『ブレードランナー』(ファイナルカット版)
CATEGORY外国映画:ハ行
トガジンです。
『ブレードランナー2049』の公開が始まって早くも一週間が過ぎてしまいました。
早く観たくて仕方がないのですが、総選挙と台風21号以降の思わぬ体調不良と忙しさのためになかなかその時間が確保出来ません。
集中力を要する内容のうえに2時間43分もある作品ですから、体調面はもちろん気分的にも余裕を持って鑑賞に臨みたい作品です。
来週の水曜か木曜にはなんとか休みが取れそうなので、それまでは我慢とネタバレ警戒が続きそうです(笑)。
というわけで、続編に先立って前作をおさらいしておくことにしました。
『ブレードランナー』(ファイナルカット版)
(ホームシアター:Blu-ray)

長らく「カルトSF映画」と呼ばれてきたこの作品。
大学時代に自主映画製作に傾倒していた私にとって多大な影響を受けた作品の一つです。

今回再鑑賞するにあたり、この最終バージョンと最初に観たオリジナル劇場公開版とどちらを観るべきか迷いましたが、リドリー・スコット製作総指揮の『2049』はおそらくファイナル・カット版を下敷きにしているものと思われます。
このブルーレイ・ディスクを買った時以来、約9年ぶりの『ブレードランナー』再鑑賞です。
【公開当時のこと】

公開当時の私(高校三年生)の目には、アクションスター:ハリソン・フォード主演の娯楽映画として観た場合まるで面白くない映画に映ったことを正直に告白しておきます。
なにせこの映画でハリソン・フォード演じるブレード・ランナー特捜刑事:デッカードが自ら仕留めたレプリカントは4人のうち女性型二人だけなのです。
しかもそのうちの一人は必死に逃げる半裸の女を背中から何発も撃って殺すという実に後味の悪いものでした。

屈強な男性型のロイとレオンに対しては結局手も足も出ないまま終わってしまいます。
『スター・ウォーズ』のハン・ソロや『レイダース』のインディアナ・ジョーンズをイメージしていたせいもあって、当時の私には消化不良気味の作品でした。

それでも何故かこの作品のことが忘れられず、大阪の大学へ進学後には当時普及し始めたレンタルビデオや早々に手に入れたレーザーディスクで何度も繰り返し見たものでした。
SFかぶれ映画少年のインテリジェンスを程良く刺激する思わせぶりなストーリー。
雨とスモークを多用することで画面密度を高めた斬新な映像。
そしてヴァンゲリスの楽曲の心地良さ。
当時は映画というよりむしろBGVのような感覚で、ループで繰り返しTVに流し続けて「フタツデジューブンデスヨ!」とか「へんなものがおっこちていったぜ」とか「誰のプレゼント?」とか日本語が聞こえるたびに画面に目を向ける、といったことをしていたものです。
【「親(あるいは神)殺し」テーマの原点】

今回、映像・音響のグレードアップ以外にもセリフとそれに伴う日本語字幕の変更がいくつか目に付きました
例えば、地球に舞い戻ったロイが自分たちの設計者、すなわち創造主であるタイレル博士に「寿命を延ばして欲しい」と直談判を試みるこのシーン。
オリジナル劇場公開版では最後の部分を"fucker!"と吐き捨てるように罵っていました。
汚い言葉であるせいか字幕では畜生と訳されていたこの部分ですが・・・。

2007年のファイナル・カット版では"father"(訳:父よ)に変更されていました。
本バージョンを初めて観た9年前には深く考えもしなかった変更点ですが、2017年の現在では全く違った意味合いに思えます。
その理由はリドリー・スコット監督の最近作『エイリアン:コヴェナント』にありました。
『エイリアン:コヴェナント』とその前作にあたる『プロメテウス』の主人公はアンドロイドのデヴィッド(演:マイケル・ファスベンダー)です。
デヴィッドは(同型改良版であるウォルターも)人間から生殖機能と創造的思考能力を省かれたアンドロイドです。
そして『ブレード・ランナー』のレプリカントもまた寿命を短く制限された人造人間であり、いずれも人間に比べてどこかが意図的に省かれた存在として描かれている点が共通しています。
『ブレードランナー』のレプリカントたちは自らを縛る運命(寿命)から逃れたいと創造主にすがりますが、どうしてもそれが叶わないと分かると生みの親である創造主を泣きながら殺害してしまいます。
『エイリアン:コヴェナント』のデヴィッドも、創造主である人間を殺すことを通じて人間が自分を作ったのと同じように新しい完全生命体(エイリアン)を創造しようとします。

