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映画と日常

おじいちゃんのいちばん長い日

CATEGORY映画全般
トガジンです。

先日、58歳にして私が初めて知った母方の祖父の話です。

毎年お盆の時期は、墓参りのたびに母から戦中戦後の苦しかった時代の苦労話を聞かされるのが我が家の恒例です。
その内容は、多少デティールの増減はあるものの毎年ほぼ同じ話ばかりでした。

幼かった母は近所のお兄さんが出征していったとき訳も分からずバンザイ三唱したこと。
そのときお饅頭がもらえたことが嬉しくて「またバンザイしないかな」と思っていたこと。
母は祖父の出征時にはまだ祖母のお腹の中にいたため、終戦後帰ってきた祖父に「お父さんだよ」と言われても実感が無かったこと。
戦後の食糧難の時代にまだ赤ん坊だった妹と弟が立て続けに亡くなってしまった・・・などといった話です。

ところが!。
今年母が聞かせてくれた話は今まで一度も聞いたことのない、そしてとても意外な内容でした。
例年と同じく母の実家のお墓と仏壇にお参りしたとき、仏間に飾られた祖父の遺影を見ながら初めて祖父の戦争経験の話を聞かせてくれたのです。



私は小学生の頃には夏休みや正月には必ず祖父母の家へ行っていましたが、祖父の口から戦争中の話を聞かせてもらったことは一度もありません。
それどころか、母が幼い頃の私に「おじいちゃんはね、戦争の時・・・」と話して聞かせようとすると「子どもに戦争の話なんかするな!」と凄まじい剣幕で母を叱っていたことを鮮明に覚えています。
私は「おじいちゃんは軍国主義時代のように孫が戦争に憧れを抱くことを心配したんだろう」とか「もしかすると中国あたりで現地の人になにか酷いことをしてしまったのだろうか?」と考えて、祖父に戦争時代のことを訪ねることは避けておりました。

しかし、この日母が初めて語って聞かせてくれた祖父の戦争体験話は本当に驚くべきものでした。
それは母が小学生くらいのとき祖母から聞かされた話とのことですが・・・。

なんと祖父は戦争当時、普通の兵隊さんではなく皇居の警護にあたる近衛兵だったのです。

『日本のいちばん長い日』より 宮城を警備する近衛兵団
近衛兵といえば軍隊の中でも特別な存在であり、各地から選抜されたエリート集団です。
祖父は最初に出兵したとき様々な点でとても優秀だったことから近衛兵に抜擢されたとのことです。
当時それは家として大変名誉なことでしたし、「近衛兵なら戦死することも無いだろう」と祖母も曾祖母もとても喜んだそうです。
実際、祖父はとても頭が良く、終戦後福井に戻ってからも様々な地元役員を歴任して周囲の人からも頼られる人でした。
また、生まれつきかあるいは軍隊で鍛えられたからか体躯も良く、60代の頃一緒に山登りした友人が怪我をして遭難しかけたとき、祖父は一人でその友人を背負って無事下山してきたという偉丈夫でもありました。
それと、若い頃の祖父の顔写真を見るとかなりの男前で、私も「自分の顔もこっち(母方)のおじいちゃんから遺伝してたら良かったのに・・・」と何度思ったか知れません(笑)。
近衛兵の条件には見た目の良さも加わっていたそうなので、祖父の風貌と体格なら近衛兵に選ばれたのも納得がいきます。

私が知る限り、祖父の欠点といえば一定以上酒を飲むと急に説教魔になることと、同じ孫でも女の子ばかりを可愛がる傾向が強かったことくらいです(笑)。



しかし、祖父が近衛師団所属だったことが事実だとすると、自分の孫たちに戦争の話をしたがらない理由が分かりません。
近衛兵であれば、子供に語って聞かせることが憚られるような酷い経験はしていないと思います。

『日本のいちばん長い日』より 近衛歩兵連隊
しかし、私はそのとき昭和20年8月14日から15日にかけて皇居で起きた宮城事件のことを思い出しました。
宮城事件とは、天皇陛下が国民に対し「連合国軍に降伏する」ことを伝える玉音放送を阻止しようと、徹底抗戦を訴える陸軍士官の一部が暴走して皇居と放送局(NHK)を襲撃した事件です。
つまり、当時近衛師団に所属していた祖父はあの宮城事件をなんらかの形で直接体験した可能性があるのです。

