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映画と日常

私のオーディオ・ビデオ遍歴(第7回) ~AV特異点~

トガジンです。

かつて私が愛用したAV機器の数々を自分史も兼ねて回顧する不定期連載「私のオーディオ・ビデオ遍歴」。
今回は、私が「これしかない!」と強い信念を持って選んだAVテレビのお話です。



過去の記事は以下のリンクよりご覧いただけます。

>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第1回) ~全てはヤマトから始まった~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第2回) ~はじめてのビデオ~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第3回) ~わしらのビデオはビクターじゃ!~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第4回) ~ビデオカメラで太陽を撮ってはいけなかった頃の話~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第5回) ~サクラサク~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第6回) ~J30って知ってるかい?~

21K691 当時のカタログ
今回紹介する製品に関しては奇跡的に当時のカタログが残っておりました。
若き日の草刈正雄の笑顔が眩しいです(笑)。
今回の記事に使用した製品画像はこのカタログからスキャンしたものです。



【清貧生活】
大学生活がスタートして約3ヶ月。
私は毎日朝から夕方まで真面目に授業に出て必修科目の単位稼ぎに励んでおりました。
本当はアルバイトの一つもしたかったのですが、「一回生のうちに一般教養の単位を取れるだけ取っておかないと2回生以降大変な目に遭うぞ」という先輩方の忠告に従っていたのです。

そして休みの日には映画を観に難波や梅田へ・・・と、行きたいところでしたが、この時の私にはとてもそんな金銭的余裕はありませんでした。
春先には貯金と進学祝いという名のお小遣いを貯め込んだお金が20万円以上あったのですが、4月にアンプとスピーカーを、そして5月に2台目のビデオ(SL-J30)を買ったために貯金はほとんど0(ゼロ)円に近かったのです。

親からは毎月7万円の仕送りがありましたが、そのうち半分近くは家賃と光熱費と銭湯代、残りは食費と授業に必要な雑費に消えていきます。
学食と自炊とで食費を切り詰め、新聞は最初の1ヶ月だけで断り、吸い始めたばかりの煙草もすぐに辞めました。
(煙草はこの時以来一本も吸っていません。)
それでなんとか月1万円ほど残すことは出来ましたが、そのお金も仲間と遊びに行ったり先輩に飲みに誘われたりするとすぐに無くなってしまいます。
新しいビデオテープを買うとかレンタルビデオを借りて見るなどという贅沢は一切出来ません。
前期期間中、なんとか映画館に観に行けたのは『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』だけでした。
そうした清貧生活に耐え抜き、私はどうにか前期課程を乗り切ったのであります。

日刊アルバイトニュース(82~83年頃のもの?)
そして、大学生活最初の夏休みを迎えました。
両親は「お金を出してあげるから、この夏休みは帰省して地元の自動車教習所で運転免許を取りなさい。」と言ってくれていましたが、、私はどうしてもまとまったお金が欲しかったためその話を断り、そのまま大阪でアルバイトを始めることにしました。
(ただし、この年5月に亡くなった祖母のお墓参りのためお盆に一日だけ帰っています。)

この時、私がどうしても大阪に居残りたかった理由はお金だけではありませんでした。

ゴジラ1983復活フェスティバル 三番街シネマ
8月13日から東宝系劇場で開催される『ゴジラ復活フェスティバル1983』がどうしても観たかったのです。

ゴジラ1983復活フェスティバル 上映作品
『ゴジラ復活フェスティバル1983』とは、昭和の東宝特撮映画の中から厳選した10本を再上映するというものです。
そのうちの半数近くが初めて見る作品で、残りも「東宝チャンピオンまつり」で短縮版を見てはいたものの全長版はまだ見たことがないという作品ばかりでした。

