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映画と日常

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

トガジンです。

先日大阪に行っていた時にこんな映画も観てきました。
ライトノベル原作のファンタジック恋愛ストーリーとでも呼べばよいのでしょうか。
普段だったら絶対に観に行くことはないタイプの映画です。

ぼくは明日、昨日のきみとデートする』🈠
(劇場:TOHOシネマズ難波)
ぼくは明日、昨日のきみとデートする

では何故、いい歳こいたおっさんがこの映画を観に劇場に足を運んだのか?。
実は私、この映画の撮影にエキストラとして1シーンだけ参加していたのです。

エキストラ

撮影は今年の1月末、場所は滋賀県大津市の堅田という琵琶湖大橋のたもと付近の町でした。
場面は主人公の高寿(演:福士蒼汰)が愛美(演:小松菜奈)を実家の自転車屋に連れていくところで、二人を正面から捉えたカットの奥でバス待ちをしている男の役でした。
三木監督や助監督さんから「立ち上がりの動きは無しでお願いします」とか「動きをもう少しゆっくり」と色々要求されたので、画面には絶対に映っているに違いないと確信していました。
ところが、ドキドキしながら映画を観ていると私たちが参加したシーンは丸ごとカットされていました(泣)。

うーん、残念無念。
でもこんな事は、エキストラで撮影に参加しているとよくあることなのです。

このエキストラ参加のことは、このブログでも書きたくて仕方なかったのですが一応公開されるまでは我慢していました。
参加する際には「現場では写真や動画を撮らない」「公開まで内容を漏らさない」などの誓約書にサインしなければなりませんし、それを破ったことがバレると出入り禁止の可能性もあるのです。
特にこの映画の場合には福士蒼汰と小松菜奈という若手人気俳優が出演していることもあり、現場では情報漏洩に対して神経をとがらせていたように感じました。
あとでエキストラ仲間に聞いた話なのですが、大阪でのロケの時には「福士蒼汰が来ている!」とツイッターで情報拡散されて、野次馬が大勢集まってしまって撮影が出来なくなった一幕もあったらしいです。

ここ1~2年だけでも『シン・ゴジラ』『追補』『真田十勇士』そしてこの『ぼく明日』と映画撮影に参加させていただきましたが、現場写真が一枚もアップ出来ないでいるのはそのためです。


エキストラの話が長くなってしまいました。
ここからは、映画『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』についての感想です。

以下、この映画をお好きな方には不愉快な内容が含まれます。
あらかじめお詫び申し上げますとともに、この作品や主演の二人のファンの方はご覧にならないことをお薦めします。


【基本設定に難あり】

正直なところ、ストーリーといいますか基本設定そのものが全く成立していない気がします。

愛美は「時間が逆に流れている別の世界から家族で来た」と言っています。
これは二人にとっての30日間のお話です。

高寿にとっての1日目は愛美にとっての30日目(最終日)
高寿にとっての10日目は愛美にとっての20日目
高寿にとっての30日目(最終日)は愛美にとっての初日ということになっています。

高寿が愛美と過ごしたある一日の思い出も、高寿にとっての翌日に存在する愛美は過去の愛美なので、その思い出を彼女は「まだ知らない」という複雑な状況が展開します。
(ストーリーを文章で説明するのがとてつもなく難しい作品です)

小説ならば誤魔化しもきくのでしょうが、映画ではこのストーリーのおかしなところが露骨に視覚化されてしまいます。

まず、時間が逆に流れる世界の住人という愛美ですが、時間が逆行するのは日が変わる午前0時の瞬間のようです。
一日単位で見てみると、朝から晩までは高寿と同じ時間を過ごすことが出来ていて、深夜0時になった瞬間に昨日の愛美にバトンタッチしています。
愛美は、その日の朝に体験したことはその日の深夜まではちゃんと覚えていて、高寿と思い出を共有しているということです。

ハッキリいって、この設定は作り手にとって都合が良すぎます。
時間はリニアに流れるものですから、その逆行であれば一瞬一瞬の記憶の全てが過去のものに置き換わっているはずです。
極端にいえば、愛美の喋りも動きもビデオの逆転再生状態でなければこの場合はリアルと呼べないのです。
でもそれでは映画として成立しませんから、このような苦しまぎれの設定で誤魔化したのでしょう。

この映画の見所は、決して同じ時間の流れを共有出来ないカップルがそれでもお互いに理解し合おうともがくところです。
そのすれ違いの切なさが”泣きどころ”なのでしょうが、それを描くためにこんなご都合主義的な設定を持ってこられても感動することは到底不可能です。

恥ずかしながら、私が観ていて非常に下劣な考えを抱いた部分があります。
あの二人は何日目かにセックスしていました。
もしも愛美があの時が始めてだったとすると、高寿はその後は毎日処女の愛美とやり続けることが出来るということになります。
本当に下劣な感想でお恥ずかしいのですが、この設定を飲み込んだ瞬間にこういった歪んだ着想も出来てしまう作品世界であることは確かなのです。
「心が汚れてる」と言われれば返す言葉もありませんが、この世界観においては下劣でもなんでもそうなるのは事実ですし無理がある着想とは思っていません。

例えば、愛美は”一日毎に記憶がリセットされてしまう記憶障害”ということにでもしてくれたほうがよっぽど納得いきますし、作者の狙う感想シーンも成立すると思います。
(もっとも、そういう設定の映画は既にいくつか存在していますが・・・)

ラストで、二人の視点からフラッシュバック的に見せて盛り上げようとしていましたが、あれも完全に空振りに終わっていました。
あれは『アヒルと鴨とコインロッカー』や『フィッシュストーリー』で中村義洋監督が使っていた手法で、最後に登場人物たちの身に起こったことが繋がって見えることによって感動が一気になだれ込んでくるものでした。
しかし本作品では、そもそもの基本設定があやふやであるため出来の悪い冗長なリピートにすぎません。

それと、最後にもう一つ。
京都や滋賀県が舞台なのに、登場人物が誰一人として関西弁をしゃべらないというのはいかがなものかと思います。
かつて大阪に住んでいた者としては、このこともリアリティの無さに繋がっています。


酷評になりましたが、これは決して出演部分をカットされたことを逆恨みして書いたのではありません(笑)。

私が映画を評価するときに最も重視するのは、物語の良し悪しとそれを伝えるストーリーテリングの巧みさです。
それを体現するキャラクターや細部にまで気を配った映像・音声の演出が良けれ良いほど映画の評価は上がります。
そのスタンスから見た場合、ストーリー自体が破綻しているこの映画の評価は最低ランクとさせていただくしかないのです。


最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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