『この世界の片隅に』(その4:原作を読んで)
CATEGORYアニメ:カ行
トガジンです。
劇場へ映画を観に行けるのも年内では今日が最後になりそうです。
何を観ようか考えた揚げ句、今年一番良かったこの作品を観返すことにしました。
中途半端な作品を観てしまって禍根を残すよりは絶対にこのほうが良いです。
すでに4回目の観賞でしたが、観ているうちに自然とすずさんたちの生活に寄り添って追体験している自分がいました。
『この世界の片隅に』
(劇場:福井コロナシネマワールド)

今回はこれまでと違った気持ちでこの映画に向き合っていました。

先日、ついに原作漫画を全巻購入して読んだのです。
劇場パンフレットすら滅多に買わない私としては、これは本当に珍しいことです。
「映画が気に入ったのだから、お金があるならもう一度観ることに費やしたい」というのが私のスタンスなのです。

そのパンフレットも買ってしまいました。
ちなみに今年一年でパンフレットを買った映画は、『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』だけです。
私は以前、原作を知らない状態でこの映画を観て感じたいくつかの苦言を書いています。
原作から重要な部分がカットされてしまっていて、そのシーンの残りかすだけが画面に残っているために解釈をややこしくしているのではないかという考えでした。
(12/13up 『この世界の片隅に』(その2:ささやかな苦言) )
カットされたシーンの残りかすとは、例えば表紙が破れた周作のノートであったり、すずが付ける口紅であったり、映画では一度しか会っていないはずのリンのことを空襲の際にすずがずいぶん気にかけていたことなどです。
また、すずと周作の間に子供が出来ないということを映画の中ではっきりさせていないため、最後に戦災孤児を引き取るシーンが腑に落ちない気がしていました。
【すずとリン、そして周作】
やはり遊郭とリンに関する部分が大幅にカットされていました。
これは子供も観るであろうアニメ―ション映画ということに対する倫理的な配慮によるものでしょうか?。

映画では、すずがリンと会うのは闇市からの帰りに道に迷ったときの一度限りでした。
この時お互いに名乗ることもなく、リンの名前はお店の女将が彼女を呼ぶときに出たのみです。
後に空襲と大ケガと晴美を失ったこととで疲れ果てていたすずさんが、リンを気遣うほどの印象は残っていないと思われます。

原作では、すずが描いた絵を持って会いに行っています。

この時、文盲であるリンはある親切な客が自分のために書いてくれたという名刺を見せてくれます。
それはノートの表紙を破いたような紙に書かれていました。

後にすずは、周作の持っていたノートの破れがそれと一致することに気付いてしまいます。
自分と結婚する前の風俗遊びだったとはいえ、親しい友人が夫と関係を持っていたというのはショックだと思います。
確かにこんなシチュエーションは子供には見せられませんね(笑)。
【口紅】
口紅は仲良くなったリンがすずにくれるものと思っていたのですが少し違っていました。

ある時、すずはリンのいるお店へ行きますが接客中ということで会うことが出来せん。
この時九州弁の遊女テルが応対してくれましたが、彼女はひどい風邪で寝込んでいました。
すずはテルのために得意の腕前で南国の絵を描いてあげます。

花見の場でリンと再会したすずは、テルがあのあとすぐに亡くなったことを聞かされます。
最後まですずの描いた絵を楽しげに眺めていたというテル。
そのテルの形見として、リンはすずに彼女の口紅を手渡すのです。
あの口紅にはこんな哀しいエピソードが背景にあったのですね。
アメリカ戦闘機の銃撃で口紅が粉みじんになる映像がありましたが、あの瞬間にリンは亡くなっていたのかも知れません。

この口紅のやり取りは桜の木の上で交わされました。
さわさわと揺れるピンクの花に囲まれたすずとリンの姿を映画でも是非観たかったです。
【子供が出来ない二人】
これも子供向けとはいえないエピソードです。
しかし、やはりすずと周作の夫婦に子供が出来ないという部分を明確にしなければ、戦災孤児を引き取る場面を素直に受け入れることは難しいと思います。
意外にも原作ではこんなストレートな表現がありました。

私は以前、「アニメはすずを原作より幼いイメージで描いているため性生活を想像しにくい」といった旨を書きました。
ところが原作ではそのものズバリのシーンが存在しています。
しかしそれは決していやらしいイメージではありません。
そして、その後・・・

