週刊映画鑑賞記(2018.3/19~2018.3/25)
CATEGORY週刊映画鑑賞記
トガジンです。
毎週日曜日はこの一週間に観た映像作品について徒然なるまま書き留めております。
今週前半はず~っと「京都みなみ会館オールナイト」の余韻に浸り続けておりました。
あの感激をブログに書き綴ることに自由時間の全てを費やし、他の参加者の皆さんのブログやツイッターを片っ端から探して読み漁る毎日でした。
昨夜(土曜)も「ああ、先週のちょうど今(11時)頃はみなみ会館の一階に集まって木原さんの説明を聞いていたんだったなあ・・・」ともの思いに耽ってしまい、ついつい樋口監督にサインを頂いた時間(1時半頃)まで夜更かししてしまったものです。
これがいわゆる「祭りの後」状態というやつなのでしょうな。
この余韻が消えてしまいそうな気がして、今週はあえて特撮ものを観ないよう努めておりました。
チョイスしたのはこの名作です。
3/21(水)
『サウンド・オブ・ミュージック』
(ホームシアター:WOWOW録画)

実在したトラップ・ファミリー合唱団をモデルに描いたミュージカル大作。
随分前にWOWOWで録画したものですが、3時間もの長尺のためなかなか観る機会が無かった作品です。
前に見たのは「午前十時の映画祭」の時だったと思いますので、6~7年ぶりの再見ということになります。
私としてはかなり珍しい選択ですが、特撮オールナイトの余韻に負けない作品となるとこれくらいの振り幅が必要なのであります(笑)。

子供の頃、私は音楽の授業が苦手でした。
元はどんなに素敵な歌だったにしても、学校唱歌になった途端どうしてああも味気ないものになり下がってしまうのか。
それはこの映画の挿入歌「ドレミの歌」や「エーデルワイス」も例外ではありません。
しかし、授業で歌わされてた時はあんなに嫌で仕方が無かった曲たちも、こうしてオリジナルの映画の中で聴くそれらは全くの別物です。
父親に抑圧されてきた子供たちの心が徐々に解放されていくのが手に取るように伝わってきます。
「ドレミの歌」なんて、あの能天気なほど幸せに満ちた歌を聴いていて何故だかポロポロと涙が溢れてきて困りました。
(これには私自身が持っていた父への蟠りも影響しているのだろうと思いますが・・・)

この映画の中の「歌」は、まるで人が楽しい時に無意識に口ずさむ鼻歌のように自然です。
その一体感が気持ち良く、凡百のミュージカル映画に感じるようなドラマとミュージカルシーンの違和感もありません。

昔は「後半のナチスに追われるくだりって必要?」と思っていました。
しかし実在の家族をモデルにして作られた作品ということで、ナチスから逃れてスイスに亡命するまでを描かなければ時代的に話が帰結しなかったと思います。
今回「脱出」をキーワードにして見てみると、父親の拘束からの子供たちの脱出、父親自身とマリアの精神的開放を経てファシズムからの脱出と話が繋がっていることが分かります。
もしもこの映画が物分かりの良い家族内の歌謡ショーでしかなかったら、心に何も残らない凡百のミュージカル映画の一つに終わっていたはずです。
余談ですが、実在のトラップ氏はあんな厳格な人物ではなくもっと音楽好きで温厚な人だったそうです。
マリアさん(本人)はあの性格設定変更に猛抗議したそうですが、ロバート・ワイズ監督はトラップ氏を強い反ナチ思想の持ち主として描くことで終盤の国外亡命シーンに説得力を持たせようとしたのでしょう。

