トガジンのいちばん長い日

昨日(5月1日)、「剣璽等承継の儀」生中継を見ているうち、ふと軽いデジャブ(既視感)に襲われました。

私の脳裏に浮かんだのは前の天皇陛下(現:上皇陛下)が即位された日のことです。
人物が変わっただけで30年前と全く同じ光景がそこにありました。
今回は「昭和」から「平成」に変わった1989年1月7日と8日の二日間、TVカメラマン助手として極寒の京都御所で過ごした思い出話を書き留めておきたいと思います。
「映画」カテゴリに属するこのブログで語る内容ではないかも知れませんが、それでも「書くなら今しかない」という気がしてなりません。
今このタイミングを逃せば、この話を文章として書き残す機会は2度と訪れないかも知れないのです。
どうか寛大なお気持ちでお付き合いいただければ幸いです。
ちなみに・・・

最初は映画『64(ロクヨン)』の話を無理矢理絡めるつもりでいましたが、無駄に長くなるだけなので止めました(笑)。
昭和末期。
当時の私は大学を出て2年目ながらも特に就職もせずにフリーター稼業をしておりました。
主なアルバイト先は学生時代から続けていた各テレビ局やその下請けプロダクションです。
大阪花博('90)が1年後に迫っていたことやバブル期の好景気もあり、さらに私は運転免許も持っていたのでスケジュールをやりくりしてうまく掛け持ちすれば月収70~80万円も不可能ではありませんでした。
(もっとも、いくら若いとはいえ体力が持たないのと、遊ぶ時間が無いためそこまで働くことはしませんでしたが)
しかし・・・。

昭和63年秋、昭和天皇の病状悪化が報じられて以来日本中は「自粛モード」に入ってしまいます。
各地の秋まつりや結婚式の披露宴なども「不謹慎」ということで次々中止となり、なかには運動会や文化祭を中止した学校まであったようです。

また、私はプロ野球は中日ドラゴンズのファンなのですが、この年せっかくリーグ優勝したもかかわらずビールかけなど優勝祝賀イベントは全て中止でした。
不謹慎かもしれませんが「そこまでせなあかんのか?」と不満に思ったことは確かです。

また日本シリーズを制した西武ライオンズも同様で、日本一になったにもかかわらず西部百貨店の優勝セールは中止。
この年は12月の街に「ジングルベル」が流れることもほとんどなく、当時彼女がいなかった私は「今年はいい年末だ」とか言って仲間から「不謹慎」「非国民」と(もちろん笑いながらですが)突っ込まれたものでした。
当然テレビ番組制作にも自主規制がかかるようになり、それまでみたいな派手にお金を使ったバラエティなどはなりを潜めて質素な番組作りに変わっていきました。
ただでさえ面白みが失われた上、事あるごと「天皇陛下のご容体」が画面いっぱいにテロップ表示されるためにレンタルビデオ店が大繁盛したという裏話もありました。
このことは当時テレビ業界末端部分のいわゆる「不正規雇用者」であった私の収入にも少なからざる影響がありました。
番組ロケや屋外イベントの仕事が目に見えて減っていき、やむを得ず引っ越し屋など別の業種のアルバイトも始めるようになったのです。
それまで「サラリーマンなんかよりフリーターの方が稼げる」と甘い考えでいた私も、この時初めて「就職」を意識するようになりました。
そして・・・。

1989年1月7日
昭和天皇崩御
この日と翌日の二日間、テレビから「笑い」と「コマーシャル」が全て消えました。
当然、それまで予定されていた仕事も全部中止(あるいは延期)です。
私は途方に暮れました。
そんな時、いつもロケや中継番組でお世話になっていたカメラマンのYさんがご崩御特番の仕事に誘ってくれたのです。

