私のオーディオ・ビデオ遍歴(第9回) ~LDと泪と男と女~
かつて私が愛用したAV機器の数々を自分史を兼ねて回顧する不定期連載「私のオーディオ・ビデオ遍歴」。
ただし、今回紹介するビデオ機材は自分が買った民生用機器ではありません。
大学時代にアルバイトで扱った放送業務用機材についてのお話です。

そしてもう一つのメインストーリーは、この年からタイトル数が激増したレーザーディスクソフトの話です。
今思えば、私の人生の歯車が狂い始めたのはこの時からだったように思います。
過去の記事は以下のリンクからご覧いただけます。
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第1回) ~全てはヤマトから始まった~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第2回) ~はじめてのビデオ~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第3回) ~わしらのビデオはビクターじゃ!~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第4回) ~ビデオカメラで太陽を撮ってはいけなかった頃の話~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第5回) ~サクラサク~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第6回) ~J30って知ってるかい?~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第7回) ~AV特異点~
>私のオーディオ・ビデオ遍歴(第8回) ~光ってるヤツにはかなわない~
【昭和60年(1985年)】
この年は本当にいろいろなことがあった年でした。

3月につくば科学万博開幕。
8月には日航機123便墜落事故。
夏の甲子園のPL学園桑田と清原の活躍と、その後のドラフト事件。
そして秋には、阪神タイガース21年ぶりの優勝と初の日本一。
あと、個人的には・・・
運転免許の取得。
TV業界のバイトを初めたこと。(これは現在の職業に繋がっています。)
そして・・・。
1年間付き合った彼女から突然三下り半を突き付けられたこと。
といったところですかねえ・・・(遠い目)。
昭和60年(1985年)。
私は無事3回生に進級し、試験が終わるとすぐ2月から3月にかけて自動車教習所に通って運転免許を取得しました。
大阪は公共交通機関が充実しているので自家用車はほとんど必要ありませんが、引っ越し屋やイベント業のバイトにおいては運転免許があるとないとで優遇度がまるで違ったのです。
ただ、免許を取るのと引き換えに春休みのバイトはほんの短期間しか出来ませんでした。
そのため前年のように資金潤沢とはいかなくなり、稼いだわずかなバイト代も全て仲間内で作る8ミリ映画の制作費と当時付き合っていた彼女とのデート代に右から左へと消えていきました。

その彼女とは、私の大学の姉妹校である美術専門学校に通う同い年の女の子でした。
前年(84年)秋の大学祭で自主制作映画上映会を開いたとき、私が脚本・監督を担当した30分の8ミリ映画(同じ一日を何度も繰り返すタイムループに陥った男の話)が面白かったとのことで上映後すぐ私に会いに来てくれたのが出会いでした。
お互いに映画とアニメが大好きで、容姿も小柄で色白でややぽっちゃり気味と私好みだったことから、その場で連絡先を交換して付き合い始めました。
彼女の学校は天王寺にありアパートもその近くでしたが、デートはいつも梅田まで足を延ばして一緒に映画を見ることから始めました。
天王寺や難波を避けたのは知り合いに出くわす確率が高かったからです(笑)。
彼女はいつも私の話を楽しそうに聞いてくれて時には上手に合いの手も入れてくる聞き上手な子でした。
でも、ときには「自分ならこう作る」とか「あのセリフは女の子としては許せない」などと言い合いになったこともありました。
また、私が作る8ミリ映画のほとんどに出演してくれましたし、他に女性の出演者が必要なときには何人か友達を誘ってきてくれたりもしました。
料理はレパートリーこそ少なかったですが、私好みの味付けをいつも研究してくれて、おかげでそれまでほとんど学食で済ませていた食事の時間が楽しみになりました。
私が無理して運転免許を取ったのも、本当はバイトのためというより彼女に対する見栄からでした。
大学生なのに車の免許を持っていないことがカッコ悪く思えたからです。
そして、(車を買うのは無理だとしても)レンタカーでもいいからいつか彼女をドライブに連れて行きたいなどと思ってました。
(ノ´▽`*)b☆
あと、彼女が急に私の部屋へ泊りに来ることになったとき、えっちな雑誌やビデオを必死で隠したことは恥ずかしくも懐かしい思い出です。
男性諸君!、皆さんにも覚えがあるでしょ?。
【TV業界へ】
恐れていた通り、前期が始まって1ヶ月も経たないうちに春のバイトで稼いだお金を全部使い切ってしまいました。
これでは1回生の頃と同じ親の仕送り頼みの貧乏学生に逆戻りです。
しかも、この頃からレーザーディスクに魅力的過ぎるタイトルが次々と発売告知され始めます。
そのため、私は授業と並行して続けられるアルバイトを探すことにしました。