どちらも、人間の創造主が神だとするならばアンドロイド(レプリカント)の創造主は人間であるという考え方です。
その創造主(神様)たちはどいつもこいつも自分勝手で上から目線な奴らばかりで、願いを叶えてくれないただの制作者など神ではないと「造られし者」が反乱を起こす物語になっています。
これは完全にキリスト教徒的思考であって私には完全には理解出来ませんが、老齢の域に達したリドリー・スコット監督が最期のテーマとして「神殺し」を選んだことは確かです。
その発芽が35年前の監督第3作目に既に見られたことは驚きですが、これが『ブレードランナー2049』にどう影響してくるのかも興味深いところであります。
【デッカード=レプリカント説について】

ディレクターズ・カット版と今回のファイナルカット版では、デッカードが見る夢としてユニコーンの映像が挿入されていました。
そのデッカードしか知らないはずのユニコーンをガフが折り紙で折ってみせたことで、「デッカード=レプリカント」説が明確化されています。
しかし、私は「ディレクターズカット版」「ファイナルカット版」を観た今でもデッカードを人間として捉えております。
もしデッカードもレプリカントだったと認めてしまうと、クライマックスの死闘も、ロイの名セリフも全く無意味なものになってしまう気がするのです。

ラストシーン、寿命を迎えたロイは自らの体験をデッカードに語りかけます。
俺はお前たち人間には信じられない光景を見てきた。
オリオン座の近くで炎を上げる戦闘艦。
暗黒に沈むタンホイザー・ゲートのそばで瞬くCビーム。
そんな記憶も時と共に消えてしまう。
雨の中の涙のように。
死ぬ時が来た。
余談ですがこの素晴らしいセリフは、ロイ役を完全に自分のものにしたルトガー・ハウアーによるアドリブだったそうです。

このセリフを受け取る相手は絶対に生身の人間であるべきです。
忌の際にこの言葉を聞かせた相手も自分と同じレプリカントだったなんて、それではロイがあまりにも哀れでなりません。
初期の2バージョンにおける「デッカードもまたレプリカントではないか?」という疑惑の発端は赤目でした。
『ブレードランナー』では人間とレプリカントを区別するための演出として、レプリカントは瞳の奥が赤く光るという描写が意図的に行われていましたが、実はデッカードにも1カットだけ赤目に見える画があったのです。

こちらがその問題のカットですが、デッカードはピンボケではっきりとは分かりません。
他にデッカードの目が赤く見えるカットは一切無いため、私は写真における「赤目現象」のようなもので単なる撮影ミスだと思っていました。
この画を理由に「デッカードもレプリカントだ!」と鬼の首を取ったように騒ぎ立てている連中を鼻で笑ったものですが、まさか後年になってオフィシャル公認の設定になってしまうとは思ってもいませんでした。
この点に関しては、初回バージョンのまま思わせぶりに匂わせておくに留めておいてもらいたかったですね。
具体的なユニコーンの映像挿入などという無粋な行為は、結果として観客が想像する楽しみを奪ってしまっただけのような気がします。
【リドリー・スコットの松本零士化現象】
再び『ブレードランナー』と『エイリアン』の関連性の話に戻ります。

