『初恋のきた道』
CATEGORY外国映画:ハ行
トガジンです。
私にとって、観るたびに必ず泣いてしまう作品の一つです。
それは今回も例外ではありませんでした。
『初恋のきた道』(午前十時の映画祭)
(劇場:金沢フォーラス・イオンシネマ)

これまでにもDVDやWOWOWで何度か観ていますが、先日初めて劇場のスクリーンで鑑賞することが出来ました。
「午前十時の映画祭」にはいつも本当に感謝しています。
【午前十時の映画祭】

「午前十時の映画祭」とは、厳選された外国映画を週替わりで毎日午前十時からの一回に限り上映するという企画です。
過去の開催では『雨に唄えば』『ローマの休日』などの往年の名作を劇場のスクリーンで体験させてもらっています。
福井県では最初の2回のみ鯖江アレックスシネマで実施してくれていたのですが3回目からは撤退してしまった様子です。
以降は岐阜や滋賀など県外へ出向くしかなくなり、今回もお隣の石川県まで足を運んでいます。
<あらすじ>
都会で働く青年が 父の訃報を聞いて故郷の村に戻ってきた。
父はこの村の小学校の教師を40年以上一人で務めた人物であり、老巧化した校舎建て替えの陳情のため町に出かけた際に心臓病で急死したのだ。
老いた母親は、伝統通りに葬列を組んで村まで棺を担いで戻りたいと言い張って周囲を困惑させる。
その頑なな母の想いの奥には、若き日のふたりの恋物語があった。

映画の冒頭15分ほどの現代のシーンはモノクロ映像で描かれます。
「もうお父さんに会えないんだよ」
泣きじゃくる老いた母親の姿から、この夫婦の愛情の深さが伺えます。

過去のシーンに切り替わると、鮮やかなカラー映像になります。
季節は秋。
村に初めて学校が作られ、そのための若い教師が村にやって来ます。

母、チャオ・ディはこの時18歳。
どんな人が来るのかという興味本位で見に来ただけのはずが、一目でその先生に惹かれてしまいます。
映画では、ディを演じるチャン・ツィイーのアップ・ショットをこれでもかといわんばかりにたたみかけてきます。
彼女が可愛くて仕方がないという監督の想いが伝わってくるようです。
たまに同サイズのアップからアップへと繋いでいることさえあって、この映画にとって彼女の表情が重要であることを示しています。

チャオ・ディが一目惚れしたルオ・チャンユー先生。
善人であることは確かでしょうが、正直それほど男前とは思えないです(失礼)。
しかし、当時「字も読めない」文盲だったディには、大学を出ている彼のインテリジェンスがさぞかし輝いて見えたことでしょう。

このディのクローズアップ・サイズはこのシークエンス中で都合4回繰り返し使われますが、その都度ディの表情が変化していきます。
最初は友達と一緒に無邪気に眺めていたのが、次第に真剣な眼差しになり、目が合うと恥じらって一瞬目をそらしますがまた改めて彼の姿を探したりします。
先生を一目見て惹かれていく様子が、セリフ無しのカットバックとチャン・ツイイーの表情だけで短い時間で表現されていきます。

満面の笑顔で家路を走るディ。
このディの走り方というのが少し変わっていて、妙に印象に残ります。
着ぐるみのように分厚い冬服のせいで身体がしなやかに動かせず、ひょこひょことしたおかしなフォームになっています。

でも、この特徴ある走り方がラストでもう一度泣かせてくれるのですよ・・・。


前半は微笑ましくもいじらしいエピソードが満載です。
いつまでも彼を見ていたい。
自分を見てほしい。
声をかけてほしい。
もっと近くにいたい。
そんなディの熱病のような想いを、チャン・ツィイーは目の表情と息遣いをもって表現しています。
なんとかそばに行く方法はないものかと、遠くに住む子供たちを送っていく先生を待ち伏せる作戦に出るディ。
今ならストーカーといわれてしまいそうですが、この作品においてはただひたすらいじらしくて微笑ましいです。

置き忘れてしまったかごを、ルオ先生が直接手渡してくれました。
待った甲斐あって幸せなひと時です。

ところがある日、ルオ先生のもとに使いがやってきて至急町へ帰らなければならなくなります。
当時の中国では、共産党への反対勢力を排除しようとする「文化大革命」が起こっていました。
映画では明確に描かれてはいませんが、ルオ・チャンユーはおそらく右派として排斥されたにもかかわらずこの村へ教師としてやってきたものと思われます。