数日後、受験のとき知り合って以来ずっと仲が良かった放送学科の友達がTV番組制作プロダクションのアルバイトを紹介してくれました。
そいつは1回生の時『突然ガバチョ!』のスタジオ観覧に誘ってくれた奴で、この頃にはいくつかの番組制作プロダクションに出入りしていてそれらの会社にアルバイト学生を斡旋するという役割も担っていたのです。
私の業界初仕事はカメラアシスタントでした。
番組名は失念しましたが、タレントさんが街中を適当に歩きまわって地元の人々と交流していくという現在の『鶴瓶の家族に乾杯』みたいな感じの番組でした。
実際の仕事内容は三脚・交換レンズ・バッテリーなどを持って後ろから着いていくだけの荷物持ちでしたが、夜になるとカメラマンの横からバッテリーライトで照明を当てるライトマンも任されました。
ライティングなら自主映画で経験があるので簡単に出来るだろうと思っていましたが、シナリオに沿って計画的に撮影する映画と違ってテレビのロケでは被写体が想定外の動きをしたりそれに合わせて急にカメラマンが移動することも多く、それらに臨機応変に対応するのが大変でした。
重い機材を持って何キロも歩く仕事だったのでかなり疲れはしましたが、元々自主映画作りで現場を走り回ることには慣れていたことと、初めて参加したTVの制作現場に興奮していたこともあってとても充実した一日でした。
また、呼ばれたら「ハイ!」と大声で応えて常に全速力で駆けつけるようにしていたため、カメラマンやディレクターさんにもずいぶん可愛がっていただきました。
この時のカメラマンのNさんは自身で撮影プロダクションを経営していた外注の人で、このときの私の動きを気に入ってくれたらしくその後自分の会社の仕事に直接声をかけてくれるようになりました。
この時の体験は現在の私にとって貴重な財産となっています。

その後大阪の番組制作プロダクション数社を渡り歩くようになりましたが、そのうちエキスプレスという会社は特に印象深いです。
というのは、エキスプレスは当時大人気だった関西テレビの深夜番組「エンドレスナイト」の外ロケを担当していたプロダクションだったからです。
私も毎週欠かさず見ていた番組なので「エンドレスナイトに参加させてもらえるかも?」とか「エンギャルに会えるかも?」と期待しましたが、実際に連れて行かれるのはいつも別の番組のロケばかりでした。
でも、土曜の夕方に関テレ入りしたとき何人かのエンギャルと遭遇したことはありましたし、局内で千草プロデューサーの姿を見かけて「あっ、シーチャカさんや!」と思わず口走ってしまったこともありました(汗)。
ちなみに「シーチャカさん」とは千草プロデューサーの番組内でのアダ名です。

この頃のENG(ビデオ取材)機材はビデオカメラとVTR部分が別体になっていました。
カメラとVTR部が分離していた理由は、当時は複数の記録フォーマット(ベータカム、Uマチック、Mビジョン等々)が混在していたためどの方式のVTRにも一台のカメラで対応出来るようにするためです。
カメラマンのすぐ後ろにはVE(ビデオエンジニア)と呼ばれるVTR担当者がカメラとケーブルで繋がれた重いポータブルVTRを持って着いて歩き、そのVTRは音声さんのミキサーともケーブルで繋がっていました。
さらに音声さんの横には長い竿に取り付けたガンマイクを持つ音声助手もいて、助手も含めると最大で5人もの技術スタッフが携わっておりました。
↑の写真は初期のベータカム(家庭用ベータマックスの放送グレード版)ですが、私の大学時代に使われていたVTRはもっと重くて大きい旧規格のシブサン(正式名称:Uマチック)が主流でした。
当時(85年)ベータカムは既に市場に出ていたはずですが、まだ導入コストが高かったためシブサンを使い続けているプロダクションが多かったです。
ちなみにシブサンとは4分の3インチビデオテープのことです。
家庭用のVHSやベータマックス(ベータカムも)はそれより細い2分の1インチテープを使っていました。
(現在ではこんな話を理解してくれる人はほとんど居ないと思うので詳細は割愛します。)