ところでこの映画、意外なことに故国オーストリアではあまり好く思われていなかったのだそうです。
ごく数年前まではオーストリア国内で上映されたことが無く、国民の大半がこの映画の存在すら知らなかったといいます。
第二次大戦末期、ナチスの併合政策に反対して他国へ亡命した家族の物語など、その後国に残ってつらい思いをしたオーストリア国民にとっては不愉快なものでしかなかったのでしょうか?。
あるいはドイツ併合に断固反対を貫いたトラップ一家を見ていると、ナチスに迎合した自分たちが恥ずかしくなるためかも知れません。
いずれにせよ、今も『サウンド・オブ・ミュージック』に感動して海外旅行先にオーストリアを選ぶ人は多いはずです。
トラップ一家が故国にもたらした経済効果は相当なものだったと思うのですがね。
3/22(木)
『ブレードランナー2049』
(ホームシアター:レンタルBlu-ray)

ゲオのネットレンタルでこの作品が届きました。
公開当時、劇場で字幕版と吹替版を一回づつ観ていますが、もうあと一回観に行くには160分という長尺がネックになっていた作品です。
過去二度の鑑賞では終盤のストーリー展開に若干の強制感とグダグダを感じ取っていたのですが今回もその点は同じでした。
特に(この映画最大の魅力である)ジョイが退場してからというもの、ビジュアルにもストーリーにも今一つのめり込めなくなってしまいます。
終盤のデッカードとの話に繋ぐためか、上司の行動や言動が序盤のそれとはかなり食い違ってみえるのです。
で、今回自宅でじっくり見直してみてふと思い浮かんだことがありました。
「これ、デッカードいらんやろ?」

このお話、デッカード(演:ハリソン・フォード)が行方不明のまま(あるいは既に死んでいる)という設定でも全く差支えがありません。
要はデッカードとレイチェルの忘れ形見(アナ・ステリン)がいれば良いのではないでしょうか。
そしてK(演:ライアン・ゴズリング)が自分のアイデンティティーを追い求める物語に集約することで、この映画はより傑作になったのではないかとも思います。
しかし、プロデューサー・サイドにしてみれば客寄せ要素としてハリソン・フォードの名前はどうしても欲しいところでしょう。
私たち前作ファンもそれを望んでいたのは確かです。
でも、この展開ではやはり『2049』の主人公であるKがあまりにも哀れすぎるのです。
心の拠り所だったジョイを失い、もしかすると自分が特別なレプリカントかも知れないという淡い希望も打ち砕かれ、結局はレプリカントの子供(アナ)の存在をカモフラージュするためだけの存在だったK。
せめて前作のデッカードとレイチェルのように、Kとアナの物語であって欲しかったと思うのです。

変な例えかも知れませんが、Kを見ているうち『機動戦士Zガンダム』のカミーユ・ビダンを思い出してしまいました。
前作の主人公アムロ・レイが登場した途端、視聴者の視界から弾き出されて最後は精神崩壊してしまったあの繊細な少年を。
こんなことを考えてしまうのは、おそらく私が序盤でKに感情移入し過ぎてしまったせいなのでしょう。
そして、それはおそらく常に彼に寄り添っていたジョイの魅力によるものでもあったと思うのです。
(だからデッカードと入れ替わるようなタイミングでジョイを消滅させたのか・・・?)
3/24(土)
『ドラえもん のび太の海底奇岩城』
(ホームシアター:WOWOW録画)

私はこの『海底奇岩城』と次の『魔界大冒険』の2本が映画『ドラえもん』の最高峰だと思っております。
そして今回観返してその思いを確固たるものとしたのであります。
・・・と、いい歳したおっさんが熱く語ることでもないですが、この作品がシリーズ屈指の傑作であることは間違いありません。

大学一回生の秋にTVで放映されたものを観たのが最初でしたがとにかく圧倒されました。
海底探検というシチュエーションをこれほど楽しく、同時に死の危険も隣り合わせにして描いたSF映画って他には無いと思うのです。
普通海中では人間は分厚い潜水服を着ることになりますから、沈没船や海底生物など様々なマテリアルに直接手を触れたり地上と同じように会話する画には出来ません。
でもドラえもんのテキオー灯があれば、こんなおおらかで楽しく、でも効果が切れたら死あるのみという危険も隣り合わせのセンス・オブ・ワンダーが展開します。
これはまさしく、『ドラえもん』でなければ作れない世界です。

