『宇宙戦艦ヤマト』第一作 私的全話見どころ紹介(第21話~最終話)

ようやく最終回までたどり着きました(笑)。
『宇宙戦艦ヤマト』第一作TVシリーズ全話紹介記事もこれでラストとなります。
今回は第21話から最終話までの個人的見どころ紹介と全体の総括です。
第21話「ドメル艦隊!!決死の挑戦状」

この回だけ、何故かヤマトがワックスがけしたみたいに艶々です(笑)

第21話の作画は、後に『機動戦士ガンダム』で名を馳せることになる日本サンライズが下請けプロダクション時代に参加しています。
絵コンテマンとして参加していた安彦良和さんの縁で繋がりが出来たのでしょうか。
『ヤマト』には初参加の人ばかりのはずなのに、芦田豊雄さんや岡迫亘弘さんとも肩を並べるくらい安定した作画力を持っています。
最初からこのチームにローテーションに加わって欲しかったです。


本放送当時は白黒テレビで見ていたため、七色星団と言われても全然ピンときませんでした。
あと、ドメルの元に集結した色とりどりの宇宙空母も白黒テレビでは全然区別がつかなかったです(笑)。
【水杯】


沖田艦長は決戦を前に全乗組員を集めて水杯を交わします。
この場面には、かつて大日本帝国軍人に憧れて育った昭和ひとケタ生まれの監修者の願望が如実に現れています。

そもそも水杯とは、「二度とは会えないであろう別れの際に酒のかわりに水をついだ杯を交わすこと」です。
そのため、太平洋戦争末期には神風特攻隊の出撃前に上官や仲間たちと水杯が酌み交わされていました。
しかし「『宇宙戦艦ヤマト』を絶対に戦争賛美アニメにしてはならない」と細心の注意を払って作ってきた松本零士監督たち戦後派スタッフにとってこれはとても危うい場面でした。
そこで、沖田艦長のセリフに「これは死別を覚悟するものではなく諸君との再会を期するためのものである」と付け加えました。
これにより、本来は二度と生きて会えない覚悟で交わす水杯を、勝利を祈願するための杯に意味を変えさせたのです。
【この一戦】

それでも戦前派スタッフの暴走は続きます。
沖田が決戦を前に全乗組員にかけたハッパがこちらのセリフです。
「人類の攻防をかけてこの一戦に期待する!。」
これの元ネタは、日露戦争でバルチック艦隊との戦いを前に海軍将校が部下たちに言った↓の言葉だと思います。
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。」
「三つ子の魂百までも」という言葉があります。
軍国教育を受けて育った昭和ひとケタ生まれの男たちは敗戦後に世の中が大きく変わっても「戦争に行って勇ましく戦い故国を護ためなら死をも厭わない」という美学を捨てきれないのでしょう。
あるいは「戦争を知らない子供たちに軍国教育の良さを教えてやる」みたいな気概もあったかも知れません。
いずれにせよ、『宇宙戦艦ヤマト』というアニメのそこかしこには様々な形で戦前派の想いがにじみ出ています。
だからと言って、昭和49年制作の『宇宙戦艦ヤマト』から戦争色を全て取り払ってしまったとしたら、こうして現在でも見られ続けることはなかっただろうとも思います。
昭和49年の平和日本の中にまだ微かに残っていた戦争の残り香が感じ取れるからこそ、TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』第一作は「時代を反映した名作」と称されるのです。
【ドメル艦隊】

一方のドメル将軍率いる艦隊はヤマト一隻に対し空母4隻と円盤型旗艦の計5隻体制。
しかも決戦場所として自分たちに有利な七色星団を一方的に指定します。
ヤマトに挑戦状を送り付けたことで「正々堂々」というイメージがあるドメル将軍ですが、中学生になって見返したときには「これのどこが正々堂々やねん」と突っ込まずにはいられませんでした(笑)。
【昭和52年、福井のヤマトブーム事情】