UマチックVTRはバッテリーとテープを加えると重さが5kg近くもありました。
当時のVEさんはさぞ大変だったことと思いますが、私がVEを任されるようになった頃にはベータカムが主流になったため、重くて大きいUマチックを使う機会はほとんどありませんでした。
このVE時代の経験は私にとって本当に実になるものでした。
様々な先輩カメラマンの仕事ぶりをすぐ後ろから見られることで、良い面でも悪い面でも勉強になるからです。
例えば、上手いカメラマン(前述のNさんなど)は動きに無駄が無く、次の画作りのための指示も早めに出してくれるのでクルー全体が手際よく仕事を進めることが出来ます。
反対に下手糞なカメラマンは画決めが遅くて右へ行ったり左へ行ったり迷ってばかりいて、常にその真後ろから着いて行かねばならない私としては「このおっさん、何がしたいねん!?」と(心の中で)イライラしておりました。

その後、ENGカメラがVTRと一体化されたことでVEという役職は無くなり、三脚やバッテリーもずいぶん軽量化されました。
音声もワイヤレスマイクが発達したことでガンマイクを使う機会は減り、現在では音声さんが付くことさえ少なくなってディレクターとカメラマンとレポーターの三人だけでロケすることが多いです。
【LDリリースラッシュ】

1985年(昭和60年)はレーザーディスクが飛躍的に発展した年でもありました。

もちろん、それまでにも『スター・ウォーズ』『2001年宇宙の旅』などといった大作・話題作はいくつかリリースされていました。
中でも『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』は当初LDのみの発売だったため、「家庭で『帝国の逆襲』を見られるのはレーザーディスクだけなんだ」とLDユーザーである優越感を満喫していたものでした。
しかし、ビデオテープ版ソフトが既にリリース済みであるにも関わらず、レーザーディスクだけが一向に発売されないというタイトルも多数存在していました。

その最たるものがユニバーサルスタジオとパラマウントの作品群でした。
『レイダース 失われた聖櫃』『ジョーズ』『地獄の黙示録』『スター・トレック』シリーズなどのヒット作や話題作がビデオテープと他方式のビデオディスクでは次々発売されているのに、レーザーディスク版はいつまで待っても発売されなかったのです。

その原因は当時それらの権利を握っていた映像ソフト会社:CICビクターにありました。
CICビクターはハリウッド5大映画会社のうちパラマウントとユニバーサルの二社と販売契約を結んでいたのです。
そして、その名が示す通り、CICビクターはAVメーカー:日本ビクターの子会社でした。

その当時、親会社の日本ビクターは'83年春に発売開始したVHD方式ビデオディスクがレーザーディスクの後塵を拝する形でかなりの苦戦を強いられていました。

VHD方式は「生産が容易」という利点はあったものの、画質面ではLDに遠く及ばずVHSと同程度の解像度しかありませんでした。
それに、VHDはディスクと針を物理接触するため非接触方式のLDに比べてディスクもピックアップも寿命が短いとされていました。
消費者から見れば、同じビデオディスクでも画質が綺麗で耐久性が高いほうが良いに決まっています。
さらに、当時吉幾三さんのヒット曲「俺ら東京さ行ぐだ」の中に「レーザーディスクは何者だ?」というフレーズが出てきたりもして、市場ではレーザーディスクのほうが遥かに知名度が高くなっていました。
また、ソニーがレーザーディスク陣営に参加したのもこの頃だったと記憶しています。

