『日本沈没』(昭和48年版)
小学3年生の冬休み。
私たち一家は、この年の正月を京都の親戚宅で過ごしてました。
母方の曾祖父に年始の挨拶に行くというのが表向きの名目でしたが、当時9歳の私にしてみれば従兄弟たちと遊ぶこととお年玉の徴収こそが最大の目的であり楽しみでありました。
そして、翌日には福井に帰るという1974年(昭和49年)1月2日。
あいにくの雨で楽しみにしていた太秦映画村行きが取り止めになってしまい、私たち子供連中は朝から家の中でテレビを見たりマンガを読んだりしてゴロゴロくすぶっておりました。
それを見た伯父さんが「せっかく福井から来ているのにこれでは可哀そうだ」と思ったのか、「映画でも観に連れてったろか。今、ものごっついのやってるで。」と誘ってくれたのです。
その”ものごっつい”映画のタイトルは『日本沈没』。
それまでは「映画」といっても『東宝チャンピオンまつり』と『東映まんがまつり』しか見たことがなかった私にとって、怪獣もヒーローも出てこない初めての「大人の映画」でありました。
『日本沈没』
(昭和48年:森谷司郎監督作品)

<あらすじ>
地球物理学者・田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。
深海調査艇ケルマデック号の操艇者・小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見した。
異変を確信した田所はデータを集め続けついに一つの結論に達する。
それは「日本列島は最悪の場合2年以内に地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。
最初は半信半疑だった政府も紆余曲折の末日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動するが、事態の推移は田所の予想を遥かに超える速度で進行していた。
【とある京都の映画館にて】
昭和49年1月2日。
正月休み、しかも超人気作品ということで凄まじく混んでいた京都市内のある映画館に入りました。
後から伯父に聞いた話ですが、その映画館は最初別の映画を上映していたものの『日本沈没』のあまりの客の多さに急遽振り替え上映をしていたのだそうです。
そういえば新聞広告には同時上映作品の題名も書かれていたはずでしたが、その作品は観た記憶がありません。
おそらく東宝側も振り替え上映館に対しては併映作品にまで手が回らなかったのでしょう。
当時の映画館は入れ替え制でもなければ座席指定もありません。
伯父さんと我々4人の子供たちは前の回の上映終了前に入って席取りをしようということになりました。
中に入ると、場内は満席で立ち見や通路に座り込んで見ている客も大勢いたことをよく覚えています。
上映終了後、空いた座席へと殺到する人たちを押しのけて、伯父さんが子供たち4人分の席をなんとか確保してくれました。
しかし残念なことに、私たち5人は全員バラバラの席に座ることになってしまったのであります。
それまで『東宝チャンピオンまつり』などに連れて行ってもらった時には、私の隣には常に同伴の祖母が居てくれました。
しかし、この日は右も左も分からない京都の映画館でしかも見知らぬ大人に左右を囲まれているという、小三の子供には少々酷な状況下でこの「破滅に向かってまっしぐら」な内容の映画を観る羽目になってしまったのです。
【誰も助けに来てくれない】

例えばこれが『ウルトラマン』だったら、迫りくる大津波も念動力で押し返してくれるでしょうし、燃えさかる街もウルトラ水流とかウルトラブレスレットの力でなんとかしてくれるに違いありません。
「日本滅亡」の危機といっても、その元凶である怪獣や宇宙人をやっつければ万事完結です。
当時9歳の私は、『日本沈没』の序盤を見ながら漠然とそんなことを思っていました。

しかしこの映画では、津波は容赦なく人々を呑み込み炎は人も建物も全て焼き尽くします。
あまりの被害の甚大さに救助に当たるべき消防も自衛隊もなすすべが無く、日本列島の沈没は誰にも止める事は出来ません。
後に『八甲田山』を手掛けることになる森谷司郎監督の冷徹な演出は、中途半端なヒューマニズムやセンチメンタリズムなど何の役にも立たないとでも言わんばかりに炎や津波に呑まれていく人々の姿を無慈悲に描き出します。