『ゴジラ』一作目
中でも私の一番のお目当ては、最初の『ゴジラ』(昭和29年作品)でした。
「東宝チャンピオンまつり」で幼い頃からゴジラに親しんできた私も名作と名高い『ゴジラ』第一作はまだ見たことがなく、「最初のゴジラは悪い怪獣でもの凄く怖かったんだよ」という大人たちの話を聞くたびに「一度でいいから初代ゴジラを見てみたい!」と願い続けていたのです。
白黒映画はテレビで放映されるチャンスがほとんど無いため、絶対にこの機を逃すわけにはいきません。

ゴジラ1983復活フェスティバル 上映時間(三番街シネマ2)
問題だったのは『ゴジラ復活フェスティバル1983』の上映開始日が8月13日(梅田三番街シネマ)ということです。
仮に福井へ帰省する場合、わずか1ヶ月足らずで大阪に戻らなければなりません。
1ヶ月以内に運転免許を取るなど(合宿でない限り)まず不可能です。

『ゴジラ1983』in メトロ劇場
福井でもメトロ劇場さんで上映してくれることが分かったのですが、こちらの上映開始は8月31日からでした。
大学の夏休みは9月中旬までですが、私たちのチームは8月下旬から後期制作実習を始める段取りになっていたためその頃にはもう大阪に戻っていなければならないのです。
結局、当初の予定通り大阪に居残ってアルバイトを始めることにしました。



【アルバイト】
同じアルバイトをするにせよ、その選択肢は福井より大阪のほうが圧倒的に多いです。
福井(の私の地元)では海水浴場の浜茶屋や農協のスイカ出荷場くらいがせいぜいですが、大阪ならば学生課の掲示板や日刊アルバイトニュースでちょっと探すだけで多種多様なバイトをいくらでも見つけることが出来ました。

イベント会場のテント(例)
私が大阪で初めてやったアルバイトは、関西大手テント屋さんのレンタル事業部でした。
夏休み初日から8月末までの約1ヶ月半、ほぼ毎日関西各地のイベント会場に資材を運んで大小様々なテントを組み、そこにイスやテーブルを運んで並べ、イベントが終了した後はすぐに撤収して倉庫に片付けたり翌日の準備をする・・・という結構ハードな仕事内容でした。
完全な肉体労働でしかも炎天下での作業がほとんどでしたが、今と違って若かったのとテント屋の人たちが面白い人ばかりだったので全然苦にはなりませんでした。
この時覚えたロープの結び方(フィシャーマンズノットやトラッカーズヒッチ等)は今でも身体が覚えていて、キャンプのテント張りや引っ越しの時などに自然に結ぶことが出来て今でもかなり役立っています。

時給は確か800円くらいだったと思います。
ほぼ毎日早朝から夜遅くまで真面目に働いたので、お盆までの約1ヶ月で24~25万円ほど稼ぐことが出来ました。

ゴジラ1983復活フェスティバル パンフレット
そしてもちろん、『ゴジラ1983復活フェスティバル』も全作品観に行ったことは言うまでもありません(笑)。



毎度のことながら前置きが長くてスミマセン。
ここからが本題です。



【KV-1312U】
KV-1312U (1970)
当時私が使っていたテレビは、実家から持ち込んだソニー:KV-1312Uという古くて小さなテレビでした。
KV-1312Uは大阪万博の年に買ったもので、この時点で13年も経っているというビンテージものでした。
最初のうちはまだ「色や明るささえ調整すればまだまだ十分使える」と思っていたのですが、最新型AVテレビの高画質に数多く触れたこの時の私には、そのサイズも性能も全く満足出来るものではなくなっていました。

六畳間配置(アンプ購入)
一番の不満はサイズです。
当時(ブラウン管テレビの時代)は「テレビの適正視聴距離は画面高さの5倍~7倍」と言われていました。
13インチの場合、画面高さは約20センチなので適正視聴距離は1メートルほどということになります。
しかし、その距離だとオーディオシステムの定位が悪くなってしまい、迫力が出ないばかりがセリフが聴き取りにくくて映画に集中出来ません。
逆に音が良く聴こえる距離(1.5メートルほど)まで離れて観ると今度は画面が小さすぎます。
つまり、当時の私の部屋(六畳間)においては画面高さ30センチの20インチテレビが適正なのです。
また、13年分の経年劣化により画面の明るさや色乗りが日に日に低下していくのが目に見えて分かるようになっていました。

