『宇宙戦艦ヤマト』TVシリーズ第1作 ~初回放映時の思い出~
本日10月6日は、昭和49年にTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放送開始された日です。

そこで、本日から4週連続で毎週木曜に『宇宙戦艦ヤマト』(TVシリーズ第1作)について連載記事を書くことにしました。
1回目は、48年前小学四年生だった私が初めて『ヤマト』に触れた時の話を書かせていただきます。
同年代のヤマトファンの皆さん(元ファンも含め)と思い出を共有できたら幸いです。
【ヤマトが生まれた時代】

『宇宙戦艦ヤマト』が製作された1970年代。
この頃は公害問題やオイルショックなどの大規模な社会問題が頻発し、『ゴジラ対ヘドラ』『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』『漂流教室』など映画・TV・小説・漫画など各分野で「末世」をテーマにした作品が次々発表されていました。
当時世の中を支配していたこの閉塞感を打破したいというのが『宇宙戦艦ヤマト』の企画の根幹でした。


昭和46年春からは第2次怪獣ブームの先駆けとなった『帰ってきたウルトラマン』と、等身大ヒーローもの『仮面ライダー』の2大特撮シリーズがスタート。
その後も『ミラーマン』『ジャンボーグA』『人造人間キカイダー』『快傑ライオン丸』などの特撮番組が続々と作られ、放送局数が少ない福井でもどれを見ようか迷うほどの豊作ぶりでした。

しかし、昭和48年あたりから急激に状況が変化します。
第一次オイルショックの影響で石油製品が価格高騰したことで特撮番組の制作費が圧迫されるようになり、その影響が番組数の減少や質の低下といった目に見える形として現れ始めたのです。
更に『マジンガーZ』の成功を受けて男の子の興味が特撮怪獣ものからロボットアニメにシフトしていることに気付いたTV局は、特撮番組の新企画を軒並み却下し、安価に作れて高視聴率が期待できるアニメに多くの放送枠を振り分けるようになりました。
もちろん当時小四の私にはそんな裏事情など知る由はありません。
それでも昔から大好きだった特撮番組の質が年々落ちてきていることは薄々感じておりました。
実際、『ウルトラマン』も『仮面ライダー』も映画の『ゴジラ』シリーズも、過去のキャラクターの再登場がやたら増えたり着ぐるみやミニチュアの質が低下していることが子供の目からもなんとなく分かったのです。

そのうち、親と一緒に見ていた『太陽にほえろ!』などの刑事ドラマや大河ドラマ、あるいはバラエティ番組へと次第に興味が移っていき、私は無意識のうちに子供番組からの卒業の時期を迎えつつありました。

もちろん『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』などロボットアニメも見てはいましたが、ロボットアニメの新鮮さや興奮は最初の『マジンガーZ』で消化し尽くされた感があり『ゲッターロボ』は半年も経たないうちに飽きてしまいました。

もちろん、まだアニメや特撮に対して完全に見切りをつけていたわけではありません。
例えば『ゲッターロボ』に関しては雑誌「少年サンデー」に連載されていた石川賢先生の漫画版がストーリーも絵の迫力も圧倒的に凄くて夢中になって読み耽りました。
それは単に「過激だから」という理由だけではありません。
同じ素材でも描き手の個性や熱量によってここまで違うモノになってしまうのか?という驚きがありました。
「大人の観賞にも耐え得るアニメ」なんて言葉はまだありませんでしたが、「子供向けだから」というだけで頭ごなしに馬鹿にする大人たちに「ほら、このアニメ(漫画)は凄いだろ?、よく出来てるだろ?。」と胸を張って言えるような作品を求めていたのです。
そして昭和49年10月。
私の成長過程の間隙を突くようなタイミングで一つの画期的なTVアニメが現れました。
それが『宇宙戦艦ヤマト』です。
【邂逅】

私の最も古い『ヤマト』の記憶は、雑誌「冒険王」昭和49年10月号に載っていたこの新番組紹介ページでした。
同時期に始まる『仮面ライダーアマゾン』と『破裏拳ポリマー』の下にひっそりと載っていた見慣れない絵柄に目が止まったのです。