突然の別れにディは放心状態になり、揚げ句の果てにはルオの朗読の幻聴が聞こえてくる始末。
心の拠り所は「旧暦12月8日には帰る」という彼の言葉だけ。
荒れ放題になった学校を心をこめて掃除するディの姿が目撃されて、彼女の気持ちは村中の知るところとなります。

しかし、約束の旧暦12月8日になっても彼は帰ってきません。
ディは猛吹雪の中、町に向かって歩き始めたものの途中で力尽きてしまいます。
強い画です。
なんと本物の吹雪の中で撮影しています。
ディの覚悟を表しているみたいで痛々しいです。


翌朝布団の中で目覚めたディの耳に、再びルオの声が聞こえてきます。
また幻聴かと思いながらもふらふらと学校へとむかうと、そこでは村人たちが学校を取り囲んで先生の朗読を聞いていました。
そして、ディの姿を見つけると彼女のために道を開けてくれます。
「ルオ先生、ディが会いに来たよ!」
村人全員が二人を祝福するかのような再会シーンです。
どんなに我慢しても私の涙腺はここで完全決壊します。

ディの恋は成就するのに、誰も不幸にならない物語なのにどうしてこんなにも泣けてしまうのでしょうか。
先日、テレビで『はじめてのおつかい』を見ていて思い当たることがありました。
この映画を観ながら溢れる涙は、『はじめてのおつかい』の子どもたちを見ているうちにいつの間にか流れ出てしまう涙と似ています。
子どもの純粋とかひたむきとか健気さを見せつけられたときにこみ上げてくる感情と同じだったのです。

そして現代に立ち返り、画面は再びモノクロになります
父の教え子たちが大勢集まってくれたおかげで、村まで棺を担いで運ぶという伝統的な葬式は無事執り行うことが出来ました。
モノクロ映像による現代シーンで、色鮮やかなディの娘時代のエピソードをサンドイッチする構造になっています。
現代のシーンではディの老いた姿も隠さず見せていますが、そのことで幻滅するようなことはありません。
この作品について、「白黒の現代シーンなんかダルい、いらない」と言った輩がいましたがとんでもないことです。
上映時間90分のうちモノクロのシーンには前後合わせて30分もの尺が費やされていて、現代の老いたディと息子の描写が主題を浮彫りにするために必要なものであることは明らかです。
むしろ、ディとルオのボーイ・ミーツ・ガール的なストーリーだけだったら、今の日本に掃いて捨てるほどあるラブコメとなんら変わりありません。

そして私が最後にボロボロと涙をこぼしてしまうのがこの場面です。
教師になってこの村に留まって欲しいという両親の願いを振り切って都会に出ていた主人公。
そんな彼が、帰京する前に一日だけ亡き父が立ち続けた教壇に立って村の子どもたちに授業を行います。
その声はかつてディが聞き惚れ続けた若き日の父の声そっくりでした。
このシーンは私にとって非常に見につまされるものがありました。
実は私も、長男の身でありながら福井の家を飛び出して大阪の大学に進学したまま20年近くも帰ろうとはしなかったからです。
亡き父のように教科書を読み上げる息子を見つめる老いたディの姿に、私の身勝手を容認し続けてくれた両親を見る思いでなんだかとてもいたたまれなくなってしまうのです。
誰の言葉だったか「人が何かに感動するというのは、その人の後悔とか贖罪の念がもたらすものだ。」と聞いたことがあります。
私が『初恋のきた道』を観て最後に流す涙は、実は自分の両親への申し訳ない気持ちから来るものでありました。

再び若い頃のディが映し出され、あの特徴ある走り方で映画は締めくくられます。

初恋のきた道を駆けていくディ。
それはかつて夫が村にやってきた道であり、現在において町から帰ってきた道でもあったのです。
そういえば、映画の冒頭で息子が町から帰省してきたのもこの道でした。
二人の恋愛成就のあと、現在の葬儀シーンを経て老いたディが自分も死んだら父の隣に埋葬して欲しいという旨があります。
それを受けてこの走り去るディのリフレインを見ると、彼女が亡き夫の元へ走り去っていくようにも見えてしまうのは考えすぎでしょうか?。
この映画の原題は『我的父親母親』で、直訳すると「私のお父さんとお母さん」という作文の課題みたいなタイトルでなんとも味気ないものでした。
この原題を受けてあのラストシーンを見ると、ディの死を暗示したもののようになってしまいます。
邦題を『初恋のきた道』というディの視点によるものにしてくれたおかげで、失われた過去の物語ではなく二人の純粋な恋物語として観ることが出来るようになりました。
そのことが正しいかどうかは別として、この邦題を考えた人のセンスは本当に素晴らしいと思います。
なんだかとりとめがなくて申し訳ありません。
お付き合いいただきありがとうございました。
私にとって、観るたびに必ず泣いてしまう作品の一つです。
それは今回も例外ではありませんでした。
『初恋のきた道』(午前十時の映画祭)
(劇場:金沢フォーラス・イオンシネマ)