そして『海底鬼岩城』といえばバギーちゃん!。
バギーちゃんとは、海底探検用にドラえもんが出した五人乗りバギーのこと。
ドラえもんと同様A.I.が搭載されていて、気に入らないジャイアンやスネ夫にはキツく当たり優しいしずかちゃんにはデレデレするという実に人間臭いバギーです。
そして、今回私はまたもやバギーちゃんの勇気に涙してしまったのであります。
しずかちゃん絶体絶命の大ピンチ。
その時気を失ったドラえもんのポケットから「泣イテルノ?、シズカサン、泣カナイデ…。」と自ら飛び出し、敵の前に立ちふさがったバギーちゃんはまさしく”漢”そのものでありました。
映画を観ていて涙がこぼれることはよくありますが、人間じゃないキャラクターの行動に対してポロポロ泣いてしまったのはこのバギーちゃんと『アイアン・ジャイアント』と『ガメラ2』のガメラだけです。
3/25(日)
『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット』🈠
(ホームシアター:WOWOW録画)

ビデオシリーズ全話も含めて初回版の『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は一度見ていますが、ディレクターズカット版は今回が初めてです。
もっとも、その初回版もほとんど覚えていませんので何がどう違うのかは全然分かりません。
「押井守が本当に描きたかったパトレイバー」と言われても困ってしまいます。
今回観ながら気にしていたのは「アニメ監督による実写演出」という点です。
同じアニメ出身である庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を興行的にも作品的にも成功させたのに対し、これまで全ての押井監督実写作品はパッとしません。
そしてそれは、『パトレイバー 首都決戦』も例外ではありませんでした。
一週間前に『シン・ゴジラ』を楽しんだばかりの目で『首都決戦』を見ていると、庵野監督に比べて押井監督の画面支配力の弱さを感じます。
画面支配というのは、俳優・背景・大道具小道具から雨・風などの気象条件に至るまで、画面上に映るあらゆる要素を監督のイメージ通りに作ることを指すものです。
有名な黒澤明監督の「天気待ち」などもこれに含まれ「完全主義」と呼ばれることもあります。
庵野監督は全てのシーン・カットを登場人物の演技に至るまでプリヴィズ(動画による絵コンテ)で作り込み、現場の撮影では決められた時間内にその通りの動きと台詞を再現すること以外許さず、俳優にはいわゆる演技というものを一切させなかったといいます。
それは特撮映像の画作りにおいても同様で、樋口監督がどんなに面白いアイデアを出したとしてもプリヴィズ(庵野監督の構想)に合わないものは全て却下されてしまったそうです。

一方の押井監督は、世界観の構築についてはアニメと同じく細部まで設定を作り込みその表現や構図も絵コンテを描いて支配していますが、登場人物の性格付けや演技については俳優の生理を活かしてその相乗効果を楽しもうとしているようです。
しかしこの作品の場合、まるでアニメ演出のような演技付けが全てをぶち壊しにしています。
上映時間の問題とか予算がどうとかいう問題ではなく、作品の軸が揺らいでいて安普請ぶりも表面化してしまってる気がします。
『機動警察パトレイバー2』(オリジナル)や『イノセンス』などのアニメ作品に強く見られた押井監督の”我”が感じられません。
そもそも『パトレイバー2』のセルフ・リメイクでしかない今回の『首都決戦』ですが、かつて『パトレイバー』シリーズを一緒に作った伊藤氏や出渕氏らには一言も断りなく勝手にスタートさせた企画だったようです。
そこまでして作ったこの映画の出来具合を思うと、押井監督の迷走ぶりがかなり深刻なもののように思えてきます。
一体、何がしたいのか分かりません。