はっきりと「子供が出来ない」ことが明確化されていました。
アニメ版に夜の営みまでは必要ないと思いますが、この台詞だけはどこかにあってくれないとラストシーンにおける感動がすんなり心に届いてこない気がします。


これを知ったうえでなら、あの戦災孤児がすずに懐いた瞬間に養子にすることを決めた二人の気持ちがよく分かります。
更にそのあとのすずの「よう生きてくれんさったね」という台詞もカットされていましたが、ここまで表現していてくれれば生かせるはずだと思います。

原作を読んだうえで映画を観ると、これまで以上に北條家のその後に想いを馳せることが出来ます。
のんさんの声の演技も明らかにそれまでの少女っぽさから母性を感じさせるものに変化していて、すずさんは原作以上に”お母さん”になっていました。
【加えられた部分】
逆に原作には無かった要素が加わったことにより、映画への没入感が深まるものもありました。

映画でも一番最初の場面です。
漫画ではセリフは無いのですが、映画では「うちは、ぼーっとした子じゃいわれとって・・・」というすずの独白が重なります。
のんさんが演じたあのひと声で映画の世界に引き込まれたことを考えると、あのセリフの存在は映画化成功の第一歩でした。
【いつの日か完全版を!】
原作からオミットされた部分を確認することで、ようやく私も『この世界の片隅に』を堪能し尽くすことが出来たように思います。
しかし裏を返せば、これでは原作を知らなければ不完全さが目立ってしまう映画であるとも言えます。
この映画のプロデューサーによれば、片淵監督は当初2時間30分の長さで絵コンテを完成させていたとのことです。
それを製作費の制限のため2時間強に収まるよう一部をカットしたのですが、それがおそらくリンに関する部分だったと思います。
片淵監督はもちろん、プロデューサーも全長版を制作したい意向はあるとのことですが、これだけ評価が高ければ決して夢物語ではないと思います。
そのためにまたクラウド・ファンディングをやるというなら、私も喜んで参加させていただきます。
今回は『この世界の片隅に』完全版の制作を祈願するつもりで書かせていただきました。
お付き合いいただきありがとうございました。
劇場へ映画を観に行けるのも年内では今日が最後になりそうです。
何を観ようか考えた揚げ句、今年一番良かったこの作品を観返すことにしました。
中途半端な作品を観てしまって禍根を残すよりは絶対にこのほうが良いです。
すでに4回目の観賞でしたが、観ているうちに自然とすずさんたちの生活に寄り添って追体験している自分がいました。
『この世界の片隅に』
(劇場:福井コロナシネマワールド)

今回はこれまでと違った気持ちでこの映画に向き合っていました。

先日、ついに原作漫画を全巻購入して読んだのです。
劇場パンフレットすら滅多に買わない私としては、これは本当に珍しいことです。
「映画が気に入ったのだから、お金があるならもう一度観ることに費やしたい」というのが私のスタンスなのです。

そのパンフレットも買ってしまいました。
ちなみに今年一年でパンフレットを買った映画は、『シン・ゴジラ』と『この世界の片隅に』だけです。
私は以前、原作を知らない状態でこの映画を観て感じたいくつかの苦言を書いています。
原作から重要な部分がカットされてしまっていて、そのシーンの残りかすだけが画面に残っているために解釈をややこしくしているのではないかという考えでした。
(12/13up 『この世界の片隅に』(その2:ささやかな苦言) )
カットされたシーンの残りかすとは、例えば表紙が破れた周作のノートであったり、すずが付ける口紅であったり、映画では一度しか会っていないはずのリンのことを空襲の際にすずがずいぶん気にかけていたことなどです。
また、すずと周作の間に子供が出来ないということを映画の中ではっきりさせていないため、最後に戦災孤児を引き取るシーンが腑に落ちない気がしていました。
【すずとリン、そして周作】
やはり遊郭とリンに関する部分が大幅にカットされていました。
これは子供も観るであろうアニメ―ション映画ということに対する倫理的な配慮によるものでしょうか?。

映画では、すずがリンと会うのは闇市からの帰りに道に迷ったときの一度限りでした。
この時お互いに名乗ることもなく、リンの名前はお店の女将が彼女を呼ぶときに出たのみです。
後に空襲と大ケガと晴美を失ったこととで疲れ果てていたすずさんが、リンを気遣うほどの印象は残っていないと思われます。