これまでにもDVDやWOWOWで何度か観ていますが、先日初めて劇場のスクリーンで鑑賞することが出来ました。
「午前十時の映画祭」にはいつも本当に感謝しています。
【午前十時の映画祭】


「午前十時の映画祭」とは、厳選された外国映画を週替わりで毎日午前十時からの一回に限り上映するという企画です。
過去の開催では『雨に唄えば』『ローマの休日』などの往年の名作を劇場のスクリーンで体験させてもらっています。
福井県では最初の2回のみ鯖江アレックスシネマで実施してくれていたのですが3回目からは撤退してしまった様子です。
以降は岐阜や滋賀など県外へ出向くしかなくなり、今回もお隣の石川県まで足を運んでいます。
<あらすじ>
都会で働く青年が 父の訃報を聞いて故郷の村に戻ってきた。
父はこの村の小学校の教師を40年以上一人で務めた人物であり、老巧化した校舎建て替えの陳情のため町に出かけた際に心臓病で急死したのだ。
老いた母親は、伝統通りに葬列を組んで村まで棺を担いで戻りたいと言い張って周囲を困惑させる。
その頑なな母の想いの奥には、若き日のふたりの恋物語があった。

映画の冒頭15分ほどの現代のシーンはモノクロ映像で描かれます。
「もうお父さんに会えないんだよ」
泣きじゃくる老いた母親の姿から、この夫婦の愛情の深さが伺えます。

過去のシーンに切り替わると、鮮やかなカラー映像になります。
季節は秋。
村に初めて学校が作られ、そのための若い教師が村にやって来ます。

母、チャオ・ディはこの時18歳。
どんな人が来るのかという興味本位で見に来ただけのはずが、一目でその先生に惹かれてしまいます。
映画では、ディを演じるチャン・ツィイーのアップ・ショットをこれでもかといわんばかりにたたみかけてきます。
彼女が可愛くて仕方がないという監督の想いが伝わってくるようです。
たまに同サイズのアップからアップへと繋いでいることさえあって、この映画にとって彼女の表情が重要であることを示しています。

チャオ・ディが一目惚れしたルオ・チャンユー先生。
善人であることは確かでしょうが、正直それほど男前とは思えないです(失礼)。
しかし、当時「字も読めない」文盲だったディには、大学を出ている彼のインテリジェンスがさぞかし輝いて見えたことでしょう。

このディのクローズアップ・サイズはこのシークエンス中で都合4回繰り返し使われますが、その都度ディの表情が変化していきます。
最初は友達と一緒に無邪気に眺めていたのが、次第に真剣な眼差しになり、目が合うと恥じらって一瞬目をそらしますがまた改めて彼の姿を探したりします。
先生を一目見て惹かれていく様子が、セリフ無しのカットバックとチャン・ツイイーの表情だけで短い時間で表現されていきます。

満面の笑顔で家路を走るディ。
このディの走り方というのが少し変わっていて、妙に印象に残ります。
着ぐるみのように分厚い冬服のせいで身体がしなやかに動かせず、ひょこひょことしたおかしなフォームになっています。

でも、この特徴ある走り方がラストでもう一度泣かせてくれるのですよ・・・。


前半は微笑ましくもいじらしいエピソードが満載です。
いつまでも彼を見ていたい。
自分を見てほしい。
声をかけてほしい。
もっと近くにいたい。
そんなディの熱病のような想いを、チャン・ツィイーは目の表情と息遣いをもって表現しています。
なんとかそばに行く方法はないものかと、遠くに住む子供たちを送っていく先生を待ち伏せる作戦に出るディ。
今ならストーカーといわれてしまいそうですが、この作品においてはただひたすらいじらしくて微笑ましいです。

置き忘れてしまったかごを、ルオ先生が直接手渡してくれました。
待った甲斐あって幸せなひと時です。

ところがある日、ルオ先生のもとに使いがやってきて至急町へ帰らなければならなくなります。
当時の中国では、共産党への反対勢力を排除しようとする「文化大革命」が起こっていました。
映画では明確に描かれてはいませんが、ルオ・チャンユーはおそらく右派として排斥されたにもかかわらずこの村へ教師としてやってきたものと思われます。


突然の別れにディは放心状態になり、揚げ句の果てにはルオの朗読の幻聴が聞こえてくる始末。
心の拠り所は「旧暦12月8日には帰る」という彼の言葉だけ。
荒れ放題になった学校を心をこめて掃除するディの姿が目撃されて、彼女の気持ちは村中の知るところとなります。

