母校
先週の記事にも書いたのですが、去る17日(日曜日)は昔お世話になった先輩の手伝いのために大阪に行っておりました。
前日は京都で用事(エキストラ出演)があったため宿泊したものの、仕事は午後からということで午前中スケジュールがガラ空きです。
そこで、この空いた時間を利用して私にとって最も思い出深い場所を訪ねてみることにしました。

その場所とは、我が母校:大阪芸術大学。
卒業から30数年ぶりの訪問です。
しかし、れっきとしたOBとはいえ今はただの部外者です。
勝手に構内に入り込むのはマズいと思い、警備員さんに声をかけてみました。
「すみません、ここのOBの者なんですが久し振りにこっちに来たので中を見たいんですけど何か手続きが必要ですか?。」
すると白髪の気のいい感じの警備員さんは
「ああ、今日は卒業制作展やってるから自由に入っていいですよ。」
と笑顔で通してくれました。
なんだか母校が温かく迎えてくれたように思えて嬉しかったです(笑)。
警備のおじさん、ありがとう!。

在学時代、毎日のように上り下りした芸大坂(きっと今もそう呼び継がれていると思います)。
この坂の両脇にずらりと並んでいるのは桜の木です。
30数年前の4月初旬、私たちは桜吹雪の舞うこの坂を通り抜けて登校したのでした。
あの桜、もう一度見たいなあ・・・。

坂を上りきると右手に懐かしい校舎が見えてきました。
画面右側の情報センターと呼ばれる大きな建物には図書館が入っています。
当時('80年代初頭)としては映画のビデオライブラリが結構充実していて、よくビデオブースに籠って『七人の侍』や『裸の島』などといった古い日本映画を見まくったものです。
ただし日本ではまだビデオ未発売のものばかりだったため、そのほとんどは英語字幕付きの逆輸入ビデオでした。
「卒業制作展」の垂れ幕が掛かった正面の建物(11号館)には事務局が入っていて学校掲示板もこの中にありました。
売店や第一学食(一食)もこの建物内です。

向かって左側に目を向けるとそこには全く見覚えのない新しい建物が鎮座しておりました。
平べったいSF映画風の建物は昨年秋に完成したばかりの新校舎だそうです。
奥の格子状の建物も私たちの時代にはありませんでした。
私たちの頃はこの場所には・・・・あれ?、何があったっけ?。
思い出せないなあ(寂)。

11号館の横にはオシャレな感じのキャンパス案内板がありました。

私が在籍した「映像学科」も健在です。
お察しのことと思いますが、本ブログのタイトル「映像学科22番」はこれを由来としております。
私にとって青春時代そのものであると同時に、今の私を(人格・仕事の両面で)形作ってくれた場所でもあるからです。
(入学や卒業の年については学校関係者や同窓生なら私を個人特定出来てしまうことになるため伏せさせていただきます)
ちなみに私が入学した時は「映像計画学科」という名前でしたが在学中に名前が変わりました。
「映像計画」というとなんだか偽物っぽい印象があったのでこの名称変更はかなり嬉しかったです。

入学当時の映像学科長は『雨月物語』や『山椒大夫』などの脚本家:依田義賢先生です。
初授業の開口一番「『スター・ウォーズ』のヨーダのモデルは私です」と言い放ち、十代の映画少年の心をがっちり鷲掴みしてしまいました。
「依田(よだ)先生がヨーダのモデル」説はジョージ・ルーカスが否定したこともあったりして真偽のほどは定かではありませんが、私たち映像学科卒業生は今でも「俺たちの学科長はジェダイ・マスターや」と自慢しまくっております(笑)。