そしてもう一つ、LDにはVHDを圧倒する潜在能力がありました。
パイオニアは一台でLDとCDの両方を再生出来るCD/LDコンパチブルプレーヤー:CLD-9000を発売していたのです。
これはどちらも同じレーザー光線で信号を読み取る光学ディスクだからこそ出来た製品です。
また、CD再生が出来るだけでなく、CDと同レベルの音質を誇るデジタル音声付LDソフトも発売されると発表されました。
VHD方式はCDとのコンパチブルは物理的に不可能ですから、今後消費者がどちらを選ぶかは火を見るより明らかでした。
そこでCICビクターが打った窮余の策は「自社が販権を持つ映画タイトルはVHD方式でしか出さない。」という乱暴なものでした。
このため、私たちLDユーザーは『レイダース』『ジョーズ』など喉から手が出るほど欲しいスピルバーグ監督作品がVHD方式のみでリリースされていくのをただ指をくわえて見ているしかなかったのです。
しかし、たとえVHDが一部のソフトを独占しようとも、遥かに高画質で耐久性も高く、しかもCDとのコンパチブルも可能とするレーザーディスクの優位性は変わりません。
やがて、VHD陣営に属していた大手メーカー数社が続々とLDに参入(鞍替えとも云う)を表明し、ビデオディスク市場は一気呵成にLD優勢へと傾いていきました。

そして1985年初夏。
ここに至り、ついにCICビクターも自社が版権を持つ作品群をLDで発売することを決断しました。
つまり、VHD開発メーカーの子会社がレーザーディスクの軍門に下ったわけです。
これによりアナログビデオディスク戦争はLDの完勝となりました。

ちなみに、VHD方式ビデオディスクはその後すぐに消え去ったわけではなくカラオケ用などで細々と生き延びました。
また、LDでは不可能な3D映像技術を搭載した新製品も発表されています。
この3D-VHDは、大昔の立体映画のような赤青の色メガネを通して見るものではなく、現在のブルーレイ3D方式と同じ仕組みで画質劣化が少ないことが特徴とされていました。
これには私も興味をそそられましたが、もはやどの電気店に行ってもデモを見られるところが無く結局一度も見たことはありません。
それまで「どちらの方式に絞ろうか」と決めかねていた他の大手ソフトメーカーも一斉にレーザーディスクに舵を切ったことで、魅力的なLDタイトルが続々と発売され始めます。
私は放送局関係のアルバイトで稼いだお金のほとんどをこれらのLD購入に注ぎ込むようになりました。

まず5月末にワーナーが映画ファン待望の『ブレード・ランナー』『スーパーマン』をリリース。
これを皮切りに、各メーカーから膨大な数のLDソフトが続々リリースされ始めます。

6月には、パイオニアLDC(パイオニアのソフト販売部)から私の最愛の映画のひとつ『ダーク・クリスタル』が発売。

前述のCICビクターからは『レイダース』『ジョーズ』といったスピルバーグ作品をはじめ、『スター・トレック』シリーズなどユニバーサルとパラマウントのヒット作が続々LD化されました。

同じ6月には東宝もビデオディスクに参入。
東宝といえば、ゴジラシリーズなどの特撮映画や黒澤明監督作品、それに『ルパン三世』などの傑作アニメも多数擁する老舗映画会社です。
最初に発表された東宝LDのラインナップを見た私は文字通り狂喜乱舞して即予約したものでした。

また、バンダイもLDに参入して『未来少年コナン』『ウルトラセブン』『ウルトラQ』の全話LD化をスタート。

そして11月末、待望の『ルパン三世カリオストロの城』のLD発売。
思い起こせば、私が最初に「ビデオデッキを買いたい!」と行動を起こしたのはこの『カリオストロの城』のTV放送を録画して何度も観返したいがためでした。
この最重要タイトルが、TV放映を上回る高画質とノートリミング(ビスタサイズ)で手に入ったのです。
とりあえず’85年のLDリリースラッシュは『カリオストロの城』購入でひと段落つきました。
LDを収納したカラーボックスは既に満杯状態で、時々全部のディスクを床に並べてニンマリしていたこともありました。
【さよならの季節】