しかし、約束の旧暦12月8日になっても彼は帰ってきません。
ディは猛吹雪の中、町に向かって歩き始めたものの途中で力尽きてしまいます。
強い画です。
なんと本物の吹雪の中で撮影しています。
ディの覚悟を表しているみたいで痛々しいです。


翌朝布団の中で目覚めたディの耳に、再びルオの声が聞こえてきます。
また幻聴かと思いながらもふらふらと学校へとむかうと、そこでは村人たちが学校を取り囲んで先生の朗読を聞いていました。
そして、ディの姿を見つけると彼女のために道を開けてくれます。
「ルオ先生、ディが会いに来たよ!」
村人全員が二人を祝福するかのような再会シーンです。
どんなに我慢しても私の涙腺はここで完全決壊します。

ディの恋は成就するのに、誰も不幸にならない物語なのにどうしてこんなにも泣けてしまうのでしょうか。
先日、テレビで『はじめてのおつかい』を見ていて思い当たることがありました。
この映画を観ながら溢れる涙は、『はじめてのおつかい』の子どもたちを見ているうちにいつの間にか流れ出てしまう涙と似ています。
子どもの純粋とかひたむきとか健気さを見せつけられたときにこみ上げてくる感情と同じだったのです。

そして現代に立ち返り、画面は再びモノクロになります
父の教え子たちが大勢集まってくれたおかげで、村まで棺を担いで運ぶという伝統的な葬式は無事執り行うことが出来ました。
モノクロ映像による現代シーンで、色鮮やかなディの娘時代のエピソードをサンドイッチする構造になっています。
現代のシーンではディの老いた姿も隠さず見せていますが、そのことで幻滅するようなことはありません。
この作品について、「白黒の現代シーンなんかダルい、いらない」と言った輩がいましたがとんでもないことです。
上映時間90分のうちモノクロのシーンには前後合わせて30分もの尺が費やされていて、現代の老いたディと息子の描写が主題を浮彫りにするために必要なものであることは明らかです。
むしろ、ディとルオのボーイ・ミーツ・ガール的なストーリーだけだったら、今の日本に掃いて捨てるほどあるラブコメとなんら変わりありません。

そして私が最後にボロボロと涙をこぼしてしまうのがこの場面です。
教師になってこの村に留まって欲しいという両親の願いを振り切って都会に出ていた主人公。
そんな彼が、帰京する前に一日だけ亡き父が立ち続けた教壇に立って村の子どもたちに授業を行います。
その声はかつてディが聞き惚れ続けた若き日の父の声そっくりでした。
このシーンは私にとって非常に見につまされるものがありました。
実は私も、長男の身でありながら福井の家を飛び出して大阪の大学に進学したまま20年近くも帰ろうとはしなかったからです。
亡き父のように教科書を読み上げる息子を見つめる老いたディの姿に、私の身勝手を容認し続けてくれた両親を見る思いでなんだかとてもいたたまれなくなってしまうのです。
誰の言葉だったか「人が何かに感動するというのは、その人の後悔とか贖罪の念がもたらすものだ。」と聞いたことがあります。
私が『初恋のきた道』を観て最後に流す涙は、実は自分の両親への申し訳ない気持ちから来るものでありました。

再び若い頃のディが映し出され、あの特徴ある走り方で映画は締めくくられます。

初恋のきた道を駆けていくディ。
それはかつて夫が村にやってきた道であり、現在において町から帰ってきた道でもあったのです。
そういえば、映画の冒頭で息子が町から帰省してきたのもこの道でした。
二人の恋愛成就のあと、現在の葬儀シーンを経て老いたディが自分も死んだら父の隣に埋葬して欲しいという旨があります。
それを受けてこの走り去るディのリフレインを見ると、彼女が亡き夫の元へ走り去っていくようにも見えてしまうのは考えすぎでしょうか?。
この映画の原題は『我的父親母親』で、直訳すると「私のお父さんとお母さん」という作文の課題みたいなタイトルでなんとも味気ないものでした。
この原題を受けてあのラストシーンを見ると、ディの死を暗示したもののようになってしまいます。
邦題を『初恋のきた道』というディの視点によるものにしてくれたおかげで、失われた過去の物語ではなく二人の純粋な恋物語として観ることが出来るようになりました。
そのことが正しいかどうかは別として、この邦題を考えた人のセンスは本当に素晴らしいと思います。
なんだかとりとめがなくて申し訳ありません。
お付き合いいただきありがとうございました。
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