当時、どちらかといえば撮影に興味があった私にとって、絶対に忘れられない先生がいらっしゃいます。
『雨月物語』『羅生門』『用心棒』などを手掛けた名キャメラマン:宮川一夫先生です。
(映画ではカメラではなくキャメラであり、カメラマンではなくキャメラマンなのです)
宮川先生は私たち生徒の何人かを自宅に招いてくれて、自分が関わった名作の話をたくさん聞かせてくださいました。
しかも先生は編集で切り捨てた『羅生門』などのフィルムの端部分を大事に保管していて、それを見せながら当時の撮影の工夫や苦労話を聞かせてくれたのです。
今で言えばDVDやブルーレイのオーディオ・コメンタリーのようなものです。
ご本人が直接目の前で本物のフィルムを指差しながら語ってくれる撮影裏話に、当時黒澤映画の魅力に目覚めたばかりの私はどれほど目を輝かせて聞き入ったことか・・・。

『大魔神』『大魔神怒る』の撮影を担当されたキャメラマン:森田富士郎先生の授業も忘れられません。
美術の内藤誠先生とコンビでセットの手前のオブジェは通常サイズで作り、遠くの造形物は小さく作って特定のカメラアングルで撮影することで奥に配置した人間大の怪獣が手前の人物より巨大に見せるパースペクティブ・セットが凄かったです
『大魔神』でも一部使われたというこの技法は、2001年公開の『ロード・オブ・ザ・リング』でもガンダルフとフロドの身長差を合成を用いず撮影したことで再注目されました。
また、森田先生は当時担当しておられた『極道の妻たち』の撮影現場の見学に招待してくれたことがあって、私はその時初めて本物の映画撮影の現場を目の当たりにしました。
森田先生のプロフェッショナルな姿もさることながら、五社英雄監督の迫力というか威圧感が半端なかったです。
(もっとも、私はヤクザ映画は生理的に大嫌いなので今だに『極道の妻たち』は見ていないのですが・・・)

今はもっと多くの選択肢があるのでしょうが、当時「映画」を学べる4年制大学といえば、東京の日本大学芸術学部映画学科(以下、日芸)とこの大阪芸術大学映像(計画)学科の二校だけでした
ここに落ちたらあとはもう2年制の専門学校くらいしかありません。
そのため入試倍率は(私が聞いた限りでは)30倍以上あったと聞き及んでおります。
もちろん、映画を志す者の一人として私も日芸映画科を目指していましたがそちらはあえなく不合格。
背水の陣で受験したこちらの映像(計画)学科になんとか合格する事が出来ました。
なんとか4年制の大学に入れてホッとしたものの、最初の半年ほどは「日大芸術学部に落ちた奴が行く学校」というコンプレックスがあったことを白状しておきます。
もちろん、2回生になった頃にはそんなことは微塵も思わなくなりましたがね(笑)。

そんな稀有な学校でしたから、学生は日本全国廿浦浦から集まってきます。
大阪芸大はまさに日本各地の方言と歴史感が入り混じるカオス空間でありました。
いつもかなり無理して標準語で喋ろうとしている青森出身の奴がいました。
見かねて「地元の言葉でしゃべれば?」と言ったことがありましたが、「多分君らには分からないと思う」と、彼は頑なに地元の方言を隠し続けていました。
結局、私が彼の津軽弁を聞いたのは卒業制作打ち上げの飲み会の時一度きりでした。
広島から来ていた奴と大ゲンカしたこともありました。
私が提案した怪獣映画の企画で福井の原発が襲われる話を書いたのですが、近親者に原爆で被害を受けた人がいるという彼は「怪獣映画は原子力とか放射能を話のネタとしてしか考えていない!」と怒り出したのです。
そのうえ私と私の故郷を「お前ら(福井県人)みたいに原発誘致で旨い汁を吸っている奴には被爆者の気持ちなんて分からんのや。」とまで罵られたため、普段温厚な私も思わず激昂して殴ってしまいました。
その後、彼は当時の福井県が原発を受け入れることになった経緯などを調べたうえで謝ってくれて、結局卒業まで一緒に行動する仲間の一人になりました。
また、夏休みに『転校生』や『さびしんぼう』の舞台である広島県尾道市へロケ地巡りに行った時、彼の実家に泊めてもらったことも思い出の一つです。
こうして当時と変わらない母校のキャンパスを眺めていると、そんな同級生たちのことが次々と思い出されてきます。
この大学での4年間が今の私の人格形成に大きな影響をもたらしたことは間違いありません。