キャラクターの後ろに描かれている軍艦・・・いや、宇宙船があまりにもリアル。
「いままでこんなの見たことない!。」
ヤマトとは太平洋戦争の末期に沈没したという巨大戦艦:大和と関係あるのだろうか?。
タイトルからして間違いなく宇宙ものだろう。
この宇宙船は主人公が乗るロボットの母艦だろうか?。
でもこの絵には主役ロボットらしきものは描かれていない。
一体何なんだこれは?。
この時はまだ松本零士先生の存在すら知りませんでしたが、このキャラクターが今までにないデザインセンスであることは一目で分かります。
特に黄色い服の華奢な女性キャラ(森雪)。
それまでのロボットアニメに出てくる女の子(『マジンガーZ』の弓さやかや『ゲッターロボ』の早乙女ミチルなど)は、皆一様に主人公のサポート役としてロボットや戦闘機に乗って一緒に戦う元気いっぱいな女の子だったり、あるいは時折パンチラや入浴シーンを披露するマスコットガール的なイメージしかありませんでした。
(実際は森雪もパンチラシーンが数回ありましたが・・・)
よく分からないけど何か凄いものが始まる!。
そんな漠然とした期待に支配されました。

そして私にとって最も大事なことは、このアニメが日本テレビ系で放送されるということでした。
「日本テレビ系なら福井でも見られる!」
TBSと朝日の系列局が無い福井では、それまで氾濫していたアニメや特撮の半数近くは見ることが出来なかったのです。
『ウルトラマン』や『仮面ライダー』などの有名どころは福井のローカル局が番組購入したものを数週間遅れで見ることが出来ましたが、確実にリアルタイムで見られるのは日テレ系とフジ系の番組だけでした。
私の家は例外的に隣県のTBS系列局の電波を捉えることが出来ましたが、ほとんどの福井の家では民放局は日テレ系とフジ系の2つしか見られなかったのです。
そんな福井でも『宇宙戦艦ヤマト』は都会と同じリアルタイムで見られると分かって安堵しました。
しかし・・・。
数日後、『ヤマト』の放送曜日と時間を知った私は思わず頭を抱えてしまいました。
【重複】

『宇宙戦艦ヤマト』の放送時間は日曜日の夜7時半。
これは妹が裏番組の『アルプスの少女ハイジ』を毎週欠かさず見ていた時間でした。

『ハイジ』の内容の良さは両親も祖母も認めていたため、この時間だけは居間の18型カラーテレビのチャンネル権は妹が握っていたのです。
私に勝ち目はありません。

しかし、『ヤマト』と『ハイジ』だけならまだなんとか出来ました。
なぜなら、当時我が家には小さいながらもう一台カラーテレビ(13型)があったからです。
これは私が保育園児のとき友だちの家で見たカラーテレビが羨ましくて泣いてねだったところ、新しいもの好きの父が「どうせこれからは全部カラーテレビになるんだから」とボーナスをはたいて買ってきたものでした。
『ヤマト』の前番組『侍ジャイアンツ』も別室に置かれていたこのテレビで見てましたから、画面が小さいことだけ我慢すればこのテレビで『ヤマト』をリアルタイムで見ることは可能です。

しかし更に数日後、雑誌かなにかで円谷プロの特撮SFドラマ『猿の軍団』が同じ時間帯に放映されることが分かりました。
チャンネルは福井には無いTBS系列ですが、私の家は電波状態や立地条件が良かったためお隣石川県のTBS系列局を受信可能です。
そのため、当時10歳の私は「『宇宙戦艦ヤマト』か『猿の軍団』か?」という究極の選択を迫られることになりました。
どうして『ヤマト』も『猿の軍団』もよりによって『ハイジ』の裏なんだ!?。
当時この非情な運命のいたずらに悶え苦しんだご同輩は大勢いらっしゃったことと思います。

時間ギリギリまで迷いに迷った末、私は当初の予定通り『宇宙戦艦ヤマト』を選びました。
というより、最初から私には『ヤマト』しか選択肢は無かったのです。
『ヤマト』なら翌日学校で友達と話をすることが出来ますが、福井では見られる者がほとんどいない『猿の軍団』を選んでしまったら確実にクラスで孤立するからです。
こうして私は居間の18型カラーテレビではなく、別室の13型テレビで毎週一人寂しく『宇宙戦艦ヤマト』を見ることになりました。
それでも、初回放映をリアルタイムで見られたことはヤマトファンの一人として幸運なことだったと思っています。
【第1話の衝撃】
『宇宙戦艦ヤマト』はそれまで特撮ものやロボットアニメしか知らなかった私にとって全てにおいて新しかったです。