この21話も本放送当時は母と祖母が交通事故で入院中だったため、一時的に預けられた叔父の家の白黒テレビで見てました。
そのため、私が七色星団の決戦をカラー映像で見ることが出来たのは昭和52年公開の劇場版が最初です。
福井では、劇場版は都会より1ヶ月遅れの9月に公開されましたが、それまで福井で『ヤマト』の再放送は一度も無かったのです。
都会でのヤマトブームにようやく気付いた福井のTV局は慌ててTV版の再放送を始めましたが、それがなんとも間の悪いことに劇場版上映と完全に重なりました。

福井で『宇宙戦艦ヤマト』の再放送が始まった日(昭和52年10月25日)、地元の新聞にはこのような新番組並みの大きな宣伝が載りました。
こんなことからも当時(昭和52年)のヤマト人気がいかほどのものだったかが伺えます。
第22話「決戦!!七色星団の攻防戦!!」
この回も、本放送のときは叔父の家の白黒テレビで見ました。
当時見始めたとき、「あれ?、開始時間に遅れたのかな?。」と奇異に感じたことを覚えています。

なぜなら、いつもの「♪さらば~地球よ~」のオープニングが無く、いきなりタイトルだけが出てストーリーが始まったからです。
これは演出意図によるものではなく、単に時間枠に内容が収まらなくなったために仕方なく取った窮余の策だったらしいです。
【憎まれっ子世にはばかる?】
実は、本放送当時の『宇宙戦艦ヤマト』は、TV局からはかなり嫌われていた番組だったそうです。
その理由は「視聴率が低い」からではありません。
毎回毎回、納品が大幅に遅れるからです(笑)。
フィルムで納品されたアニメはテレシネと呼ばれる工程を経てビデオテープ化され、そのあと本編中にCMを挿入するポイントを確認する作業が必要となります。
現在では映像データとしてサーバーに入れてしまえばあとはパソコン操作で簡単に出来ますが、当時はその全てが手作業でした。
それが『ヤマト』は毎週毎週ギリギリで納品してくるため、放送実施部門としては実に迷惑な番組だったのです。
『ヤマト』がTV局に嫌われた理由はそれだけではありません。
毎回同じオープニングと予告・エンディングが付いていて、中間CM部分にアイキャッチでもあれば「●分●秒目でCM」と簡単に作業を済ませられます。
しかし!。
『ヤマト』はこの22話や最終回のように番組フォーマットを守らない(オープニングが無い)ことがある。
しかもその代わりにエンディングにいつものオープニングが使われて混乱する。
そもそも『ヤマト』のオープニング自体が西崎Pのこだわりから毎回のように変更が加えられて曲の始まりと終わり方が違う。
第2話の時みたいに急に「一部のシーンのBGMを差し替えたい」と無理難題を言ってくる。
(中略)
このように、放送を実施する部所にとってはさぞかし迷惑な番組だったことでしょう。
でも、再放送のときにはすでに本放送時のデータがあることと、視聴率がかなり取れるので文句を言う人はまず居なかっただろうと思いますけどね(笑)。
【NG回】

また、22話は本放送当時制作が遅れに遅れてNGテイクが交じったまま放送されてしまったという伝説の回でもあります。
例えば、瞬間物質移送機でヤマトに向かってワープさせたはずのドリルミサイル搭載機がまだ甲板上に残っているとか、声と口パクが全く合っていないといったものです。
これらのミスショットは本放送終了後にリテイクされて、再放送のときには演出意図通りの映像に差し替えられました。
西崎Pはこのリテイク作業に立ち会ったときに「TVアニメを再編集して劇場公開しよう」と思いついたという説があります。
もしそうだとすれば後世のアニメブームを作り出したきっかけはNGテイクだらけの『ヤマト』第22話だったということになりますね。
世の中何が幸いするか分かりません(笑)。
【密かなるエロス】

全編に渡って激しい戦闘シーンが続く第22話ですが、私はそんな中にもスタッフが割り込ませたエロティシズムを感じ取っておりました。
それは瞬間物質移送機によって、突如ヤマトの眼前に巨大なドリルミサイルが出現した場面です。