「好きな映画やアニメを手元に置いて好きな時に好きなだけ見ていたい」
こんな中学時代からの夢が実現した喜びに、当時の私の金銭感覚は完全に麻痺していたと思います。
毎月2~3タイトル、多い月だと15枚ものLDを買ったこともあり、春から年末までの9ヶ月間で40枚近くも買っておりました。
一枚1万円と仮定しておよそ40万円もLDソフトに注ぎ込んでいたわけです(汗)。
大学には必要最小限しか行かなくなり、企画書や脚本を書いて準備していた8ミリ映画制作もアルバイトを優先してストップしてしまいました。
最初のうちは「無駄使いし過ぎだよ」と注意してくれていた彼女も次第に何も言わなくなりました。
でも、私はそんな彼女の変化を特に気にしてはいませんでした。
彼女が通っていた専門学校は3年制だったため、私が4回生になる翌年春には彼女は学校を卒業することになります。
そのため「卒業のための課題制作や試験の準備で大変なんだろう」くらいにしか思っていなかったのです。
実際、9月の末頃には「卒業したら大阪で就職してK君(私)と一緒に住みたいな」と同棲の相談までしていたくらいで、私自身も「俺はこのままこの子と結婚するんだろうな」と夢想しておりました。
しかし、私は彼女に甘えていただけだったのかも知れません。
付き合い始めてから1年と少し経った’85年12月中旬。
突然彼女から「大事な話がある」と深刻な声で電話がかかってきたのです。
このとき、私の頭の中に浮かんだのは「妊娠」という言葉でした。
身に覚えがあるからです。
一瞬目の前が真っ白になり、続いて「彼女とならこのまま一緒になっても・・・」とか「でも大学はあと1年あるしどうしよう」とか色々な考えが頭の中を巡りました。
しかし、最終的に「学生結婚でも出来ちゃった婚(今は授かり婚と呼ぶらしい)でも構わない。責任を取ろう。」と覚悟を決めて待ち合わせの店に向かいました。
指定された店はそれまで一度も入ったことのない隣の市の喫茶店でした。
私は約束の時間より10分以上前に到着しましたが、彼女はすでに奥の席で真剣な表情で待っていました。
席に着いて注文したコーヒーを待つ間お互い無言の時間が過ぎましたが、私は彼女がいつ「できちゃったみたいなの」と言葉を発するかと身構えておりました。
ところが!。

出されたコーヒーに口をつけようとした瞬間、彼女は突然別れ話を切り出してきたのです。
私はもう一度目の前が真っ白になりました。
以下、彼女に言われたことを要約すると・・・。
貴方が自主映画作りに時間とお金の全てを注ぎ込むのは構わない。
むしろそこが好きだった。
オーディオの趣味も男の子っぽくて可愛かった。
自分も好きな音楽を良い音で聴かせてもらえて楽しかった。
でも、レーザーディスクを大量に買うようになってから貴方はおかしくなってしまった。
最初のうちはオーディオの延長くらいに思っていたけれど、ここ半年ほどの買い方はいくらなんでも常軌を逸している。
正直、レーザーディスクを床に並べてうっとり眺めている貴方が気持ち悪かった。
そしてレーザーディスクにばかりお金と時間を費やして自主映画作りをやめてしまったのも悲しかった。
一番ダメなのは3回生も終わりに近づいているのに就職活動を始めようとしないこと。
そんな人とはとても将来を共にすることなど出来ない。
だから故郷の新潟で就職を決めてきた。
同棲の話は忘れて欲しい。
彼女が席を立った後、私は30分近く席に座り込んだまま呆然としていました。
店員さんや周囲のお客さんの目からは明らかに「女にフラれた情けない男」に見えていたと思います。
初めて入った店だったため見知った店員や客が居なかったことが救いでしたが、それは彼女の最後の気遣いだったのかも知れません。
翌日「もう一度だけ話を・・・」と思って電話してみたものの既に解約されていて繋がらず、住んでいたアパートを訪ねてもいつの間にか引き払われていてその後二度と会うことはありませんでした。
。 ゚(゚´Д`゚)゚。
本当に・・・本当に、昭和60年(1985年)は私にとって色々なことがあった年でした。
長い話に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
次回は、性懲りもなく新しいAV機器を購入したことと、そこから新たに始まったサラウンドの話になります。