当時小学三年だった私が過剰に反応したのは、津波に呑まれる丹波地方の漁村の風景でした。
私が住む街は日本海に面する閑静な港町ですが、県道7号線沿いに越前松島や水族館へ向かう途中の風景と、映画の中で漁船で朝鮮半島へ逃げようとしていた村とがよく似ていたのです。

こちらが夏休みにいつも通っていた県道沿いにある漁港です。
同じ日本海に面した小さな漁港ですから似ていても別に不思議ではないですが、
自分が見知った漁村の風景とそっくりな場所が津波に呑み込まれるシーンは子供心に衝撃的過ぎました。
【災害シミュレーション映画として】
今回の鑑賞では、無意識のうちに被災表現のリアリティに注目していました。
私自身も23年前に仕事で現地を取材した「阪神淡路大震災」をはじめ、「東日本大震災」や「熊本地震」など現実に起こった自然災害とどうしても比較してしまわずにいられなかったのです。
結論を最初に述べますが、(昭和48年当時の映像技術レベルには目を瞑るとして)災害シミュレーション映像として現在でも十分通用し得るレベルの作品です。
例えば。

「関東大震災は火でやられた。火さえ気を付ければ・・・。」と叫んだ老人の家が、その直後に洪水で押しつぶされるという悪質なギャグみたいなシーンがありました。
しかし、あの場所が江戸川区だったとなると、これは笑い事では済まされません。
荒川と江戸川という2つの河川、そして東京湾に囲まれている江戸川区は他の区に比べると地盤が弱く、大地震の際には地面が液状化しやすい土地柄です。
しかも海抜ゼロメートルであるため津波や洪水といった水害の危険性も非常に高く、ひとたび浸水すると土地全体が水没してしまう可能性すらあります。
更に、河川に架かる橋が通行不能になった場合、住民避難も救助活動も全てが滞ってしまうことになるのです。
この江戸川区の脆弱性は東日本大震災後に行われた災害シミュレーションでも指摘されたのですが、その38年も前の映画『日本沈没』でこの問題点はすでに示唆されていたのです。
(それはつまり、38年間何も対策が取られていなかったということでもあるのですが・・・。)

もう一つは、地震で割れた高層ビルのガラスの破片が降り注いてくることの恐怖です。
この現象については、私も23年前に阪神淡路大震災の時実際に目撃しております。
幸いにもガラス片を浴びることはありませんでしたが、当日朝の大阪市内の路上にはあちこちに割れたガラスが散乱していましたし、時折バラバラと破片が落ちてきたりもしました。
早朝から外出していた人が落ちて来たガラスで怪我をしたというニュースも多数見ています。
しかも、この映画のわずか8ヶ月後、このシーンを現実化したかのような大事件が起きています。
昭和49年8月30日に発生した「三菱重工ビル爆破事件」です。
爆弾による直接被害もさることながら、飛び散ったガラス破片が降り注いだことで一般通行人にも800人以上の負傷者が出ました。
現在の大都市で大地震が起きた時、六本木ヒルズとかあべのハルカスといったキラキラ光る高層ビル周辺がどんな凄惨な状態になるのか?。
想像しただけでゾッとします。
このように、昭和48年公開の映画『日本沈没』(昭和48年)のシミュレート確度の高さは、現在でも十分通用するものなのです。
【藤岡弘さん】

『日本沈没』は9歳の子供が面と向かって観るにはあまりにも救いの無い映画でありました。
しかも、私はこれを他所の土地の劇場で見知らぬ大人たちに囲まれながらという心細い状況で観る羽目になっていたのです。
それでも最後まで逃げ出さずに観ることが出来たのは、深海調査艇操舵士:小野寺俊夫役を演じた藤岡弘さんのおかげでした。

なぜならば、藤岡弘さんといえば仮面ライダー1号/本郷猛の人だからです!。

この時期の『仮面ライダー』シリーズはすでに『V3』の終盤に差し掛かっていましたが、『V3』第1話で死んだと思われていた1号と2号が再登場してまだそれほど日が経っていない頃でした。
そのため、当時の私は藤岡さんに対して「不死身」というイメージを持っていたのでしょう。
「何があってもこの人だけは絶対に死なへん!。」
稚拙な思い込みでしかありませんが、9歳の子供にしてみればとても怖い映画に向き合うに当たって、心の支えになってくれる強靭なヒーローを無意識のうちに求めていたのだと思います。
【実は私、藤岡さんに直接お会いしたことがあります】