『日本のいちばん長い日』より 近衛兵が宮城を包囲
宮城事件では、陸軍士官のニセ命令書に騙された一部の近衛連隊が宮城封鎖や玉音盤捜索に協力したと言われています。

ここからはあくまで私の想像ですが、祖父はもしかするとこの騙された連隊に属していたのではないでしょうか?。
そして(知らなかったとはいえ)本来の任務からかけ離れた浅ましい行為に手を染めてしまったことを、戦後もずっと恥じ続けていたのかも知れません。
だから、自分の子や孫たちに戦時中の話を語ろうとしなかったのではないでしょうか?。



『日本のいちばん長い日』ポスター画像
私がTV放映で岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』を見て宮城事件のことを知ったのは高校生のときでした。
当時は映画に興味を持ち始めた頃だったこととそのパワフルな演出と演技に圧倒されて、宮城事件についても図書館などで当時のことを色々と調べたくらいに衝撃を受けた映画でした。
もし、あの頃の私が「自分の祖父が元近衛兵であり、あの現場に居合わせていた可能性がある」と知っていたら・・・?。
私は毎日祖父の家に通ってなんとかして当時の話を聞かせて欲しいと頼み込んだと思います。

祖父は’02年に88歳で他界しましたが、結局戦争中の話は何も語らないまま墓の中まで持って行ってしまいました。
自分のすぐ近くに歴史の生き証人が居たというのに、そのことを知らないまま話を聴く機会を失ってしまったことが今も残念でなりません。


最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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COMMENTS

2 Comments

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へろん  

おはようございます。
ご祖父様が近衛兵を務められていたとのこと、それだけでもすごい事だと思いますが、あの時代にあの場所におられたというのは、もしかすると軽々と口にしにくいような大きなことも経験されたのでは、と拝察します。
宮城事件のようなクーデターが本当に実現してしまった歴史を描いた、小松左京『地には平和を』を思い出しましたが、本当に歴史の分岐点に立ち会われていたような気がしますね。

うちの祖父は兵庫県の餘部鉄橋建設に係ったらしい、ということぐらいしか聞いていませんが、私も可能だったらもっといろんなことを聞いておけばよかった、と思います。
軽々しく聞きにくいという部分もある一方、日本や世界の歴史というのもつまるところ個人の歴史の集合ですから、やはり貴重な「記録」は残されていってほしいですね。

2022/08/19 (Fri) 06:20 | EDIT | REPLY |   

トガジン  

へろんさん、コメントありがとうございます。

>近衛兵

祖父が当時近衛兵で終戦時は皇居の警護に当たっていたことは間違いないようです。
本人は何も語ろうとしませんでしたが、母の話では年配の親戚縁者や母の実家の近所のご老人はそのことをよく知っていたらしいですから。
祖父があの歴史的事件の只中に居たのだとしたら(祖父がどう関与したにせよ)孫としては誇らしい気持ちです。

>歴史の分岐点

この言葉を見てふと思いだしたのですが、「広島・長崎に次ぐ第3の原爆目標は東京を予定していた」という話を聞いたことがあります。
もしも、陸軍の宮城クーデターが成功してポツダム宣言受諾があと数日遅れたりしたら・・・?。
祖父の頭上に原爆が炸裂して、現在存在している叔母と叔父(祖父が復員後に生まれた母の妹と弟)は存在しないことになり、さらにそこの従兄妹たちも最初から居ないことになります。
また、残された母たちも戦後は現実以上の苦労を強いられることになり、もしかするとそのせいで私も存在しなくなっていたかも知れません。
ふとそんなSFっぽいことも考えてしまいました。

>餘部鉄橋

餘部鉄橋って、昔強風に煽られて電車が何十メートルもの高さから落下して民家に落ちた事故があったところですよね。
実は事故の数年後に現場を通ったことがあったのですが、橋脚自体はすごく立派な作りで「明治時代にこれだけのものを作ったのか!?」と畏敬の気持ちで見上げてました。
へろんさんのお祖父さんはあの事故のニュースを見て何を思ったのでしょうか。

2022/08/20 (Sat) 00:00 | EDIT | REPLY |   

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