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映画と日常

『シン・ゴジラ』は、ある一点において初代『ゴジラ』を超えている!

トガジンです。

今更ではありますが、『シン・ゴジラ』について語ります。
ポスター
ただでさえ大好きなシリーズであり、東京までエキストラ参加しに行ったほどの作品です。
公開日を指折り数えて心待ちにし、初日はわざわざ大阪エキスポシティまでIMAX版を観に行きました。
これまで合計12回劇場で観ていますがまだまだ見飽きることはありません。

思い入れが強くてなかなか客観的な評価が出せないでいましたが、そろそろ自分なりの言葉にしないといけないですね。
今日と明日の2回にわたって想いをぶつけます。


人間対ゴジラ

シン・ゴジラ』は、怪獣映画のカテゴリのみならず国内SF映画の最上位に位置する作品と思います。
そして反感を恐れずに言うなら、昭和29年の初代『ゴジラ』をも超えたと思っています。

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キングコング(『キングコング対ゴジラ』より)
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スーパーX(『ゴジラ(1984年版)』より)
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メカ・キングギドラ(『ゴジラvsキングギドラ』より)

実はゴジラ映画のほとんどに、敵対する他の怪獣や都合良く開発される超兵器、人智を超えた存在(異星人やオーバーテクノロジー)が登場しています。
それは昭和29年の初代『ゴジラ』においても例外ではありません。

G54.jpg
兵器として利用されれば、核をも超える大量殺戮兵器になるというオキシジェンデストロイヤー。
発明者である芹沢博士は苦悩し、ゴジラ対策のために使わせて欲しいという頼みを頑なに拒む。
しかし、被災者の惨状を目の当たりにして、人間としての良心に従い一度限りの使用を許諾する。
それはゴジラを抹殺すると同時に、自らの命と引き換えにオキシジェンデストロイヤーをも封印することを意味した。

核の恐怖を具現化したゴジラを封じるために、核をも超える兵器を使わざるを得ないという人類のジレンマを描き出した素晴らしいストーリーです。

しかし・・・。
オキシジェンデストロイヤーは、映画『ゴジラ』においてゴジラという唯一であるべきフィクションに対してあてがわれた第2のフィクション(方便)なのです。

以下、作劇上のセオリーの話になります。

「映画とは見てきたような嘘を語るもの」です。
それを信じ込んで楽しんでもらうためには「その根幹となる嘘以外のリアリティを徹底する」必要があります。
「嘘を誤魔化す」「嘘をより面白くする」ためにさらに嘘を重ねるような安易な作劇は避けるべきです。

ゴジラ対自衛隊_巨生対

ゴジラの存在という唯一無二のフィクション(虚構)をリアルに見せるために、余計な第2第3のフィクション(方便)を一切排除して描ききった点において、『シン・ゴジラ』は初代を超えたと言ってよいと思います。
国防を成すべき人間たちが現在持ち得る戦力を駆使し、それぞれの立場で知力を振り絞って戦いようやく厄災(ゴジラ)を封じることに成功するというとても力強い物語になっています。

ゴジラポスター
それでも、最初の『ゴジラ』が歴史的傑作であることに変わりはありません。
オキシジェンデストロイヤーがある意味「物語終結のための道具」であっても、主役のゴジラと対になるほどの存在感を持って描かれていますので「ご都合主義」に見えることはありません。
あの戦争や第五福竜丸事件を肌身で知る制作者たちの強い想いが、作品全体に比類ないリアリティをもたらしているのです。

先駆者たる当時の制作スタッフの創意工夫や、真摯な演技でそれを支えた出演者への敬意は微塵も揺らぐことはありません。


牧吾郎元教授の謎

牧吾郎がゴジラの東京上陸に関与しているのは確かなようですが、どうやって日本に誘導したのかは全く描かれていません。
明らかに意図的に隠蔽されています。

牧は、アメリカに雇われて放射性物質を食う謎の海生生物の調査を行っていた。
呉爾羅(ゴジラ)と名付けたそれと研究データの一部を持ち出し7日前に日本へ入国。
牧の所有するトレジャーボートが東京湾で無人の状態で発見される。
後の調査によると、最愛の妻が病気で死んだ時に助けてくれなかった日本政府と病気の元になった放射能を憎んでいたらしい。