毎年4月に福井市で開催される「ふくい春まつり」の一部として「越前時代行列」という催しがあります。
これは戦国時代末期に豊臣秀吉に攻め滅ぼされた柴田勝家とその妻お市の方(織田信長の妹)に因んだもので、約500人の参加者が戦国武将やお姫様や町娘などのコスプレをして市中心部を練り歩き華麗な時代絵巻を醸し出すというものです 。

主役の柴田勝家役は毎年俳優さんを招いて演じていただいているのですが、2005年に勝家役を演じたのが藤岡弘さんでした。
当然、その前日には各県内メディアが藤岡さんを取材させていただくことになるわけですが、私は幸運にもあるTV局の番組スタッフとしてご本人にお会いすることが出来たのです。
本来私のようなマスコミ関係の仕事に従事する者は、基本として出演者に対し個人的にサインを求めるなどするべきではありません。
それはよく分かっております。
分かってはいましたが・・・、この時ばかりはどうしても我慢することが出来ませんでした。
その日はこっそりサイン色紙を持って現場入りし、同い年のディレクターに「なんとかお願いできないものか」と相談してみたのです。
するとそのディレクターも「実は俺も・・・」と照れ笑いしながら色紙を取り出したじゃありませんか!。
幸い番組収録前はかなりの時間的余裕があり、藤岡さんも早めにスタジオ入りして我々スタッフにも気さくに声をかけて下さいました。
そのテレビで見るのと同じ飾らないお人柄に甘えるように、『仮面ライダー』直撃世代であるディレクターと私は意を決して色紙を差し出しサインをお願いしたのです。
藤岡さんはニコニコしながら快諾して下さり、「あなたのお名前は?」と聞いてそれぞれ私たちの名前まで書き込んでくれました。

これがその時いただいたサインです。
ボカシの部分には私の名前が書かれています。

しかも、このように裏側にもぎっしりと力強いメッセージを書いて下さいました。
天命に生き
運命に挑戦
使命に燃ゆ
宿命に感謝
私が幼い頃から『仮面ライダー』を観ていて、少し大きくなって『日本沈没』を観た時には藤岡さんの存在を心の支えにしていたと話すと、とても嬉しそうに藤岡さんのほうから握手をして下さいました。
「でもね、僕はライダーの時に大怪我をしてスタッフや共演者に大変な迷惑をかけてしまったんだ。そして復帰後は何人ものスタントマンが僕の代わりに怪我をしてくれた。本郷猛は僕一人で演じたわけじゃないんだよ。」
力強く私たちの手を握りながら藤岡さんが仰ったこの言葉は今も忘れることはありません。
【山本総理と田所博士】
藤岡さんにスペースを割き過ぎてしまいました(汗)。
他の印象的な俳優さんをお二人だけ書き留めておきます。
【山本総理:丹波哲郎】

現実世界も架空の存在も含めて、私が初めて目の当たりにした総理大臣像というものがこの丹波哲郎さん演じる山本総理でした。
これはとても幸運なことだったのかも知れません(笑)。
「国の最高責任者とは、こんなにも国民の事を思ってくれているものなのだ」と思わせてくれたのですから。

「何もせんほうがええ」
日本人の進むべき方向性を検討した学者たちの究極の答えを聞き、思わず反復するときの丹波さんの目元は本当に潤んでいるように見えました。
全然セリフを覚えてこない、そもそも台本を読もうとしない、遅刻が多い、霊界の広告塔、等々。
色々と難儀なエピソードには事欠かない丹波さんですが、こと山本総理役の演技を見る限り彼は正真正銘の名優です。
【田所博士:小林桂樹】

日本海溝の異変を察知し、いち早く日本沈没の可能性を示唆した地球物理学者。
どちらかというと『椿三十郎』の押入れ侍や『ゴジラ(昭和59年版)』の総理大臣など、とぼけたキャラクターや温厚な人物のイメージが強い小林桂樹さんですが、私が初めて接した小林さんのイメージはこの偏屈で粗暴な科学者役でした。