それを見た森雪はひどく怯えた表情で床にへたり込んでしまいます。
彼女は巨大なドリルミサイルを見て一体何を連想したのでしょうか?。
中学時代、自分と同じアニメ・特撮好きの親友T君にこの話をしたところ、「やっぱお前変態やな。」と一笑に付されました。
【第三艦橋の受難】

戦いの最後は、敗北を認めたドメルが旗艦を第三艦橋に接舷し、自爆して果てます。

沖田艦長の咄嗟の判断により艦底部の乗組員たちを上部へ避難させますが、映像のタイミングを見る限り間に合ったとはとても思えません。

しかも、ヤマト艦底部の被害の大きさを見た限りでは第三艦橋だけの被害では済まなかったことでしょう。
その後、第三艦橋(とその乗務員たち)はガミラス本土決戦の時にもかなり悲惨な最期を遂げることになります。
そのため、「第三艦橋=ヤマトの棺桶」みたいな不吉なイメージがつきまとうこととなりました。

でも、私はヤマトの中で最も危険なのは第三艦橋ではなく、第1~第3砲塔内部のオペレーターだろうと思うのですがね。
だって、戦闘になれば敵は真っ先にヤマトの砲台を潰しに来るはずですから。
第23話「遂に来た!!マゼラン星雲波高し!!」

ようやく大マゼラン星雲にたどり着いたヤマト。
本放送時、この23話の数日前に母が退院したことでようやく実家に戻ることが出来ました。
それまでの数本は白黒テレビで見ていた『宇宙戦艦ヤマト』もこの回から再びカラーで見られるようになりました。
【ええなあ、若いもんは】

古代はマゼラン星雲を背景に雪と一緒に記念写真。
雪の肩に手を回そうとして、シャッターと同時にピシャリ!。

古代「ひでえなあ。」
雪 「いいじゃないの、子供たちにパパとママの青春を語る思い出になってよ。」
古代「パパとママ?。誰のことだ?。」
ホントは分かってるくせに、この幸せもん!!。
あと、まるで古代をからかうかのようにさり気なく告白する森雪も可愛すぎます。
【ガミラス本土決戦】

その後、イスカンダルとガミラスが双子星であることが判明。
デスラー総統はガミラス本星にヤマトを引き込んで本土決戦を挑みます。

ガミラス本星は特殊な空洞惑星でした。
強力な磁力線でガミラス星内部に引きずり込まれ内部の海に強制着水するヤマト。
空洞惑星というSFアイデアはこの『宇宙戦艦ヤマト』で初めて知りました。
『センター・オブ・ジ・アース』とか『ゴジラvsコング』で地球空洞説が出てきたときも「ああ、ガミラス星のあれね。」と特に驚くこともなく受け入れておりました。

「やっぱり船は水の上だな。どうだいこの揺れ具合、いい気持じゃないか。」
敵の出方が分からないということで、まだ余裕綽々の古代。

ところがその海水が強力な硫酸であることが判明!。
慌てて上昇するも、第三艦橋はあえなく溶け落ちてしまいます。
以前ドメルの自爆の巻き添えになった時の第三艦橋クルーはおそらく苦しむことなく一瞬で死ねたと思います。
しかし今回第三艦橋内部に居た者たちは、何が起こったのかも分からないまま全員が硫酸を浴びて溶け死ぬというかなり悲惨な最期を・・・。
想像しただけでゾッとします(合掌)。
【主人公に語りかけるナレーション】

見せ場が多くて作画も良い回ですが、最後に思わずドキリとするところがあります。
それはラストのナレーションです。
ここまで客観的な立場を一切崩さなかった木村幌さんのナレーションが、この場面では突然主人公の古代に対し強い口調で語りかけたのです。

「古代どうした?、地球はキミを待っている!。」
映画やドラマで登場人物がカメラ目線で観客に語りかけることを「第4の壁を破る」と呼びますが、このナレーションの変化もまた何か一つの壁を破ったと感じます。