宇宙艦隊同士の戦闘。
敵の降伏勧告に「バカめ!」と返す屈強な司令官。
主砲発射までの詳細な段取り描写。
その主砲が全く通じない圧倒的に強力な敵宇宙艦隊。

特に衝撃を受けたのは、逃げ遅れた乗組員が宇宙空間に吸い出されていく場面でした。
必死にもがいて何かに掴まろうとする動き。
「待ってくれぇ~」と恐怖と焦りが入り混じった断末魔の声。
そして、彼の目の前で非情に閉じられる防壁とそのガシーンという音。
真空の宇宙空間というものの恐ろしさを初めて感じさせてくれた場面です。

余談ですが、高校生のときTVで初めて『2001年宇宙の旅』を見たとき、プール副船長がHAL9000に命綱を切られてもがき苦しむ姿を見た私は『ヤマト』第1話のあの名も無き沖田艦乗組員のことを思い出していました。
『ヤマト』はその後シリーズを重ねるごとに宇宙の描写がどんどんいい加減になっていきますが、少なくとも一作目の第1話では後の『機動戦士ガンダム』にも劣らないハードな宇宙描写が行われていたのです。
そして全体のストーリーも斬新でした。

時は西暦2199年。
謎の異星文明ガミラスの遊星爆弾攻撃により地球全土は放射能で汚染され、人類絶滅まであと1年と迫られていた。
敵は圧倒的に強力で現在の地球の科学力では全く歯が立たず、人類は地下都市に逃げ延びたものの刻々と迫る滅亡の時を待つしかない状態だった。

そんなとき、別の友好的な異性文明から救いの手が差し伸べられた。
14万8千光年彼方のイスカンダル星には放射能除去装置がある。
しかし、それを地球に送り届けることは出来ないため、その受け取りのためイスカンダルへ来て欲しいと言う。
そのために必要な超光速航行を可能にする波動エンジンの設計図も寄与された。

このときの私には、このストーリーが「西遊記」を下敷きにしたものであることにはまだ気づいていませんでした。
それくらい松本零士先生の絵の魅力が強かったのだと思います。

そしてガミラスの遊星爆弾攻撃による破壊描写の情け容赦の無さ!。
遊星爆弾の圧倒的破壊力を見せつける映像と、状況を淡々と語って聞かせる木村幌さんのナレーションとが組み合わさってどうしようもないくらいの絶望感を突き付けてきます。

あと、(これは再放送時に気付いたことですが)遊星爆弾攻撃シーンのなかに『ハイジ』のアルムのお山にそっくりな風景が吹き飛ぶカットがあって、これには思わず笑ってしまいました。
おそらくスタッフの誰かが紛れ込ませたブラックジョークだと思います。

そして第1話のラストシーンを見た瞬間には思わず全身に鳥肌が立ちました。
夕陽を背にして佇む旧・日本海軍の沈没戦艦大和の残骸。
もちろん、オープニング映像でこの中から宇宙戦艦が飛び出すことは分かっていましたが、それでも宮川泰先生の重厚な音楽が重なったことでこの先の展開に期待せずにはいられませんでした。
第1話を見終えた時点で、私は完全に『宇宙戦艦ヤマト』の虜になっていたのです。
【主題歌と宮川音楽】

『宇宙戦艦ヤマト』のもう一つの魅力は宮川泰先生作曲の主題歌と音楽です。
このことに異論を唱える人はまずいないでしょう。
主題歌の作詞は阿久悠先生の手によるものです。
その内容は困難極まる航海に向かうヤマト乗組員の覚悟を歌い上げるものになっていて、それは戦争に赴く兵士たちが故郷に残してきた家族や恋人に宛てた手紙のようでもあります。
この歌詞を「まるで軍歌」「戦争賛美」とはき違えて批判するバカもいましたが、太平洋戦争中に「必ずここへ帰って来る」なんて文言が検閲を通るはずはありません。
この歌詞には松本零士先生が一貫して描いてきた「どんなに生き恥をさらしても生き抜いて次のチャンスを掴む」というポリシーが込められているのです。
戦前生まれの阿久先生の経験とセンスが、戦艦大和というフレーズと松本先生の信念に触発されたことで、あのような悲壮感と使命感を併せ持つ歌詞を生み出したのだと思います。
もしも凡庸な作詞家が担当していたら「撃て撃て無敵の波動砲!」みたいな間抜けな歌詞にされていたかも知れません(笑)。