科学者というには少々アナーキー過ぎるきらいはありますが、この荒唐無稽なお話を観客に信じ込ませる牽引車としてはおそらくこれくらいのパワフルさが必要なのでしょう。
日本沈没のメカニズムについては本物の地球物理学者である竹内均先生が劇中で淡々と説明していました。
本来なら一人のキャラクターでも良かったはずの地球物理学者を、あえて静と動の二人に分けて設定したのではないかと思われます。
田所博士は物語が日本人の国外脱出を目的としたD2計画に移行したあたりで一時的に表舞台から姿を消し、そこからストーリーの軸が山本総理に移っています。
そして田所博士が最後に再び登場した時、彼は世界に散っていく日本人たちの行く末を山本総理に託して自らは日本に残ります。

「日本人は民族としては若い。四つの島でぬくぬくと育てられてきたわが子供が、外へ出て行ってケンカをしてひどい目にあっても、四つの島へ逃げ込み母親の懐へ鼻を突っ込みさえすればよかった。しかしこれからはその帰るべき国がなく、海千山千の世界の人間の中で・・・。」
今回このセリフを聞いているうち、44年前に初めて京都の映画館で観た時のことを思い出してしまいました。
それまでの映画鑑賞は常に保護者(祖母)が隣にいてくれる安心感があってのものでしたが、この『日本沈没』の時だけは周囲を知らない大人たちに囲まれてとても心細い状況下で観ていたのです。
あの時の私はこの田所博士が語った「これからの日本人の姿」そのものでした。
今でも私にとってこの映画が特別な存在であり続けるのは、おそらくあの体験とこの台詞のせいなのかも知れません。
【東宝映画と東宝映像】
小松左京先生の原作小説『日本沈没』を出版後すぐに映画化権を買って企画立案をしたのは、東宝時代にあの『ゴジラ』をはじめとする東宝特撮作品群を作り上げた名プロデューサー田中友幸さんでした。
もし、これが1970年以前なら、すぐにでも馴染みの関沢新一氏に脚本を書かせて本多猪四郎監督/円谷英二特技監督のコンビで制作を開始していたことでしょう。
ところが、この当時の東宝は映画業界斜陽化のあおりを受けて大幅な分業体制に変わっていました。
映画製作部門を独立させた「東宝映画」と、特撮映像や美術部門を受け持つ「東宝映像」などです。
1973年当時の田中友幸さんはあくまでも「東宝映像」の社長であり、その権限だけでは『日本沈没』のような大型企画を動かすことは出来ません。
話は東宝の映画製作部門である「東宝映画」に持ち込まれ、提案に乗った東宝映画の田中収社長は『日本沈没』の映画化を決定します。
この時点で田中友幸プロデューサーの意向だけで作れる作品ではなくなりました。
スタッフ構成は、特撮部門以外のほとんどが東宝映画側の意向で決定します。
『日本沈没』は確かに特撮映像が主体となる作品ですが、そのスペクタクル映像を支える人間ドラマがしっかり描かれていなければ逆にとんでもなく陳腐なものになってしまいます。
そう考えた東宝映画の田中収社長が選抜したスタッフは・・・。
脚本:橋本忍
黒澤明監督の脚本チームの一人。
過去に手掛けた作品は『日本のいちばん長い日』『私は貝になりたい』等々傑作揃い。
ただし、82年の『幻の湖』だけは例外(笑)。
監督:森谷司郎
元黒澤組のチーフ助監督。
本作品へは『デルス・ウザーラ』を断っての参加。
東宝映画が社運を賭けたこの超大作を成功させたことで、以後『八甲田山』『海峡』などオールスター大作を数多く手がけることになる。
美術:村木与四郎
『生きものの記録』から『まあだだよ』まで、殆どの黒澤作品の美術監督を務めた偉大な人。
幸運にも『デルス・ウザーラ』の美術はソ連側スタッフだったので、本作への参加が可能になった。
撮影:木村大作
キャリアスタートは黒澤組の撮影助手。
今作には当初セカンドとしての参加だったが、”自分の画”を強烈にアピールすることで晴れて正カメラマンに。
音楽:佐藤勝
『生きものの記録』から『赤ひげ』までの黒澤映画の音楽を担当。
特撮怪獣ものでは『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』や『ゴジラ対メカゴジラ』など主に福田純監督のゴジラ作品を担当。
特撮:中野昭慶
「東宝チャンピオンまつり」の低予算ゴジラ映画を支えてくれた特技監督。
『ゴジラ対メガロ』のときの「低予算だから、なんて言い訳はお金を払ってくれたお客さんに失礼だ。」は名言中の名言。
特撮の中野監督は別として、ドラマ本編に携わるスタッフの殆どは黒澤明作品に深く関わった人ばかりです。
ちなみに田中友幸さんが当初想定していたスタッフとは・・・
脚本:関沢新一
監督:福田純(後にTVドラマ版『日本沈没』に参加)
それって、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』と『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』のコンビやないか~(笑)。
【ゴジラと森谷司郎監督】
余談になりますが、田中友幸プロデューサーつながりで『ゴジラ』の話をひとつ・・・。