シナリオを読んでみると、脚本の段階から同じように書かれています。
つまり、木村さんのアドリブでもなければ急な思い付きで生まれたナレーションでもない、意図的にそう語らせたことは間違いありません。
第24話「死闘!!神よガミラスのために泣け!!」

沖田艦長の助言により、硫酸の海に潜って海底火山脈を波動砲で撃ち地殻変動を起こさせる作戦を実行に移したヤマト。
作戦は成功し、ガミラス本星全域が天変地異に襲われます。

思わぬヤマトの反撃にムキになったデスラー総統は都市部からのミサイル攻撃を命じます。
デスラーにとってこの戦いは絶対に負けられない本土決戦であり、それと同時に戦争を日常的なものとして育ってきた彼にとっての最大の楽しみ事でもありました。

しかし、そんなことをしてはガミラスの一般市民まで巻添えになってしまうと考えたヒス副総統は、必死の思いでデスラーにヤマトとの和平交渉を進言します。
・・・しかし!。

そのヒスを無言で射殺するデスラー。
このデスラー総統には、『宇宙戦艦ヤマト』に関わっている戦前生まれの高齢スタッフの思考が反映されているように思えます。
その描写をしたのは戦後生まれの「戦争を知らない世代」のスタッフだったと思います。
第21話でヤマト乗組員たちに水杯を酌み交わさせ、22話で天一号作戦(戦艦大和の沖縄特攻)のリベンジを描いた戦前派スタッフに相対するかのように、23話と24話ではデスラーが本土決戦を強行したことでガミラスという国が全てを失う姿を残酷に描いているのです。
七色星団戦において戦前派スタッフが太平洋戦争の精神的リベンジを果たした代わりに、今度は戦後生まれの若い世代が徹底抗戦と本土決戦をやってしまった場合の国の末路を描いてみせたのではないでしょうか?。

今回、第24話を見返していて、私はふと『日本のいちばん長い日』を思い出していました。
ポツダム宣言受諾に納得せず戦争持続と本土決戦を主張して、和平へとに向かう上官や政治家たちを襲撃し殺すことも辞さない若い陸軍兵士たちの姿がデスラーに重なって見えました。
【慈愛か偽善か】

ヤマトの決死の猛反撃を受けたガミラス本星は死の星と化します。
その惨状を見た古代は涙ながらに「我々がするべきことは戦うことじゃない。愛し合うことだった。」自戒の言葉を口にします。
第13話で少年時代の心優しい古代を見ていなければ(あるいは覚えていなければ)、これほど偽善的で理想主義的でクサいセリフはないでしょう。
でも、古代進は生来は争いごとの嫌いな優しい少年だったのです。
ここまでの航海ではやたら好戦的な態度を取ることが多かった古代ですが、そこばかり見ていた人にはひどく唐突で気恥ずかしいセリフに聞こえたはずです。
実際、私自身も中学時代は「今さら何を・・・」と白けた気分でこのセリフを聞いたものでした。
【イスカンダルへ】

しかし、この回のラストシーンだけは今でも最高レベルの名場面です。
ガミラス星を離れたヤマトの眼前に目的地イスカンダルが見えてくる。
このシーンのBGMは、「交響組曲・宇宙戦艦ヤマト」で言えば「出発」のテーマでした。
素晴らしい選曲です。

そして艱難辛苦を共に乗り切ってきた全てのヤマト乗組員たちに病床の沖田艦長から感謝のメッセージ。
「見たまえ、今、諸君の目の前にイスカンダルがある!!」
私、いつもこの場面にくるとどうしてかスーッと身体の力が抜けるのですよ。
ただアニメ見てるだけなのに達成感みたいな錯覚に陥ります。
そんな私も、今はもう沖田艦長より6つも年上になってしまいました・・・。
第25話「イスカンダル!!滅びゆくか愛の星よ!!」