分かっているのはこれだけです。
亡くなった奥さんの話も、ジャーナリストの調査レポートを読み上げるだけで具体的な映像描写はありませんでした。

こうなると脳内補完をするしかありません。
色々考えましたが、私は次のようなものではないかと思っています。

牧はゴジラの遺伝子情報を掌握していたことから、そのDNAを操作してゴジラの行動をプログラムしたのではないか?。
それは、かつての東京大空襲時のB29のコースをただ繰り返し歩かせるというもの。
行動する上で必要があれば進化・形態変化もして対応できるようにする。
そして邪魔をするものがあれば徹底的に攻撃排除する。

つまり、『機動警察パトレイバー劇場版1』の帆場暎一の行動と同じようなものですね。
放射能をまき散らすゴジラが、自衛隊の攻撃にビクともせず東京をねり歩く姿を見れば日本政府も思い知るだろう、と。

この考えにいきついたのには2つ理由があります。
一つ目は、「ゴジラは決まったコースをただ歩いているだけ」という謎の答えになると思うからです。

そして二つ目の理由は、「この設定が納得のいく理屈で説明できなければ荒唐無稽な方便にすぎないもの」だからです。

謎を明かさないのはリアリティのため?

監督が牧教授のとった行動を具体的に描かない理由を逆説的に考えてみます。

前述のように、映画のリアリティを高めるにはフィクション(虚構)は一つに絞って、その周辺のリアクション描写を徹底的に追い込んでいくことが必要だと思います。

この設定を、巨生対の生物学者(演:塚本晋也)がポンッと手を叩いて「そうか、プログラムしたんだ」とでも言えばよいのでしょうが、仮説を語るくらいが精一杯で実証する描写までは難しい気がします。
巨生対による動物実験シーンでもあれば良いのでしょうが、あれほどの早口で2時間に収めた映画ですからそんな尺はないでしょう。
また、迂闊な表現をしてしまうと、ゴジラがプログラミングされたロボットみたいな矮小なものに見えてしまう危険もあります。

・・・それならば。
いっそ、この部分は明確にせず観客のご想像にお任せしてしまうというのも一つの手です。

腑に落ちない設定があるより、よっぽど映画のリアリティは保持できます。
それでいて、明かされない謎があることで様々な解釈が可能になり映画に深みが出来ます。
いいことだらけです。

以上が、私が考えた牧吾郎元教授の謎に関する考察(妄想?)であります。

現実とのシンクロ
被災地

この映画で私が一番印象に残ったのは、矢口が被災地に向かって手を合わせるシーンです。
そして、その少し前には第2形態のゴジラによって蹂躙される一般市民の描写があります。

津波から必死に逃げる男性。
マンションで逃げ遅れた小さな子供もいる家族。
瓦礫の間から除く人間の足。
直接的描写こそありませんが、彼らが助かったとは到底思えません。

これまでの怪獣映画・災害映画で、被害を受ける市民の描写はあっても、それに哀悼の意を捧げる主人公の姿というのはあまり記憶にありません。
強いて言うなら初代『ゴジラ』終盤の鎮魂歌のシーンか、『日本沈没』(1972年版)くらいでしょうか。

この場面があるだけで、私は『シン・ゴジラ』を傑作と呼ぶことをためらいません。


瓦礫の下のご遺体・・・。
1995年1月、私はあれを現実に見たことがあります。
阪神淡路大震災です。

当時、私は大阪でテレビカメラマンをしていました。
震災発生後はレギュラーの仕事はストップして、約2ヶ月間神戸や淡路島での報道取材に明け暮れました。
最初の3週間ほどは大阪との往来もままならず、水も食料も限られた中での生活でした。

瓦礫の山の間を行くと、あちこちで残骸を掘り起こす人の姿があります。
あの下にはまだ人が埋まっているはずなのです。
仕事ですからカメラを向けると、「何撮ってんねん!、そんなヒマあったら手伝わんかい!」と罵倒される毎日でした。
毎日現場に手を合わせてから仕事を始めた神戸での日々を思い出しました。

シン・ゴジラ』で描かれた惨状が東日本大震災とそれに伴う福島原発事故のメタファーであることは間違いないでしょう。
早口でやたらにテンポが速く、ゴジラが史上最恐とされる『シン・ゴジラ』ですが、実は「犠牲者を悼む心」をちゃんと持っている作品だということを一ファンとして申し上げておきます。


お付き合いいただきありがとうございました。
明日は、アマチュア映画経験者としての視点から『シン・ゴジラ』を語らせていただきます。


ところで、昨日11月3日はゴジラの誕生日でしたね。
昭和29年に第一作目の『ゴジラ』が公開された日です。
本当は昨日これをアップしたかったのですが、
力及ばず間に合いませんでした。
残念!
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