先日エキストラ情報を見ていたところ、押井監督の実写映画(学園ファンタジー)の募集が出ていました。
う~ん。
また『東京無国籍少女』みたいな映画でしょうかねえ。
個人的には、また押井監督のアニメ作品を観たいのですがね。
そういえば、押井監督が夢枕獏の『キマイラ』をアニメ化するという話を聞いたことがありましたが、あれってどうなってるんでしょうか?。
今週もお付き合いいただきありがとうございました。
毎週日曜日はこの一週間に観た映像作品について徒然なるまま書き留めております。
今週前半はず~っと「京都みなみ会館オールナイト」の余韻に浸り続けておりました。
あの感激をブログに書き綴ることに自由時間の全てを費やし、他の参加者の皆さんのブログやツイッターを片っ端から探して読み漁る毎日でした。
昨夜(土曜)も「ああ、先週のちょうど今(11時)頃はみなみ会館の一階に集まって木原さんの説明を聞いていたんだったなあ・・・」ともの思いに耽ってしまい、ついつい樋口監督にサインを頂いた時間(1時半頃)まで夜更かししてしまったものです。
これがいわゆる「祭りの後」状態というやつなのでしょうな。
この余韻が消えてしまいそうな気がして、今週はあえて特撮ものを観ないよう努めておりました。
チョイスしたのはこの名作です。
3/21(水)
『サウンド・オブ・ミュージック』
(ホームシアター:WOWOW録画)

実在したトラップ・ファミリー合唱団をモデルに描いたミュージカル大作。
随分前にWOWOWで録画したものですが、3時間もの長尺のためなかなか観る機会が無かった作品です。
前に見たのは「午前十時の映画祭」の時だったと思いますので、6~7年ぶりの再見ということになります。
私としてはかなり珍しい選択ですが、特撮オールナイトの余韻に負けない作品となるとこれくらいの振り幅が必要なのであります(笑)。

子供の頃、私は音楽の授業が苦手でした。
元はどんなに素敵な歌だったにしても、学校唱歌になった途端どうしてああも味気ないものになり下がってしまうのか。
それはこの映画の挿入歌「ドレミの歌」や「エーデルワイス」も例外ではありません。
しかし、授業で歌わされてた時はあんなに嫌で仕方が無かった曲たちも、こうしてオリジナルの映画の中で聴くそれらは全くの別物です。
父親に抑圧されてきた子供たちの心が徐々に解放されていくのが手に取るように伝わってきます。
「ドレミの歌」なんて、あの能天気なほど幸せに満ちた歌を聴いていて何故だかポロポロと涙が溢れてきて困りました。
(これには私自身が持っていた父への蟠りも影響しているのだろうと思いますが・・・)

この映画の中の「歌」は、まるで人が楽しい時に無意識に口ずさむ鼻歌のように自然です。
その一体感が気持ち良く、凡百のミュージカル映画に感じるようなドラマとミュージカルシーンの違和感もありません。

昔は「後半のナチスに追われるくだりって必要?」と思っていました。
しかし実在の家族をモデルにして作られた作品ということで、ナチスから逃れてスイスに亡命するまでを描かなければ時代的に話が帰結しなかったと思います。
今回「脱出」をキーワードにして見てみると、父親の拘束からの子供たちの脱出、父親自身とマリアの精神的開放を経てファシズムからの脱出と話が繋がっていることが分かります。
もしもこの映画が物分かりの良い家族内の歌謡ショーでしかなかったら、心に何も残らない凡百のミュージカル映画の一つに終わっていたはずです。
余談ですが、実在のトラップ氏はあんな厳格な人物ではなくもっと音楽好きで温厚な人だったそうです。
マリアさん(本人)はあの性格設定変更に猛抗議したそうですが、ロバート・ワイズ監督はトラップ氏を強い反ナチ思想の持ち主として描くことで終盤の国外亡命シーンに説得力を持たせようとしたのでしょう。

ところでこの映画、意外なことに故国オーストリアではあまり好く思われていなかったのだそうです。
ごく数年前まではオーストリア国内で上映されたことが無く、国民の大半がこの映画の存在すら知らなかったといいます。
第二次大戦末期、ナチスの併合政策に反対して他国へ亡命した家族の物語など、その後国に残ってつらい思いをしたオーストリア国民にとっては不愉快なものでしかなかったのでしょうか?。
あるいはドイツ併合に断固反対を貫いたトラップ一家を見ていると、ナチスに迎合した自分たちが恥ずかしくなるためかも知れません。
いずれにせよ、今も『サウンド・オブ・ミュージック』に感動して海外旅行先にオーストリアを選ぶ人は多いはずです。
トラップ一家が故国にもたらした経済効果は相当なものだったと思うのですがね。
3/22(木)
『ブレードランナー2049』
(ホームシアター:レンタルBlu-ray)