『スター・ウォーズ』83年10月テレビ初放送
しかも、10月初旬にはあの『スター・ウォーズ』がTV初放映されるのです!。
それまでにもっと大きくて高性能なテレビが欲しかったのです。



【拘り】
’83年当時は、日本の各家電メーカーからビデオ端子を複数装備したAVシステムテレビと呼ばれるTVが多数発売されていました。

ナショナル(現:パナソニック)の「アルファ」シリーズ
日立の「オンライン」シリーズ
三菱の「シティフェイス」シリーズ
サンヨーの「コスモ」シリーズ


等々です。

VICTOR NETWORK AV-20
私が最初に購入を考えていたのはビクターの「ネットワーク」シリーズAV-20でした。
画調がとても柔らかい印象で、しかも他社製品と比べて人肌がとても綺麗で私好みの色あいだったことにも惚れ込みました。
そしてもちろん、私が愛用しているビデオデッキ(HR-7650)がビクター製であったことも理由のひとつです。

VICTOR NETWORK 背面端子
ビクターのネットワークシリーズはビデオ入力端子を3系統備えていました。
さらに前面にも1系統備わっており、この端子は背面の入力Cと共通になっていました。
使い方次第では全部で4系統になるので、今後3台目のビデオやビデオディスクを繋ぐにしても十分余裕があります。

VICTOR NETWORK くし型フィルター
このクラスのテレビには輪郭映像と色信号をクリアに分離させる「くし型フィルター」が搭載されており、これが有るのと無いとでは素人目にもはっきり分かるほど画質差が生じていました。
従来のテレビが水平解像度270本程度だったものが、くし形フィルターを通すことにより330本以上に表示解像度がアップするのです。
当時のTV放送の送出用1インチVTRの水平解像度が確か360TV本くらいでしたから、放送された映像情報の9割近くを表示できることになります。

ソニー プロフィールモニター
各社がしのぎを削っていたAVテレビの分野において、性能面でもデザイン面でも頭一つ抜きんでていたのがソニーの「プロフィール」シリーズでした。
こちらはチューナー別売りのモニタータイプで、それまでのTVとは全く違う発想から成るテレビでした。
本体のビデオ入力は一系統のみですが専用チューナーを接続することで3系統入力になります。

同級生の一人がこれの20型を持っていて何度か見せてもらったのですが、ソニー独自のトリニトロン管の映像がとてもシャープで隅々までピントが合っている印象でした。
また、性能とデザインは最高レベルながら、同じ20型でもチューナーが無い分他社のテレビより安かったのも魅力でした。
(チューナーとセットだと他社の20インチAVテレビとほぼ同額になる)

そうした中・・・。

東芝CORE-FS カタログ(1)
最終的に私が選択したのは東芝のCORE(コア)FSシリーズでした。
正直言って、シャープさも色合いもソニーやビクターの製品ほど抜きんでたところは無く、良くも悪くも平均的なTV画質です。
調整項目も必要最小限しかなく、接続端子もソニー・ビクターより若干少なめでした。

それでも、私にはこのテレビでなければならない理由がありました。
CORE FSは、映画鑑賞に欠かせないある重要な要素が備わっている唯一のテレビだったのです。

その要素とは・・・

CMより フルスクエアブラウン管イメージ
フラット画面です

<YouTUBEより 当時の東芝CM>

東芝のCORE[FS]は、自社開発の「フルスクエアブラウン管」を使うことでコーナーを直角にし、画面の歪みも大幅に減少させた画期的なテレビでした。
90年代に入るとブラウン管は平面が当たり前になりましたが、その先駆けがこの東芝フラットスクエアブラウン管なのです。