イスカンダル星の生き残りはスターシア唯一人でした。
水平線の彼方にまで墓標が立ち並び、虚空には今や死の星と化した姉弟星ガミラスがまるで月のように浮かんでいる。
この場面は、まるで一枚のアートのようですらあります。
【再会】

ところが、スターシアは現在この星に地球人の生き残りが居ると言い、ヤマトに乗せて連れ帰ってあげて欲しいと言います。
その地球人とはなんと古代の兄:守でした。
感動的な兄弟の再会シーンではありますが、古代守の生存についてはこれまで何一つ伏線が描かれていません。
そのためかなり唐突な印象しかありませんでした。

古代守がイスカンダルで生存していたという展開は、本来のストーリー案には無かったもののはずです。
なぜなら、全26話編成に短縮される以前は、古代守はキャプテン・ハーロックと名乗って陰からヤマトを助けることに決まっていたからです。
本数が大幅に減らされたことでキャプテン・ハーロック案は破棄され、その代わりにスターシアに救われてイスカンダルで療養していたというよく分からない話に変更されたみたいです。
「分からない」といえばもう一点。
キャプテン・ハーロックになるにせよ、スターシアに救われたにせよ、制作スタッフはどうしてこれほどまで古代守を生き残らせることに固執したのでしょうか?。
これは中学生の時からずっと私にとって長年の疑問でした。

ただ、今回「太平洋戦争」と「高度成長期終了後の閉塞感」を軸に見返しているうち、一つ思い当たることがありました。

それは『宇宙戦艦ヤマト』放映開始の約半年前、昭和49年3月の出来事です。
終戦を知らないまま26年間もルバング島に居残り続けていた小野田寛郎少尉の生還が影響したのではないでしょうか?。
戦争で死んだと思われていた者が奇跡的に生き残っていた描写を加えることで、戦後派スタッフが軍国主義を引きずり続ける老齢の監修者との妥協点を見出そうとしたのではないかと思うのです。
そんな時代背景を加味しながら見なければ、「あの状況下で古代守が生き延びていた」なんて与太話に納得など出来ません。
【反乱者】

それよりも、14話からヤマトの航海に不安と疑念を吐露していた藪の反乱行動のほうが私にはリアルに感じられました。
星としての寿命が短いとはいえ、地球と全く同じ環境を持つイスカンダル星に居残りたいと宣言する藪以下数名の機関部員たち。
それだけならまだしも、人類の種を残す目的のためにヤマトで唯一人の女性である森雪を連れ去ってしまうという暴挙。
(なんならあとスターシアもいますし・・・。)

結局、藪たち反乱一派はイスカンダルの地殻変動から起きた津波や地割れのため全滅。
雪はかろうじてヤマトの救命艇に救われます。
ヤマト乗組員たちも決して一枚岩では無かったという辛いエピソードではありますが、こういった部分にこそ人間の弱さとか哀しさといったものを感じます。
【地球へ】

そしてヤマト出発の日。
古代守は地球への帰還を拒否し、愛するスターシアと共にイスカンダル星に残るという人生を選びます。

「兄さんとスターシアさんはイスカンダルのアダムとイブになったんだ。雪、今度は俺たちの番だぞ。」という古代のセリフに小さく頷く雪が可愛くて仕方ないです。
おいおい、古代よ。
それってプロポーズそのものじゃないか!?。

「地球へ向けてしゅっぱーつ!」
25話のラスト、この古代の希望に満ちた号令ショットが私が全ヤマト作品の中で一番好きな場面です。
最終話「地球よ!!ヤマトは帰ってきた!!」

残り1話でどう終わらせるかがなかなか決まらず、会議に会議を重ねてようやく脚本が完成したものの、いざ作画作業に入ろうとした時には予定されていた作画プロダクションが既に次の作品に取りかかっていました。
そのため、まず作画スタッフの確保から始めたそうです。
最後の最後までトラブル続きのアニメだったのですね(笑)。
最終回には「作画監督」という役職は存在しません。
これまで作画監督を務めてくれたチーフアニメーターたちに原画を描いてもらい、一部は松本零士先生自身も描いています。
そのため、最終回はほとんどの原画を作画監督クラスのアニメーターが手掛けるという逆に豪華な一本となりました。

