
また、アニマル役のハンク・アザリアさんは全編で良い味を出していて、彼のおかげでこの作品自体もそれほど嫌いにはならずに済んでおります。
【続編~アニメ版~】


ゴジラ(と呼称された巨大生物)がアメリカ軍の通常兵器を喰らって死んでしまうという、まるで昔の『キングコング』のようなストーリーに反感を持った観客(特に日本人)が多かったこの作品。
実は最初からシリーズ化を想定して企画されていて、続編の構想もある程度練られていたそうです。
そしてそれは、テレビアニメとしてすでに映像化もされていました。

主人公はこの映画版と同じ生物学者のニック・タトプロス。
爆破されたマディソン・スクエア・ガーデンの卵を調べていた彼の目前で、生き残った一個の卵が孵化し始めます。
初めて見た生き物が死んだ親ゴジラの臭いが染みついたニックだったことで、その子ゴジラは彼のことを親と認識してなついてしまいます。

そして親と同様巨大に成長したゴジラ・ジュニアは、ニックたちと協力して放射能で巨大化した他の怪獣たちと戦うのでありました。
その敵怪獣というのは、巨大な蛾とかその幼虫でしょうか?。
あるいは巨大な鳥とかエビとかカマキリとか、首が3本ある金色の奴とか?(笑)。
この映画は、こうしたシリーズ化を前提としたエピソード1(あるいはエピソード0)に過ぎなかったのかも知れません。
そう考えてみれば、最初のゴジラが死んでしまうことも二匹目が人間の味方になるということも、昭和のゴジラシリーズ全体を踏襲しているとも言えるでしょう。
ゴジラ作品の一つとしてではなく、ゴジラの模倣品として・・・。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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