さらにエンディングの「真っ赤なスカーフ」は個々の乗組員の心情を詠うものになっていて、地球に残してきた女性たち(相手が自分の妻や恋人とは限らないところがまた良い)への想いが切々と歌われます。
ただ、当時小学4年生だった私には「真っ赤なスカーフ」のセンチメンタルさが理解出来ず、本放送の時は最後まで聴くことはほとんどなかったです。
まだガキんちょだったということですね(笑)。
ヤマトの音楽は、勇壮なマーチや重厚なシンフォニーだけではありません。
「無限に広がる大宇宙」を表現するメインテーマは、川島和子さんの神秘的な女声スキャットを採用した透明感溢れる曲でした。
この大宇宙のテーマは、当時宮川先生のライバルだったすぎやまこういち先生も絶賛されていたそうです。
そのことを人づてに聞いた宮川先生は「すぎやまさんが褒めてくれたんだよ!」と本当に嬉しそうだったと、後に作曲家となってリメイク版の音楽を担当した息子の宮川彬良さんが話しておられました。

しかし、『ヤマト』の音楽が他のアニメとはまるで違うことを私が理解したのは放映終了して少し後になってからでした。
ヤマト以後のアニメを見ていても「あのメロディをもう一度聴きたい」と思わせてくれる音楽を持つ作品は皆無に近かったのです。
そして再放送で『ヤマト』を見返したとき、改めて宮川先生のヤマト音楽の凄さに気付きました。
この再放送時の印象が耳から・・・いや、身体から離れることがなくなり、私は初めてのLPレコードとして「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」を購入しました。
そしてそれが現在のホームシアター趣味の原点ともなっています。
【ヤマトの世界へ】
こうして私は、毎週欠かすことなく『宇宙戦艦ヤマト』を見続けました。

旧・大和の残骸を払い落として姿を現す宇宙戦艦ヤマト。
死を前提とした旧・戦艦大和最後の出撃と、生きて帰ることを至上目的とする新生・宇宙戦艦ヤマトとの対比。
血気盛んな主人公とその親友、そして可憐なヒロイン。
そして、敵の超巨大ミサイルを撃破して旅立つヤマト。

ロボット兵器ではなく宇宙戦闘機による戦闘シーン。
光速を超えて空間跳躍するワープ航法。
波動エンジンの全パワーを集約して放出する波動砲。
酒に酔っ払いながらも完璧に仕事をこなし、ついでにスカートめくりまでやってくれる万能ロボット:アナライザー。

他にも、「反射衛星砲」「アステロイドリング防御」「異次元断層」「敵の植民星」など、それまで見たことも無かったSFアイデアの数々に当時10歳の私の頭はもうパンク寸前でした。

もちろん、時々披露される森雪のパンチラに胸ときめかせたことも正直に白状しておきます(笑)。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
【事故】
昭和50年1月末のことです。
母が運転する車が、左側から飛び出てきた信号無視の車に衝突されるという交通事故に遭ったのです。
運転席にいた母は左足骨折で済みましたが、ぶつかった側(助手席)に乗っていた祖母は下半身全体に重傷を負い、病院に搬送された直後は生命さえ危ぶまれる状態でした。
そのとき私と妹は学校で授業中でしたが、いきなり教頭先生が駆け込んできてそのまま病院へと連れて行かれました。
母はしばらくの間入院が必要とのことでしたがなんとか会えました。
しかし、祖母のほうは意識不明で今で言う集中治療室のようなところに入れられて面会謝絶状態でした。
病院の廊下で相手の運転手が父に土下座していたことと、まだ1年生だった妹が「おばあちゃ~ん」とわんわん泣いていた光景を今でもはっきり覚えています。