メインストリートの右側に建ち並ぶのは音楽学部の建物です。
本来は全くと言っていいほど縁の無いエリアですが、実はこの池にだけは強烈な思い出が残っています。
一回生の時、私は先輩が作る自主制作映画に主人公の弟役で出演することになりました。
といっても登場してすぐに殺されてしまう役で、出演時間の半分以上は死体役でしたが(笑)。
主人公(兄)は弟の復讐のために闇組織かなにかと戦うといったストーリーだったと思います。
ここでの撮影内容は、私が死体となってこの池に浮かんでいるところを通りがかりの女性に発見されるシーンでした。
で、その撮影がなんと11月下旬!。
しかも「最初は死体が誰だか分からないようにしたい」という監督(先輩)の演出のために、私は「OK」が出るまで息を止めてうつ伏せで浮かび続けることになりました。
さらに、発見者役の女の子の演技がヘタクソすぎて結局5時間近くもずぶ濡れ状態のまま過ごす羽目になってしまったのです。
おかげで私はひどい風邪をひいてしまい、3日ほど休んで自分たちのチームの課題制作に迷惑をかけてしまいました。
その後、先輩は卒業間際に「あの時は本当にすまなかった。ありがとう。」と言って自分が使っていたカメラを譲ってくれました。
当時はまだ自分のカメラを持っていなかったので本当に嬉しかったです。
でも、さすがにタダで貰うのは悪いと思い「いくらか払います」と言ったのですが、「俺も先輩から貰ったもらったものやから金はいらん。お前もいい後輩がいたらそいつに譲ってやれ。」とタダで譲ってくれました。

先輩が譲ってくれたカメラはキヤノン 814XL-S。
ちゃんと秒間24コマ撮影が出来る上位機種で15万円くらいのものです。
また、コマ撮りも出来たのでアニメーション制作やタイムラプス撮影もよくやりました。
そして先輩に言われた通り、私もカメラや他の機材を親しい後輩に譲って卒業したのですが、その後すぐ8ミリフィルムそのものが衰退してしまったため映像制作はビデオに移行したそうです。
後輩に譲ったあのカメラがその後どうなったのか、今はもう分かりません・・・。
この池を眺めながら思い出に浸っているうち、あの水の冷たさを思い出してブルッと身震いしてしまいました(笑)。
時間が限られているので先を急ぎます。

メインストリートを奥に進むと、右手に放送学科の建物が見えてきます。
実は私は映像計画学科と放送学科を同時に受験していたのです。
放送科には落ちて映像(計画)学科に入ったわけですが、ここには受験の時に知り合った友達が何人かいて時々声を掛け合ったり音声機材を使わせてもらったりしてました。
また、私は2回生の秋ごろからテレビ局関係のアルバイトをやり始めてそれが現在の職業に繋がっているわけですが、そのバイトに誘ってくれたのは受験の時に知り合ったこの放送学科の友達でした。

そしてその先にあるのが、我が思い出の映像学科です。
看板はゴジラ!。
さすがは現・学科長に『ゴジラvsビオランテ』の大森一樹監督を頂き、『シン・ゴジラ』の庵野秀明監督を輩出した我が大阪芸術大学映像学科であります。
と、声高に自慢したいところですが・・・
後輩たちよ。
この看板の絵、もうちょっとなんとかならんのか?。

こちらが私が4年間通った映像学科の建物。
中が吹き抜けになっていることから、私たちは「映像塔」と呼んでいました。
この建物に幽霊が出る話とか、一階づつ戦いながら最上階を目指すという『死亡遊戯』みたいな映画を作って遊んだものです。

ちょっと遠回りしましたが、映像学科の卒業制作作品上映会場にたどり着きました。
会場には「映画館」とありますが、これは私たちの頃には無かったですね。
私たちの卒業制作作品上映は放送学科の建物の大きな講義室を借りて行ったと記憶していますが、今はこうして専用の上映施設が出来たのですね。
ちなみに、(今回は見られませんでしたが)現在の映像学科には上映室だけでなく撮影スタジオまであるそうで、30ウン年前の卒業生としては嬉しいやら妬ましいやら・・・。