昭和59年公開の『ゴジラ』(84ゴジラ)。
当時大学生だった私はその出来に落胆した一方で、「今度のゴジラは『日本沈没』の森谷監督にやってもらえば良かったのに。」と本気で思ったものでした。
昭和59年版『ゴジラ』が意図したものは怪獣映画というよりも『日本沈没』に近い怪獣による災害パニック映画に近いもので、「現実にゴジラが現れた場合の人々の対応」や「ゴジラと冷戦時代の核兵器や原発との関わり」をシミュレートした硬派な作品だったはずでした。
哀しいかな実際は、中途半端なヒューマニズムとセンチメンタリズム、物語に全く関与しない有名タレントのふざけた顔見せ出演、そして東宝特撮の悪癖でもある超兵器(スーパーX)の登場によりせっかくの機会を台無しにしていました。
その無念さから、大地震とそれによる災害の数々を冷徹な視点で描き切った『日本沈没』のスタッフこそが新生『ゴジラ』を作るに相応しいと考えたのです。

しかし、残念なことに森谷監督は癌のために『ゴジラ(昭和59年版)』公開直前の12月2日にお亡くなりになっていました。
もはや私の夢想でしかなくなった『日本沈没』『八甲田山』の森谷司郎監督による『新・ゴジラ』。
実は、『シン・ゴジラ』に出会うまで私が求め続けたゴジラ映画とは、まさに『日本沈没』のような災害シミュレーション作品だったのです。
【触れられなかった大事なこと】
最後に大きな疑問点を一つだけ。


日本列島が分断されていく様子をシミュレーションする場面があり、その映像の一部に我が福井県嶺南地方が含まれておりました。
これ、実は大変なことなのであります。
なぜならば、昭和48年当時の福井県嶺南地方には既に3基の原子力発電所が稼働中だったからです

敦賀1号機(昭和45年3月大阪万博開会日に営業運転開始)

美浜1号機(昭和45年8月大阪万博へ送電開始)
美浜2号機(昭和47年7月運転開始)

これらの原発は福井県の敦賀半島のこの位置にあります。
琵琶湖との位置関係にご注目下さい。
この図と作中の破砕帯シミュレーション画面を合わせて見てみると・・・?。

直撃です!。
7年前の東日本大震災による福島第一原発事故を経験した今では、この1カットがとてつもなく恐ろしいものに見えてきます。
このように原発所在地に被害を及ばせておきながら、どうしてこの映画は原発事故について一言も触れていないのでしょうか?。
小松左京先生の頭脳をもってしても、昭和48年の時点では地震による原子力発電所の事故といったものは想像がつかないものだったのでしょうか?。
あるいは「原発事故が絡むとストーリーが複雑化する」と考えて意図的にオミットしたのでしょうか?。
そしてこれは一番イヤな想像ですが、当時はまだ「夢のエネルギー」であった原子力を推進したい政府や企業から横槍が入ったとか・・・?。
昭和48年当時も福井の原発は確かに稼働していたわけですから、そのことから目を逸らしているように見えてしまうのはとても残念です。
こんなところに目が行ってしまうのは、単に私が原発立地県の人間だからなのかも知れませんが・・・。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。