その日から私も妹も呑気にテレビなんか見ていられるような状況ではなくなりました。
母と祖母が長期入院することになり、父は仕事で夜遅くまで帰宅出来ないことが多いため、私と妹は同じ町内に住む母方の叔父夫婦に預けられることになったのです。
母は意識もはっきりしていて骨折さえ治れば退院出来るとのことでしたが、祖母の方は数日間意識が戻らず「もしかすると駄目かも知れない」と言われていたため心配で落ち着かない日が続きました。
そのため、第17話(バラノドン襲撃の回)は本放送時は見ていません。
その後、祖母が意識を取り戻したことで安心した私と妹はようやく「好きなテレビ番組を見たい」という気持ちを取り戻しました。
しかし、そのとき私たち兄妹は分不相応な悩みに直面したのです。
それは・・・。

叔父の家のテレビがまだ白黒だったことです。
驚かれるかも知れませんが、実は昭和49年のカラーテレビと白黒テレビの普及率はまだ同数くらいでした。
当時の叔父夫婦にはまだ子供がいなかったこともあり、叔父はテレビなんか白黒で十分と考えていたらしいです。
しかし、私と妹は叔父夫婦にお世話になっているという自分たちの立場もわきまえず、「カラーテレビじゃなきゃ嫌だ!」と駄々をこねたのです(汗)。
まだ子供だったとはいえ、今でもあの時のことを思い出すたび叔父夫妻には本当に申し訳なく恥ずかしく思います。

それでも叔父は父と相談して実家のソニー製小型カラーテレビを自分の家に運び込んでくれました。
ソニー:KV-1312Uは上部にキャリングハンドルが着いていて家じゅうどこにでも持ち運べるポータブルテレビだったのです。
付属のロッドアンテナでも受信は出来ますが、少しでも綺麗に電波を捉えるため家のアンテナ線にも繋いでくれました。
ただし、実家にいたときと違ってカラーテレビはこれ一台しかありません。
妹は頑として『フランダースの犬』をカラーで見たがったため、私は叔父宅の白黒テレビで『ヤマト』を見ることになりました。
また、アンテナ端子の位置の関係でカラーテレビは白黒テレビと同じ部屋に置かれたため、同じ時間に裏番組を見る場合はそれぞれイヤホンで音を聴いていました。

この生活は母が退院する3月初旬まで続きました。
そのため第18話(真田さんの過去話)から22話(七色星団決戦)までは白黒テレビで見てましたが、この5本の初放映時の記憶はかなり曖昧です。
無理もありません。
母と祖母の入院のために突然環境が大きく変わって気持ちが落ち着かなかったですし、学校でもクラスメートは気を遣ってくれましたが逆に居心地悪かったです。
そこに白黒テレビという違和感も加わって、いかに好きな番組であっても今までと同じように集中して見ることは無理でした。

実家に戻って再びカラーで『ヤマト』を見られるようになったのは第23話(ガミラス本土決戦の前編)からでした。
その後、祖母も奇跡的に回復して秋頃には退院しましたが、祖母は左の腰から足にかけて後遺症が残ったため身体障碍者となってしまいました。
事故に遭う前は春夏冬の長期休みやGWにはいつも映画を見に連れて行ってくれた祖母でしたが、この事故以後その習慣は失われました。
今でもTV版『宇宙戦艦ヤマト』を見返すたび、17話から22話の間にはいつも反射的にあの事故のことが思い出されます。
私にとって、あの不安な日々の記憶と『宇宙戦艦ヤマト』は一体化しているのです。
【ヤマトが残してくれたもの】

そして昭和50年春。
『宇宙戦艦ヤマト』は最終回を迎えました。
『ヤマト』が当時の私に与えてくれたものは何だったのか?。
『宇宙戦艦ヤマト』の企画書には「今の時代の閉塞感からの脱出」という一文がありました。
もちろん、当時まだ10歳の子供だった私には昭和40年代の閉塞感だの末世思想だのは全然分かりません。
でも、それまで楽しみに見ていた番組たちがどれもこれも行き詰まりを見せていたことだけは肌で感じ取っていました。
そこを多彩なアイデアとサービス精神で突破してみせて、「ほら、面白いものってまだまだいっぱいあるんだよ!」と示してくれたのが『宇宙戦艦ヤマト』でした。
それはそれで立派な「時代の閉塞感からの突破」であり、『宇宙戦艦ヤマト』の企画の根幹そのものだったと思ってます。
今回はここまでとさせていただきます。
来週からは各話のポイントや蘊蓄話、そしてツッコミどころ(笑)などを3週に渡って語っていきたいと思います。
趣味エネルギー充填120パーセントの記事にお付き合いいただきありがとうございました。<(_ _)>