私はこのフラットブラウン管によって、家庭のビデオでも映画館で映画を観る環境に少しでも近づく事が出来ると考えたのです。
なぜならば・・・。

凹型湾曲スクリーン
映画館のスクリーンに球状のものなどありません。
完全なフラットか観客に対して凹型に湾曲しているかのどちらかです。

SONY PROFEEL 凸型湾曲トリニトロン管
旧式の丸いブラウン管は言わずもがな、当時「平面性が高い」と謳われたソニーのトリニトロン管でさえ、画面が視聴者に向かって凸型にカーブしているため映画館のイメージとは完全に真逆です。
つまり、1983年秋時点で「映画を楽しむためのテレビ」としては東芝:CORE[FS]以外に選択肢は無かったのです。



【昭和58年10月】
■21インチAVシステムテレビ
東芝:21K691(K) 215,000円
東芝CORE-FS 21K691
こうして私は、かねてから欲しかったビデオ入力端子付きマルチメディア対応21型AVテレビ購入に踏み切りました。
世界初のフラットスクエアブラウン管を採用したCORE[FS]シリーズ第2世代機:21K691(K)です。
TOSHIBA 21K690
実は東芝のフラットブラウン管テレビは、21K690という型番で一年ほど前から発売されており、私が買った21K691はそのマイナーチェンジ版です。
ちょうど型落ちになったばかりの旧型を安く買い叩くという手もあったのですが、ブラックフェイスが精悍でカッコ良かったことと、ファインピッチ化によって明らかに画質が向上していたことから新型のほうに決めました。

東芝CORE-FS TV台も一緒に
買ったお店は日本橋のジョーシン1番館だったと記憶しています。
この時、専用テレビ台RL-691Gも一緒に購入しました。
ビデオデッキ2台を収納するラックの必要を感じていたことと、「ラックも一緒に買ってくれたらもう少し値引きする」という店員の言葉に乗せられました(笑)。

定価はTV本体が21万5千円。(高級機は1インチ=1万円が相場とされていた時代です)
そしてTV台が1万9千円。
両方合わせて2割引きにしてもらったので夏休みのアルバイト代で十分買える値段です。

が、しかし!。
ここで夏のアルバイト代を全額使ってしまったら、前期と同じように後期も貧乏生活を強いられることになってしまいます。

そこで、バイトで稼いだうちの約半分を残して12万円を頭金として払い、残りを毎月約4千円づつ24回払いの学生ローンにしてもらいました。
今はどうだか知りませんが37年前は学生証と保証人さえ用意すれば結構簡単に学生ローンが組めたのです。
ただし、「保証人はたとえ親であっても県外在住では不可」とのことだったので大阪に住んでいる叔父(父の実弟)にお願いすることになりました。
この叔父さんは入試の時の宿の手配から引っ越しの手伝いに生活用品の調達と色々世話をしてくれた人ですが、さすがに保証人となると「ちゃんと払えるんやろな?」と何度も念を押されました(笑)。

東芝CORE-FS 21K691背面端子部
21K691のビデオ入力(ステレオ音声対応)は全部で3系統ありました。
背面には2系統あって入力1(E1)にはメインビデオのHR-7650を繋ぎました。
入力2(E2)は21ピンRGBマルチ端子になっていて当時のMSX規格パソコンやキャプテンシステムの接続用です。
そのままでは通常のビデオケーブルを繋ぐことは出来ませんが、私は21ピン端末を買ってきてビデオ→21ピン入力コネクターを自作してビデオ入力2として使いました。

出力端子からは現在選択されている映像・音声が出てきます。
これをHR-7650の入力端子に繋ぐことで、いちいち接続変更することなくE3に繋いだSL-J30からのダビングを行えます。
(ただし、HR-7650からSL-J30へダビングする場合は接続変えが必要)