原作では、すずが描いた絵を持って会いに行っています。

この時、文盲であるリンはある親切な客が自分のために書いてくれたという名刺を見せてくれます。
それはノートの表紙を破いたような紙に書かれていました。

後にすずは、周作の持っていたノートの破れがそれと一致することに気付いてしまいます。
自分と結婚する前の風俗遊びだったとはいえ、親しい友人が夫と関係を持っていたというのはショックだと思います。
確かにこんなシチュエーションは子供には見せられませんね(笑)。
【口紅】
口紅は仲良くなったリンがすずにくれるものと思っていたのですが少し違っていました。

ある時、すずはリンのいるお店へ行きますが接客中ということで会うことが出来せん。
この時九州弁の遊女テルが応対してくれましたが、彼女はひどい風邪で寝込んでいました。
すずはテルのために得意の腕前で南国の絵を描いてあげます。

花見の場でリンと再会したすずは、テルがあのあとすぐに亡くなったことを聞かされます。
最後まですずの描いた絵を楽しげに眺めていたというテル。
そのテルの形見として、リンはすずに彼女の口紅を手渡すのです。
あの口紅にはこんな哀しいエピソードが背景にあったのですね。
アメリカ戦闘機の銃撃で口紅が粉みじんになる映像がありましたが、あの瞬間にリンは亡くなっていたのかも知れません。

この口紅のやり取りは桜の木の上で交わされました。
さわさわと揺れるピンクの花に囲まれたすずとリンの姿を映画でも是非観たかったです。
【子供が出来ない二人】
これも子供向けとはいえないエピソードです。
しかし、やはりすずと周作の夫婦に子供が出来ないという部分を明確にしなければ、戦災孤児を引き取る場面を素直に受け入れることは難しいと思います。
意外にも原作ではこんなストレートな表現がありました。

私は以前、「アニメはすずを原作より幼いイメージで描いているため性生活を想像しにくい」といった旨を書きました。
ところが原作ではそのものズバリのシーンが存在しています。
しかしそれは決していやらしいイメージではありません。
そして、その後・・・

はっきりと「子供が出来ない」ことが明確化されていました。
アニメ版に夜の営みまでは必要ないと思いますが、この台詞だけはどこかにあってくれないとラストシーンにおける感動がすんなり心に届いてこない気がします。


これを知ったうえでなら、あの戦災孤児がすずに懐いた瞬間に養子にすることを決めた二人の気持ちがよく分かります。
更にそのあとのすずの「よう生きてくれんさったね」という台詞もカットされていましたが、ここまで表現していてくれれば生かせるはずだと思います。

原作を読んだうえで映画を観ると、これまで以上に北條家のその後に想いを馳せることが出来ます。
のんさんの声の演技も明らかにそれまでの少女っぽさから母性を感じさせるものに変化していて、すずさんは原作以上に”お母さん”になっていました。
【加えられた部分】
逆に原作には無かった要素が加わったことにより、映画への没入感が深まるものもありました。

映画でも一番最初の場面です。
漫画ではセリフは無いのですが、映画では「うちは、ぼーっとした子じゃいわれとって・・・」というすずの独白が重なります。
のんさんが演じたあのひと声で映画の世界に引き込まれたことを考えると、あのセリフの存在は映画化成功の第一歩でした。
【いつの日か完全版を!】
原作からオミットされた部分を確認することで、ようやく私も『この世界の片隅に』を堪能し尽くすことが出来たように思います。
しかし裏を返せば、これでは原作を知らなければ不完全さが目立ってしまう映画であるとも言えます。
この映画のプロデューサーによれば、片淵監督は当初2時間30分の長さで絵コンテを完成させていたとのことです。
それを製作費の制限のため2時間強に収まるよう一部をカットしたのですが、それがおそらくリンに関する部分だったと思います。
片淵監督はもちろん、プロデューサーも全長版を制作したい意向はあるとのことですが、これだけ評価が高ければ決して夢物語ではないと思います。
そのためにまたクラウド・ファンディングをやるというなら、私も喜んで参加させていただきます。
今回は『この世界の片隅に』完全版の制作を祈願するつもりで書かせていただきました。
お付き合いいただきありがとうございました。
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