この映画の冒頭、シネマスコープの画面いっぱいに2019年のL.A.を見下ろすロイ(?)の目が大写しになります。
(ちなみに、何故かこの目の瞳孔は赤くありません)
そして同じリドリー・スコット監督の最近作『エイリアン・コヴェナント』もまた、同じようなデヴィッドの目のアップから始まっていました。
『エイリアン・コヴェナント』を観たときにはコヴェナント号クルーの馬鹿さ加減と必要以上の残酷描写に気を取られて気に留めていませんでしたが、あの「目」のショットの共通性を改めて考えると、なんだかリドリー・スコット監督が人造人間(アンドロイドorレプリカント)という共通の要素を介して『エイリアン』と『ブレードランナー』の世界を統合しようと目論んでいるように思えてなりません。
レプリカントを作った2019年のタイレル社の技術は、2089年ウェイランド社に受け継がれてデビッドやアッシュやビショップなどのアンドロイドの土台となった・・・とか?。
それじゃあ、まるで・・・まるで・・・。

『銀河鉄道999』も『キャプテン・ハーロック』も同じ一つの世界の話だと言って合体させた松本零士先生みたいじゃありませんか。
しかも『宇宙戦艦ヤマト』も同じ世界に組み込もうと「『ヤマト』の著作権は我にあり」と裁判まで起こしたあの醜聞まで思い出してしまいます(笑)。
あるいは「『バイオレンス・ジャック』は実は『デビルマン』の後日談でした。」と明かした永井豪先生のようでもあります。
しかし『エイリアン』の創造者は脚本を書いたダン・オバノンであり、スコットは雇われ監督に過ぎませんでした。
『ブレードランナー』も(内容はすっかり変えられていますが)フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が原作であり、その映画化権はプロデューサーのハンプトン・ファンチャー氏(『2049』の原案・脚本も担当)が持っています。
いくら売れっ子監督のリドリー・スコットとはいえ、著作者や権利者をないがしろにしてまで作品を私物化することはないはずです。
・・・多分。
【そして『ブレードランナー2049』へ】

前作を途中で干されたプロデューサー:ハンプトン・ファンチャー氏の原案・脚本・・・。
この作品世界を私物化しようとするリドリー・スコット製作総指揮・・・。
あああ、期待と不安、共に我にあり!。
私としては『ブレードランナー』の続編というよりも、あくまでも『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品として観に行くことにしております(笑)。
出来れば大阪まで足を延ばしてIMAX 3Dで堪能したいところですが、現状ではとてもそんな時間は取れそうにないのが残念です。
最期までお付き合いいただきありがとうございました。
『ブレードランナー2049』の公開が始まって早くも一週間が過ぎてしまいました。
早く観たくて仕方がないのですが、総選挙と台風21号以降の思わぬ体調不良と忙しさのためになかなかその時間が確保出来ません。
集中力を要する内容のうえに2時間43分もある作品ですから、体調面はもちろん気分的にも余裕を持って鑑賞に臨みたい作品です。
来週の水曜か木曜にはなんとか休みが取れそうなので、それまでは我慢とネタバレ警戒が続きそうです(笑)。
というわけで、続編に先立って前作をおさらいしておくことにしました。
『ブレードランナー』(ファイナルカット版)
(ホームシアター:Blu-ray)

長らく「カルトSF映画」と呼ばれてきたこの作品。
大学時代に自主映画製作に傾倒していた私にとって多大な影響を受けた作品の一つです。

今回再鑑賞するにあたり、この最終バージョンと最初に観たオリジナル劇場公開版とどちらを観るべきか迷いましたが、リドリー・スコット製作総指揮の『2049』はおそらくファイナル・カット版を下敷きにしているものと思われます。
このブルーレイ・ディスクを買った時以来、約9年ぶりの『ブレードランナー』再鑑賞です。
【公開当時のこと】

公開当時の私(高校三年生)の目には、アクションスター:ハリソン・フォード主演の娯楽映画として観た場合まるで面白くない映画に映ったことを正直に告白しておきます。
なにせこの映画でハリソン・フォード演じるブレード・ランナー特捜刑事:デッカードが自ら仕留めたレプリカントは4人のうち女性型二人だけなのです。
しかもそのうちの一人は必死に逃げる半裸の女を背中から何発も撃って殺すという実に後味の悪いものでした。

屈強な男性型のロイとレオンに対しては結局手も足も出ないまま終わってしまいます。
『スター・ウォーズ』のハン・ソロや『レイダース』のインディアナ・ジョーンズをイメージしていたせいもあって、当時の私には消化不良気味の作品でした。