オーディオ出力端子は文字通り現在視聴中の音声信号をピンケーブルで出力するものです。
映画や音楽番組やスポーツ中継など音の迫力が欲しい番組はここからオーディオアンプ(パイオニア:A-100)に繋ぎ、(内臓スピーカーのボリュームを絞って)外部スピーカーから音を出して楽しんでいました。
(逆にニュースやバラエティ番組などは内臓スピーカーで十分です)

あと、外部スピーカー端子まで付いていました。
一度だけ手持ちのスピーカー(パイオニア:S-X4)を繋いでテストしてみましたが、音のクリアさも音圧も本物のオーディオアンプとは比較にならず、この端子はその後一度も使うことはなかったです。

東芝CORE-FS 21K691前面端子部
前面下部のフタの中には映像入力3(E3)とテレビ出力端子。
入力3には常にベータ方式ビデオ:SL-J30を接続していたため前面のフタはいつも開けっ放し状態でした。
テレビ出力端子からは現在視聴中のチャンネルの映像・音声が出ています。
これはおそらくポータブルビデオ用のものと思われますが、私には全く用途がありませんでした。

東芝CORE-FS 21K691リモコン
リモコンは普段は前面の電動トレイの中に収められていて、そのまま固定スイッチとして使うことも出来る作りになっています。
ちなみに、21K691は私にとって最初のワイヤレスリモコン搭載機でした。



【KV-1312U逝く】
SONY KV-1312U(1970)
一方、前のソニー:KV-1312Uは廃棄することなくしばらくの間併用することにしました。
古いとはいえソニー製品です。
見た目はそこそこカッコ良かったので捨てるのは惜しかったですし、ニュースや天気予報を見るだけなら十分使えます。
しかし、実際には電源を入れることはほとんど無く、結局は部屋の片隅でオブジェと化しておりました。

そしてこの年の暮れ。
久し振りにスイッチを入れた瞬間、画面が見る見るうちに中心部に向かって収縮していき、最後には小さな点になって消えてしまいました。
その後、いくら電源を入れ直しても天板を叩いても二度と復活することはありませんでした。
KV-1312Uは、テレビの新時代到来を見届けて安心したかのように私の目前で天寿を全うしたのです(合掌)。



【その後】
東芝CORE-FS 21K691a
東芝:21K691(K)はその後10年近くフルに使い続けました。
ソニー信者の友人からは「東芝なんて・・・」とバカにされましたが、当時唯一の平面ブラウン管で映画を見るたび「やっぱり映画はこうでなくっちゃ!」と満足し切っておりました。

6年後(’89年春)、更に大型のモニター(チューナーレスタイプ)を手に入れてAVシステムを強化しましたが、その時も21K691は手放さず普段のTV番組とノーマルビデオ(HR-7650とSL-J30)の視聴用として併用し続けました。
そして購入からちょうど10年経った’93年春。
電源部が壊れて何も映らなくなっためやむなく廃棄処分しましたが、その時まで一度も不具合は無かったです。
ソニーの「プロフィール」やビクターの「ネットワーク」ほど尖った性能ではなかったですが、10年間コンスタントに私を楽しませ続けてくれた良い製品だったと思っています。



【AV元年】
今にして思えば、1983年(昭和58年)は私の人生においてもAV業界全体においても非常に重要なターニングポイントとなった年でした。

以下、昭和58年の私個人AV業界の印象的な出来事を書き連ねてみます。
※青文字・・・私個人の出来事
※赤文字・・・AV業界の動向


【2月】
大学受験

【3月】
大学合格
憧れの単品オーディオコンポ、パイオニア:A-100(アンプ)とパイオニア:S-X4(スピーカー)購入


【4月】
大学&一人暮らしスタート
ソニー、初のβハイファイVTR(SL-HF77)を発売
ビクターをはじめとする5社からVHD方式ビデオディスク発売

【5月】
祖母他界(初めての肉親の死)
ベータ方式ビデオ(ソニー:SL-J30)購入、VHS(HR-7650)と両刀使いになる

パイオニア、第2世代LDプレーヤー:LD-7000発売
ナショナル、初のVHSハイファイVTR(NV-800)発売(ただしVHSハイファイの正式規格ではない)