ゲオのネットレンタルでこの作品が届きました。
公開当時、劇場で字幕版と吹替版を一回づつ観ていますが、もうあと一回観に行くには160分という長尺がネックになっていた作品です。
過去二度の鑑賞では終盤のストーリー展開に若干の強制感とグダグダを感じ取っていたのですが今回もその点は同じでした。
特に(この映画最大の魅力である)ジョイが退場してからというもの、ビジュアルにもストーリーにも今一つのめり込めなくなってしまいます。
終盤のデッカードとの話に繋ぐためか、上司の行動や言動が序盤のそれとはかなり食い違ってみえるのです。
で、今回自宅でじっくり見直してみてふと思い浮かんだことがありました。
「これ、デッカードいらんやろ?」

このお話、デッカード(演:ハリソン・フォード)が行方不明のまま(あるいは既に死んでいる)という設定でも全く差支えがありません。
要はデッカードとレイチェルの忘れ形見(アナ・ステリン)がいれば良いのではないでしょうか。
そしてK(演:ライアン・ゴズリング)が自分のアイデンティティーを追い求める物語に集約することで、この映画はより傑作になったのではないかとも思います。
しかし、プロデューサー・サイドにしてみれば客寄せ要素としてハリソン・フォードの名前はどうしても欲しいところでしょう。
私たち前作ファンもそれを望んでいたのは確かです。
でも、この展開ではやはり『2049』の主人公であるKがあまりにも哀れすぎるのです。
心の拠り所だったジョイを失い、もしかすると自分が特別なレプリカントかも知れないという淡い希望も打ち砕かれ、結局はレプリカントの子供(アナ)の存在をカモフラージュするためだけの存在だったK。
せめて前作のデッカードとレイチェルのように、Kとアナの物語であって欲しかったと思うのです。

変な例えかも知れませんが、Kを見ているうち『機動戦士Zガンダム』のカミーユ・ビダンを思い出してしまいました。
前作の主人公アムロ・レイが登場した途端、視聴者の視界から弾き出されて最後は精神崩壊してしまったあの繊細な少年を。
こんなことを考えてしまうのは、おそらく私が序盤でKに感情移入し過ぎてしまったせいなのでしょう。
そして、それはおそらく常に彼に寄り添っていたジョイの魅力によるものでもあったと思うのです。
(だからデッカードと入れ替わるようなタイミングでジョイを消滅させたのか・・・?)
3/24(土)
『ドラえもん のび太の海底奇岩城』
(ホームシアター:WOWOW録画)

私はこの『海底奇岩城』と次の『魔界大冒険』の2本が映画『ドラえもん』の最高峰だと思っております。
そして今回観返してその思いを確固たるものとしたのであります。
・・・と、いい歳したおっさんが熱く語ることでもないですが、この作品がシリーズ屈指の傑作であることは間違いありません。

大学一回生の秋にTVで放映されたものを観たのが最初でしたがとにかく圧倒されました。
海底探検というシチュエーションをこれほど楽しく、同時に死の危険も隣り合わせにして描いたSF映画って他には無いと思うのです。
普通海中では人間は分厚い潜水服を着ることになりますから、沈没船や海底生物など様々なマテリアルに直接手を触れたり地上と同じように会話する画には出来ません。
でもドラえもんのテキオー灯があれば、こんなおおらかで楽しく、でも効果が切れたら死あるのみという危険も隣り合わせのセンス・オブ・ワンダーが展開します。
これはまさしく、『ドラえもん』でなければ作れない世界です。