それでも何故かこの作品のことが忘れられず、大阪の大学へ進学後には当時普及し始めたレンタルビデオや早々に手に入れたレーザーディスクで何度も繰り返し見たものでした。
SFかぶれ映画少年のインテリジェンスを程良く刺激する思わせぶりなストーリー。
雨とスモークを多用することで画面密度を高めた斬新な映像。
そしてヴァンゲリスの楽曲の心地良さ。
当時は映画というよりむしろBGVのような感覚で、ループで繰り返しTVに流し続けて「フタツデジューブンデスヨ!」とか「へんなものがおっこちていったぜ」とか「誰のプレゼント?」とか日本語が聞こえるたびに画面に目を向ける、といったことをしていたものです。
【「親(あるいは神)殺し」テーマの原点】

今回、映像・音響のグレードアップ以外にもセリフとそれに伴う日本語字幕の変更がいくつか目に付きました
例えば、地球に舞い戻ったロイが自分たちの設計者、すなわち創造主であるタイレル博士に「寿命を延ばして欲しい」と直談判を試みるこのシーン。
オリジナル劇場公開版では最後の部分を"fucker!"と吐き捨てるように罵っていました。
汚い言葉であるせいか字幕では畜生と訳されていたこの部分ですが・・・。

2007年のファイナル・カット版では"father"(訳:父よ)に変更されていました。
本バージョンを初めて観た9年前には深く考えもしなかった変更点ですが、2017年の現在では全く違った意味合いに思えます。
その理由はリドリー・スコット監督の最近作『エイリアン:コヴェナント』にありました。
『エイリアン:コヴェナント』とその前作にあたる『プロメテウス』の主人公はアンドロイドのデヴィッド(演:マイケル・ファスベンダー)です。
デヴィッドは(同型改良版であるウォルターも)人間から生殖機能と創造的思考能力を省かれたアンドロイドです。
そして『ブレード・ランナー』のレプリカントもまた寿命を短く制限された人造人間であり、いずれも人間に比べてどこかが意図的に省かれた存在として描かれている点が共通しています。
『ブレードランナー』のレプリカントたちは自らを縛る運命(寿命)から逃れたいと創造主にすがりますが、どうしてもそれが叶わないと分かると生みの親である創造主を泣きながら殺害してしまいます。
『エイリアン:コヴェナント』のデヴィッドも、創造主である人間を殺すことを通じて人間が自分を作ったのと同じように新しい完全生命体(エイリアン)を創造しようとします。


どちらも、人間の創造主が神だとするならばアンドロイド(レプリカント)の創造主は人間であるという考え方です。
その創造主(神様)たちはどいつもこいつも自分勝手で上から目線な奴らばかりで、願いを叶えてくれないただの制作者など神ではないと「造られし者」が反乱を起こす物語になっています。
これは完全にキリスト教徒的思考であって私には完全には理解出来ませんが、老齢の域に達したリドリー・スコット監督が最期のテーマとして「神殺し」を選んだことは確かです。
その発芽が35年前の監督第3作目に既に見られたことは驚きですが、これが『ブレードランナー2049』にどう影響してくるのかも興味深いところであります。
【デッカード=レプリカント説について】

ディレクターズ・カット版と今回のファイナルカット版では、デッカードが見る夢としてユニコーンの映像が挿入されていました。
そのデッカードしか知らないはずのユニコーンをガフが折り紙で折ってみせたことで、「デッカード=レプリカント」説が明確化されています。
しかし、私は「ディレクターズカット版」「ファイナルカット版」を観た今でもデッカードを人間として捉えております。
もしデッカードもレプリカントだったと認めてしまうと、クライマックスの死闘も、ロイの名セリフも全く無意味なものになってしまう気がするのです。

ラストシーン、寿命を迎えたロイは自らの体験をデッカードに語りかけます。
俺はお前たち人間には信じられない光景を見てきた。
オリオン座の近くで炎を上げる戦闘艦。
暗黒に沈むタンホイザー・ゲートのそばで瞬くCビーム。
そんな記憶も時と共に消えてしまう。
雨の中の涙のように。
死ぬ時が来た。
余談ですがこの素晴らしいセリフは、ロイ役を完全に自分のものにしたルトガー・ハウアーによるアドリブだったそうです。