【7月】
大学最初の夏休み、テント屋さんでアルバイト。
ソニー、VTR一体型ビデオカメラ:ベータムービー発売。

【8月】
レコード屋店頭で『スター・ウォーズ』LDを衝動買い
『ゴジラ復活フェスティバル1983』全10作品鑑賞。

【9月】
初めて8ミリフィルムで短編映画作品作り(撮影担当)

【10月】
AVテレビ(東芝:21K691)購入
『スター・ウォーズ』初TV放送
AV雑誌「HiVi」創刊
ビクター、規格統一版VHSハイファイビデオ:HR-D725発売(ただし品薄が続いたため翌年まで現物は出回らなかった)


【11月】
先輩の卒業制作作品に出演し、熱演の末酷い風邪をひいてしまう。
このことが縁で、数ヶ月後その先輩が8ミリカメラ(キヤノン 814XL-S)を譲ってくれる

『2001年宇宙の旅』LD発売→即購入(プレーヤーはまだ持っていない)

【12月】
KV-1312U昇天


こうしてざっと羅列してみると、「オーディオシステム構築」「ビデオ2台持ち」「AVテレビ購入」「レーザーディスクとの出会い」など、現在まで連綿と続いている私のAV趣味の基礎は全てこの年に起きていたことが分かります。

2chオーディオシステムは4chドルビーサラウンドと5.1chを経て音場を上下方向にまで広げたイマーシブ・サラウンドへ。
録画装置はビデオテープからHDDやビデオディスクへ。
AVテレビはワイド化とハイビジョン化を経て4Kプロジェクターとスクリーンへ。
レーザーディスクはDVDを経てBlu-rayや4K-UHD BDへ。

私の現在のホームシアターシステムは、37年前の昭和58年に始まったものがその礎になっていることが分かります。
昭和58年(1983年)は、私にとってまさに「AV(オーディオ・ビジュアル)特異点」と呼ぶべき年だったのです。




長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
次回の「私のオーディオ・ビデオ遍歴」は、「私の人生を狂わせた」と言っても過言ではないあの”絵の出るレコード”のお話です。
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COMMENTS

2 Comments

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メークボーイ  

3代目もありました

ネットで調べて分かったのですが、少なくとも3代目のK692シリーズまではあったようです。
K692シリーズでは、E2が21ピンRGBマルチ端子と共通ながら、通常のビデオケーブルを繋ぐこともできるように改良されていました。

2022/06/24 (Fri) 02:22 | EDIT | REPLY |   
トガジン

トガジン  

メークボーイさん、お久し振りです。

K961の後、CORE[FS]2000という後継機が発売されたことは覚えています。
確かコンピューターにも対応する(当時はそれをマルチメディア対応と呼んでました)ため、ブラウン管のドットピッチを細かくしたものでした。
K962というのは多分それのことだと思います。

ただ、私はその後ビクターが同じ平面ブラウン管を使って作ったAV-MT21というテレビのほうが気になっていました。
同じ東芝製のブラウン管のはずなのに、ビクターの方が絵作りや色あいが私好みだったんですよね。
その印象がずっと残っていて’89年にはビクターの第3ネットワークというチューナーレスの大型モニター(32インチ)を買い、さらに現在まで4代に渡って愛用しているビクターのD-ILA方式プロジェクターに繋がっています。
そうした事柄も「私のオーディオビデオ遍歴」に順次書いていく予定ですので、今後ともよろしくお願いいたします。

2022/06/24 (Fri) 15:28 | EDIT | REPLY |   

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