せっかくなので後輩たちの作品を1つか2つ見て帰ろうと思って予定表を見たところ・・・。
が~ん。
ちょうど午前中の上映作品が終わる時間でした。
しかもこのあと昼休憩を挟んで再開は12時50分・・・。
それは午後からの仕事のためこの場所を離れなければならない時間です。
残念!。
せっかく母校の卒業制作展に巡り合えたというのに、後輩たちの作品を一本も見られないとは・・・・。

ホワイトボードの前で茫然としている私に学生さんが「よかったらこれをどうぞ。是非見に来て下さい。」とパンフレットを手渡してくれました。

開いてみると作品一つ一つがカラーの場面写真入りで紹介されています。
私たちの時は(なんかこればっか・・・)タイトルとスタッフ・キャストと簡単なあらすじを印刷した白黒の冊子しかありませんでしたからこれには内心驚きました。
しかし、映画というものは「作って終わり」というものではありません。
こうして一般の人にも興味を持ってもらって「観客になってもらう」ことも重要なのです。
現在映画について学ぶ若者たちはそうした「興行」についても体験学習しているのですね。

懐かしい映像学科の奥には全く新しい大阪芸大キャンパスが広がっていました。
ここは30数年前はグラウンドだった場所です。
ただ、私の知らないキャンパスを見て回ろうとは思いません。
タイムリミットも近づいてきましたので、去り際に母校の学食で昼飯を食べることにしました。

とりあえず学食のある11号館内部へ。
中央通路には昔と少しも変わらない売店が営業しておりました。
私たちの頃の映像(計画)学科は8ミリフィルムで作品制作していたため、この売店の一角にあったカメラ屋さんでフィルムを買ったり現像に出したりしておりました。
写真学科はまだフィルムを使うはずなので、カメラ屋は構内のどこか(奥の新キャンパス?)に移転しているのでしょう。

売店の正面が学生食堂です。
当時はもう一軒(第2食堂)あったため、ここは第1食堂(1食=イッショク)と呼んでました。
安くてボリュームがあって、昼だけでなく夜もここで食べて帰ることが多かったです。
ちなみに構内を歩いた時、第2食堂があったはずの場所は何かの展示室になっていました。
おそらく奥の新しいキャンパスに移転したものと思われます。

というわけで、昔もよく食べた親子丼とラーメンのセットを注文。
久し振りにたくさん歩いたせいかお腹がすいていて、両方ともきれいに平らげました。

正直言って、当時の味と同じだったかかどうかはもう分かりません。
でもこうして目に映る学食の風景は当時とほとんど同じです。
今回母校を訪れて一番嬉しかったのは、この懐かしい学食で再びご飯を食べたことでありました。
ところで、この写真の右上(矢印の先)にある天窓ですが・・・。

この第一食堂の上はこんな具合に天窓のガラス部分がベンチになっていて屋外テラスになっています。
その形状から私たちは「UFO広場」と呼んでいました。
私が2回生か3回生の頃、ふざけてこの天窓部分に乗って遊んでいた奴がいたのですがガラス部分がスポンと抜けて下の食堂に落下するという事故がありました。
この「UFO広場」を眺めているうち、不意に30年以上忘れていたそんなしょーもない事件を思い出してしまいました。
母校の空気が私の記憶を呼び覚ましてくれたのでしょうか?。

急な思い付きで母校を訪ねてみたわけですが、思った以上にたくさんの記憶が呼び覚まされた気がします。
なんだか若返ったような気分で、30数年ぶりの母校を後にしました。
もう一度ここに来る機会があるならば、その時は一人ではなく親しかった同級生たちと一緒に訪れたいものです。

私立である大阪芸大は入学金も学費も一般大学と比べればかなり高い部類に入ります。
しかも親元を離れて大阪での一人暮らし。
当時の我が家は決して裕福ではなかったはずですが、こうして大学まで行かせてくれた両親に改めて感謝しております。
今回は単なる私のノスタルジー話にお付き合いいただきありがとうございました。