古代を助けるために自らの生命を投げ出した森雪の死に顔は松本先生が自ら原画を描いています。
この画が松本先生の手による神秘的な絵であったことが、この後描かれる奇跡に妙な信憑性を与えたような気がします。

次に動かぬ雪の頬をそっとなでる古代は第1話から作画監督チームの軸として活躍した芦田豊雄さんの絵です。
この場面、小学生時代の私の目にどう見えていたかは覚えていませんが、中学時代には何かグッとくるものがありました。
やはりヤマトは小学生よりも中学高校くらいの年齢層をターゲットに作られていたのですね。

ただ、私はこの最終回での古代の独白シーンこそが、後に続編が作られたとき『ヤマト』がメロドラマ化してしまった根源だったのではないか?とも思っています。
最終回のこの場面が多感な中高生からの反応が良かったからだとは思いますが、「愛」なんてテーマは『宇宙戦艦ヤマト』スタート時点ではほとんど触れられていなかったはずです。
つまり、西崎プロデューサーが客受けを狙って「ヤマトのテーマは愛だ」などとぶち上げたに過ぎません。
【大団円】


沖田艦長の大往生と、森雪の蘇生という奇跡を描いて『宇宙戦艦ヤマト』は終了します。
色々と問題の多いアニメではありますが、それでも時々無性に見返したくなる不思議な魅力に満ち溢れていました。
【令和4年11月現在における総括】

TVシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』はアニメ番組としては実にいびつな作品です。
作画体制が安定せず、キャラクターの顔つきが毎回変化する。
作画や撮影のミスがやたら多い。
声優さんのセリフとキャラの口パクが全然合っていない、酷い時は画面に出ているキャラクターの声優さんを間違える。
主人公:古代進の人格設定が固定されておらず、回によって気性が激しかったり優しくなったりと性格がコロコロ変わる。
第10話では何人も乗っていたはずの女性隊員が後半は森雪以外一人もいなくなってしまう。
挙句は途中から敵の肌色や組織設定がガラリと変わる。
・・・等々、正直言って破綻している部分が多過ぎます。
悪く言えば「出来損ない」です。
しかし、私の目にはTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は即興の舞台劇のように見えるのです。
言い換えるなら、想いを伝えることが最重要で多少の間違いや設定変更なんか気にせず先へ先へと進むライブ感覚の作品ということです。
それは、大手制作会社が量産するアニメやベテランスタッフが揃って作る安定品質の作品には決して無いものです。
思えば、私がまだ小さい頃に深く心に刻まれた作品たち(例えば『帰ってきたウルトラマン』や『ゴジラ対へドラ』など)は、どれもいい歳した大人が子供相手に本気で何かを語りかけてくれていました。
しかし、その裏側では限られた予算の中で必死に知恵を絞り、連日徹夜を繰り返して時には殴り合いの喧嘩もしたであろうと想像もできます。
そうした作り手たちの想いと努力の痕跡が画面の端々から伝わってくる・・・私はそんな作品に強く惹かれるのです。
『宇宙戦艦ヤマト』も間違いなくその一つでした。
第1話を初めて見た瞬間から、私はこの作品の裏側に「子供向け番組に全力を注ぎ込んでいる素敵な大人たち」が大勢いることを本能的に感じ取っていたのだと思います。
個人的『宇宙戦艦ヤマト』偏愛記事に長々とお付き合いいただきありがとうございました。
でも、実はまだ終わりではありません(汗)。

先週の記事の最後で「松本零士先生の漫画版や各種小説版についても少し触れて終わりにしようと考えている。」と書きましたが・・・ゴメンナサイ!。
いざ書き始めたら、筆が止まらなくなって漫画や小説の部分だけでかなりの長さになってしまいました。
『宇宙戦艦ヤマト』書籍関係の思い出話を来週木曜にアップして、それで本当の終わりとします。