それは在阪某局の「京都御所へ弔意の記帳をしに集まって来た人を取材&生中継」するカメラ助手の仕事でした。
当時はどの局も通常番組を休止して、スタジオで有識者による昭和論と来るべき新時代の討論番組ばかりやってました。
そんな討論番組でネタが煮詰まった時に重宝するのが皇居前や京都御所を訪れる記帳客の様子を見せる事だったのです。
各局の中継クルーは京都御所の一角に陣取って、定時ごとに記帳客の様子をビデオに収めて本社に送り、それ以外はいつでも生中継に対応出来るよう現場に待機していました。
私の仕事はENG(ビデオ収録)時のVTR係と、手持ちで中継するときのケーブル係、そしてカメラマンがトイレや食事で離れるときのカメラの番でした。
現場ではいつタリー(放送本線)が来るか分からないためカメラは定位置に置きっぱなしにしておき、常に私やADが交代でカメラ近くで番をしていなければならないのです。
平成元年1月8日2時頃(だったと思います)、事件は起こりました。
たまたまカメラマンのYさんが席を外した直後に、D(ディレクター)からインカムを通じて緊急連絡が入ったのです。
D「Yさん、近いうちにこっちへ中継来るみたいや。スタンバっといて!。」
私「すみません。Yさんは今カメラから離れてます。」
D「ええっ!。お前誰?」
私「カメアシの●●です。」
D「離れたって、Yさんどこ行った?。」
私「トイレ行くと言ってました。あと、多分タバコも・・・。」
D「そんなん聞いてへんぞ!。」
ディレクターさんの命令でADがトイレと喫煙所を見に行きましたがどこにも姿が見えないとのことでした。
携帯電話なんて誰も持っていない時代ですから、行方が分からないYカメラマンを呼び出す術はありません。
焦ったディレクターは私にこう訊いてきました。
D「カメアシ君。お前、カメラは扱えるか?。」
私は迷わず答えました。
私「出来ます!」
これは生中継本番(しかも全国放送!)でカメラマンをやれる千載一遇のチャンスです。
言葉としては「出来ます」ではなく「やります」だったかも知れませんが、この時の私は確かに「自分はカメラを扱える」とアピールしておりました。
バイトの身とはいえ、大学時代から数えて約4年間何人ものカメラマンの下で助手を務めてきましたから基本的な操作は習得しています。
また、先輩カメラマンの中には一部風景カットや商品の撮影を任せてくれる人もいたくらいだったのでやれる自信はありました。
左手でレンズを支え、右手でパン棒を握りしめ、ファインダーを凝視しながら合図を待ちました。
しかし、生中継本番でカメラを振るのはこれが初めてです。
次第に手が震え始め、さっきまで「寒い寒い」と言っていたはずなのに身体じゅうが熱く火照ってきました。
そんな私の緊張が画面から伝わったのか、ディレクターがインカムを通じて優しく声をかけてくれました。
D「カメアシ君、難しく考えんでええからな。ゆ~っくり下手から上手へパンすればいいだけのことや。」
私「は、はい。」
D「今喋ってる大学教授の話が終わったらアナウンサーがこっち(御所)へ話を振るかもしれん。構えとけ。」
私「はいっ。」
震える両手をニギニギして緊張をほぐしながらインカムから聞こえてくる音声に全神経を集中しました。
そして待つ間、それまで習得したカメラ操作のイロハを片っ端から頭の中で暗唱し続けました。
「三脚の水平は・・・合ってる!」
「ピントは奥の記帳する人たちに・・・合わせた!」
「パンの最初はゆっくりと押し出すように」
「パン棒は女の身体に触るみたいに優しく、そして時には激しく」(先輩に習った言葉そのまま)
「そしてパン終わりの画角は綺麗に決まるように」
etc etc・・・・・・
こんな確認をまるでお題目のようにつぶやき続けておりました。
この時の私は1秒が1時間くらいに感じていたように思います。
ところが・・・。
いつまでたっても大学教授の話が終わりません。
それどころか他の誰かが話に割り込んで長引く一方です。
アナウンサーも話を遮るタイミングを失って、このまま今の話題を押し進めることにしたようでした。
自分の出番がいつになるのか見当もつきませんでしたが、それでも私はひたすらファインダーを凝視し続けておりました。
そうこうしてるうち、ポンッと誰かが私の肩を叩きました。
振り返るとそこには、私への差し入れの温かい肉まんと熱い缶コーヒーを手にしたYカメラマンが立っていました。
Y「なんや?。怖い顔して。」
私「・・・あ、Yさん?。」
Y「お前カメラ振る気やったんか?。あかんあかん、代われ!。」
こうして私の「いきなり全国中継でカメラマンデビュー」は幻に終わったのでありました。
ちなみに、私が本当に生中継カメラを初体験するのはこの出来事から3年ほど後のことです。
一発勝負の生中継ということでやはり手の震えが止まりませんでした。
カメラマンのYさんはこの後もいろいろな現場に連れて行ってくれて、そのたびにこの時の私の蛮勇をネタにしてくれました。
そのおかげで「やる気のある奴」「本番で物怖じしない奴」という評判が立ったらしく、テレビ業界が元通りになった数か月後には以前の倍近く声をかけてもらえるようになりました。
また、数年後にこの時のディレクターさんと仕事で再会しましたが、「おお、あの時のカメアシ君か!?。」と言われて、そのまま(もうカメラマンになったのに)「カメアシ君カメアシ君」と呼ぶので困りました(笑)。
あれから30年。
令和元年5月1日。
私の令和初仕事は、平成から令和にまたがる改元特別番組の生中継でした。
そして朝からは、記帳所に集まる人たちや令和初日に生まれた赤ちゃんなどの取材取材また取材・・・。

このおじさんたちと同じで、やってることは30年前と何一つ変わりませんでした(笑)。
ちなみに、元号が変わって私が最初に食べたものは・・・

深夜中継の待ち時間に若いカメアシ君が気を利かせて用意してくれた令和印のカップヌードルでありました。
ありがとう、カメアシ君!。
でもなんかわびしい・・・。
「改元」というこの絶好のタイミングに、新人時代の平成の思い出を書き残すことが出来て本当に良かったです。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。