このセリフを受け取る相手は絶対に生身の人間であるべきです。
忌の際にこの言葉を聞かせた相手も自分と同じレプリカントだったなんて、それではロイがあまりにも哀れでなりません。
初期の2バージョンにおける「デッカードもまたレプリカントではないか?」という疑惑の発端は赤目でした。
『ブレードランナー』では人間とレプリカントを区別するための演出として、レプリカントは瞳の奥が赤く光るという描写が意図的に行われていましたが、実はデッカードにも1カットだけ赤目に見える画があったのです。

こちらがその問題のカットですが、デッカードはピンボケではっきりとは分かりません。
他にデッカードの目が赤く見えるカットは一切無いため、私は写真における「赤目現象」のようなもので単なる撮影ミスだと思っていました。
この画を理由に「デッカードもレプリカントだ!」と鬼の首を取ったように騒ぎ立てている連中を鼻で笑ったものですが、まさか後年になってオフィシャル公認の設定になってしまうとは思ってもいませんでした。
この点に関しては、初回バージョンのまま思わせぶりに匂わせておくに留めておいてもらいたかったですね。
具体的なユニコーンの映像挿入などという無粋な行為は、結果として観客が想像する楽しみを奪ってしまっただけのような気がします。
【リドリー・スコットの松本零士化現象】
再び『ブレードランナー』と『エイリアン』の関連性の話に戻ります。

この映画の冒頭、シネマスコープの画面いっぱいに2019年のL.A.を見下ろすロイ(?)の目が大写しになります。
(ちなみに、何故かこの目の瞳孔は赤くありません)
そして同じリドリー・スコット監督の最近作『エイリアン・コヴェナント』もまた、同じようなデヴィッドの目のアップから始まっていました。
『エイリアン・コヴェナント』を観たときにはコヴェナント号クルーの馬鹿さ加減と必要以上の残酷描写に気を取られて気に留めていませんでしたが、あの「目」のショットの共通性を改めて考えると、なんだかリドリー・スコット監督が人造人間(アンドロイドorレプリカント)という共通の要素を介して『エイリアン』と『ブレードランナー』の世界を統合しようと目論んでいるように思えてなりません。
レプリカントを作った2019年のタイレル社の技術は、2089年ウェイランド社に受け継がれてデビッドやアッシュやビショップなどのアンドロイドの土台となった・・・とか?。
それじゃあ、まるで・・・まるで・・・。

『銀河鉄道999』も『キャプテン・ハーロック』も同じ一つの世界の話だと言って合体させた松本零士先生みたいじゃありませんか。
しかも『宇宙戦艦ヤマト』も同じ世界に組み込もうと「『ヤマト』の著作権は我にあり」と裁判まで起こしたあの醜聞まで思い出してしまいます(笑)。
あるいは「『バイオレンス・ジャック』は実は『デビルマン』の後日談でした。」と明かした永井豪先生のようでもあります。
しかし『エイリアン』の創造者は脚本を書いたダン・オバノンであり、スコットは雇われ監督に過ぎませんでした。
『ブレードランナー』も(内容はすっかり変えられていますが)フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が原作であり、その映画化権はプロデューサーのハンプトン・ファンチャー氏(『2049』の原案・脚本も担当)が持っています。
いくら売れっ子監督のリドリー・スコットとはいえ、著作者や権利者をないがしろにしてまで作品を私物化することはないはずです。
・・・多分。
【そして『ブレードランナー2049』へ】

前作を途中で干されたプロデューサー:ハンプトン・ファンチャー氏の原案・脚本・・・。
この作品世界を私物化しようとするリドリー・スコット製作総指揮・・・。
あああ、期待と不安、共に我にあり!。
私としては『ブレードランナー』の続編というよりも、あくまでも『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品として観に行くことにしております(笑)。
出来れば大阪まで足を延ばしてIMAX 3Dで堪能したいところですが、現状ではとてもそんな時間は取れそうにないのが残念です。
最期までお付き合いいただきありがとうございました。
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