そして『海底鬼岩城』といえばバギーちゃん!。
バギーちゃんとは、海底探検用にドラえもんが出した五人乗りバギーのこと。
ドラえもんと同様A.I.が搭載されていて、気に入らないジャイアンやスネ夫にはキツく当たり優しいしずかちゃんにはデレデレするという実に人間臭いバギーです。
そして、今回私はまたもやバギーちゃんの勇気に涙してしまったのであります。
しずかちゃん絶体絶命の大ピンチ。
その時気を失ったドラえもんのポケットから「泣イテルノ?、シズカサン、泣カナイデ…。」と自ら飛び出し、敵の前に立ちふさがったバギーちゃんはまさしく”漢”そのものでありました。
映画を観ていて涙がこぼれることはよくありますが、人間じゃないキャラクターの行動に対してポロポロ泣いてしまったのはこのバギーちゃんと『アイアン・ジャイアント』と『ガメラ2』のガメラだけです。
3/25(日)
『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 ディレクターズカット』🈠
(ホームシアター:WOWOW録画)

ビデオシリーズ全話も含めて初回版の『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』は一度見ていますが、ディレクターズカット版は今回が初めてです。
もっとも、その初回版もほとんど覚えていませんので何がどう違うのかは全然分かりません。
「押井守が本当に描きたかったパトレイバー」と言われても困ってしまいます。
今回観ながら気にしていたのは「アニメ監督による実写演出」という点です。
同じアニメ出身である庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を興行的にも作品的にも成功させたのに対し、これまで全ての押井監督実写作品はパッとしません。
そしてそれは、『パトレイバー 首都決戦』も例外ではありませんでした。
一週間前に『シン・ゴジラ』を楽しんだばかりの目で『首都決戦』を見ていると、庵野監督に比べて押井監督の画面支配力の弱さを感じます。
画面支配というのは、俳優・背景・大道具小道具から雨・風などの気象条件に至るまで、画面上に映るあらゆる要素を監督のイメージ通りに作ることを指すものです。
有名な黒澤明監督の「天気待ち」などもこれに含まれ「完全主義」と呼ばれることもあります。
庵野監督は全てのシーン・カットを登場人物の演技に至るまでプリヴィズ(動画による絵コンテ)で作り込み、現場の撮影では決められた時間内にその通りの動きと台詞を再現すること以外許さず、俳優にはいわゆる演技というものを一切させなかったといいます。
それは特撮映像の画作りにおいても同様で、樋口監督がどんなに面白いアイデアを出したとしてもプリヴィズ(庵野監督の構想)に合わないものは全て却下されてしまったそうです。

一方の押井監督は、世界観の構築についてはアニメと同じく細部まで設定を作り込みその表現や構図も絵コンテを描いて支配していますが、登場人物の性格付けや演技については俳優の生理を活かしてその相乗効果を楽しもうとしているようです。
しかしこの作品の場合、まるでアニメ演出のような演技付けが全てをぶち壊しにしています。
上映時間の問題とか予算がどうとかいう問題ではなく、作品の軸が揺らいでいて安普請ぶりも表面化してしまってる気がします。
『機動警察パトレイバー2』(オリジナル)や『イノセンス』などのアニメ作品に強く見られた押井監督の”我”が感じられません。
そもそも『パトレイバー2』のセルフ・リメイクでしかない今回の『首都決戦』ですが、かつて『パトレイバー』シリーズを一緒に作った伊藤氏や出渕氏らには一言も断りなく勝手にスタートさせた企画だったようです。
そこまでして作ったこの映画の出来具合を思うと、押井監督の迷走ぶりがかなり深刻なもののように思えてきます。
一体、何がしたいのか分かりません。

先日エキストラ情報を見ていたところ、押井監督の実写映画(学園ファンタジー)の募集が出ていました。
う~ん。
また『東京無国籍少女』みたいな映画でしょうかねえ。
個人的には、また押井監督のアニメ作品を観たいのですがね。
そういえば、押井監督が夢枕獏の『キマイラ』をアニメ化するという話を聞いたことがありましたが、あれってどうなってるんでしょうか?。
今週もお付き合いいただきありがとうございました。
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